| 220px|thumb|ヴェルサイユ宮の「大理石の中庭」に安置されるコンモドゥス像。 |
| 父アウレリウスの胸像と似通った風貌が確認できる。 |
| 280px|left|thumb|180年-182年にかけての攻勢図。 |
| 父の死後、しばらくコンモドゥス帝はドナウ川軍団の総司令官として前線に留まりつつ、際限のない蛮族との戦いを終わらせるための講和を模索した。 |
| 半年近い交渉の末、蛮族とドナウ川沿いでの領土線を確定して戦争を終結させる。 |
| 講和の内容は捕虜となっていた軍団兵の返還と年貢の支払い(これは途中で免除された)、及びマルコマンニ族と同盟を結んでいたクアディ族が合計1万3000名の同盟兵を提供する事だったRomanHistoryLXXII。 |
| また両部族はローマ帝国軍の監督下に置かれ、周辺部族との戦争も必ず皇帝の裁可を求めるものとしたRomanHistoryLXXII。 |
| 同じくローマ軍に対する攻撃を狙っていたブリ族からは相手から講和が求められたが、コモドゥス帝は攻撃準備を整えるための物であると見抜いて拒絶した。 |
| 彼は幾つかの戦いでブリ族を攻撃し、人質を取る事を条件にした休戦を認めさせてブリ族を屈服させたRomanHistoryLXXII。 |
| その後も周辺部族にローマへの帰順と捕虜返還を条件にした講和案を結んで戦線の安定化を図ったRomanHistoryLXXII。 |
| マルコマンニ族が疲弊していた事から、同時代では「瀕死の相手を助けた」「中立地域の農地を捨てた」と講和は感情的に評価されていたRomanHistoryLXXII。 |
| 実際にはドナウ川流域の軍事的平和に繋がり、テオドール・モムゼンは膨大化していた軍事費の抑制に成功したと評している。 |
| ドナウ川の情勢安定をもってローマ本国に帰還、180年10月22日に凱旋式を挙行したHerodian'sRomanHistory1:7。 |
| 182年、元老院はコモドゥス帝に既に与えられている「ゲルマニクス」(Germanicus)の称号に加えて「ゲルマニクス・マキシムス」(GermanicusMaximus)の称号を与えた。 |
| 183年、アウフィディウス・ウィクトリヌスを共同執政官に指名したコンモドゥス帝は属州ダキアで蛮族の反乱に対する遠征軍を派遣した。 |
| この戦争がいかなる内容と推移を持ったのかは今日記録が残っていないために不明であるが、五皇帝の年に関わるクロディウス・アルビヌスとペスケンニウス・ニゲルが戦功を挙げた事は分かっている。 |
| 翌年、今度は属州ブリタンニアでハドリアヌスの長城を巡る蛮族との戦いが起き、立て続けに国境部隊が敗れ去る事件が起きた。 |
| コモドゥス帝は新司令官としてウルピウス・マルケルスを派遣した。 |
| マルケルスは自らの業績を誇示するべく、厳しい軍規をもって無慈悲に蛮族を打ち倒したRomanHistoryLXXIIが、厳しすぎる軍規に嫌気が指した兵士たちが軍団幕僚(レガトゥス)を指導者にして暴動を起こしてしまい、最終的にマルケルスがガリアに追放される事態に発展した。 |
| だが反乱は幕僚たちがコンモドゥス帝に忠誠を誓っていた為、皇帝の命令に従って武装解除された。 |
| 184年、元老院から「ブリタニクス」(Britannicus)の称号を与えられた。 |
| コモドゥス帝は兵士の罪を許す一方で属州ブリタンニアの全ての軍団幕僚を左遷したが、これはペレンニスによる讒言と伝えられる。 |
| 軍は幼い頃から前線を共にした皇帝に敬意を抱いていたが、ペレンニスには激しい憎悪を募らせた。 |
| カッシウス・ディオによれば処罰がペレンニスの命によるものと知ったブリタニア駐屯軍は1500名の有志でローマを訪れ、皇帝に窮状を直訴したという。 |
| コモドゥス帝は任地を離れて直訴しに訪れた兵士達を叱責したが、訴えを受けてペレンニス処刑を命じRomanHistoryLXXII、マルケルスも皇帝への反逆罪という名目で投獄された。 |
| 一方、ヘロディアヌスはペレンニスの内通者によって彼が反乱を計画していると知ったコモドゥス帝自身の判断によって、ペレンニスが処刑されたと書き残しているHerodian'sRomanHistory1:9。 |
| ローマの出来事を伝え聞いていなかったペレンニスの息子もコモドゥス帝により呼び出され、その途中で暗殺されたとされるHerodian'sRomanHistory1:9。 |
| コモドゥス帝は権力の分散による帝位簒奪の阻止を考え、総督や高官職の兼任や長期在任を禁じる事としたHerodian'sRomanHistory1:9。 |