| 1979年、イラン革命によってイランにシーア派イスラーム主義のイスラーム共和国が成立し、イラン政府は極端な反欧米活動を展開した。 |
| また、革命の波及を恐れていたのは欧米だけでは無く、周辺のバーレーン・サウジアラビアなどの親米派の湾岸アラブ諸国も同様であった。 |
| サッダームは、こうした湾岸諸国の危機感や欧米の不安を敏感に感じ取っていた。 |
| 1975年に当時のパフラヴィー朝との間で締結したアルジェ合意で失ったシャットゥルアラブ川の領土的権利の回復し、欧米諸国や湾岸アラブ諸国の脅威であるイラン・イスラーム体制を叩くことで、これらの国の支持と地域での主導権を握り、湾岸での盟主の地位を目指すというのがサッダームの戦略であった。 |
| 酒井啓子著「イラクとアメリカ」p48。 |
| また、サッダーム率いるバアス党政権は、イラン革命がイラク国内多数派のシーア派にも波及することを恐れていた。 |
| 実際、1970年代には、南部を中心にアーヤトゥッラー・ムハンマド・バーキル・アッ=サドル率いるシーア派勢力が、中央政府と対立していた。 |
| 1980年4月には、ターリク・アズィーズ外相を狙った暗殺未遂事件が発生し、さらに同外相暗殺未遂事件で死亡したバアス党幹部の葬儀を狙った爆弾テロが起こり、事ここに到ってサッダームは、ムハンマド・バーキル・サドルを逮捕し、実妹と共に処刑した。 |
| その間、イラン国境付近では散発的な軍事衝突が発生するようになり、緊張が高まった。 |
| 1980年9月17日、サッダームはテレビカメラの前でアルジェ合意を破り捨てて、同合意の破棄を宣言。 |
| 9月22日、イラク空軍がイランの首都テヘランなど数か所を空爆とイラン領内への侵攻が開始され、イラン・イラク戦争が開戦した。 |
| 戦争を開始した理由は、イスラーム革命に対する予防措置であると同時に、革命の混乱から立ち直っていない今なら、イラクに有利な国境線を強要できると考えたからである。 |
| 侵攻当初はイラクが優勢であったが、しだいに物量や兵力に勝るイランが反撃し、戦線は膠着状態に陥り、1981年6月にはイラン領内から軍を撤退させざるを得なかった。 |
| 1986年にはイランがイラク領内に侵攻し、南部ファウ半島を占領されてしまう。 |
| サッダームはイラン南部フーゼスターン州に住むアラブ人が同じ「アラブ人国家」であるイラクに味方すると思っていたが、逆にフーゼスターンに住むアラブ人たちは「侵略者」であるイラク軍に対して抵抗し、思惑は外れた。 |
| また、北部ではイランと同盟を組んだクルド人勢力が、中央政府に反旗を翻して武装闘争を開始した。 |
| イラクと敵対していた隣国シリアは、イランを支持してシリアとイラクを結ぶ石油パイプラインを停止するなど、イラクを取り巻く状況は日増しに悪くなっていった。 |
| こうした中、イラクは湾岸アラブ諸国に支援を求めた。 |
| 湾岸諸国もイスラーム革命の防波堤の役割をしているイラクを支えるため経済援助を行った。 |
| また、湾岸諸国だけで無く、イスラーム革命の波及を恐れた欧州先進国もイラクに援助を行った。 |
| イラクに石油利権を持つイギリス、フランス特にフランスは、981年の戦争開始後も1984年までに約50億ドルに相当する武器をイラクに供給し、1982年から1983年、フランスの武器輸出の40%はイラクがしめていた。 |
| などの欧州先進国、カフカス地方などに多くのムスリムを抱えていたソヴィエト連邦もイランからの「イスラーム革命」の波及を恐れてイラクを支援した。 |
| さらにイタリア、カナダ、ブラジル、南アフリカ、スイス、チェコスロヴァキア、中華人民共和国もイラクに武器援助を行った。 |
| サッダームは、イラン・イラク戦争が忘れられた戦争にならないように、戦争の停戦と先進国の利害を直接結びつけようとした。 |
| そのためにイラクは、1984年からペルシア湾を航行するタンカーを攻撃することによって、石油消費国を直接戦争に巻き込む戦術をとり始め、イランの主要石油積み出し港を攻撃した。 |
| この作戦が功を奏し、両国から攻撃されることを恐れたクウェートがアメリカにタンカーの護衛を求めた。 |
| これにより、アメリカの艦隊がペルシア湾に派遣され、英仏もタンカーの護衛に参加したのであった。 |
| 酒井啓子著「イラクとアメリカ」p58。 |
| 当時、反米国家イランの影響力が中東全域に波及することを恐れたロナルド・レーガン政権は、イラクを支援するため、まず1982年に議会との協議抜きでイラクを「テロ支援国家」のリストから削除した。 |
| 1983年12月19日には、ドナルド・ラムズフェルドを特使としてイラクに派遣し、サッダームと90分におよぶ会談を行った。 |
| 1984年にはイラクと国交を回復し、1988年に至るまでサッダーム政権に総額297億ドルにも及ぶ巨額の兵器供給や、ソ連製武器情報の供与を条件に、米中央情報局による情報提供を行った。 |
| だが、後に亡命したワフィーク・アッ=サーマッラーイー元軍事情報局副局長によると、サッダームは完全にはアメリカを信用しておらず、『アメリカ人を信じるな』という言葉を繰り返し述べていたという。 |
| 1988年にイランは停戦決議を受け入れた。 |
| イラクはアメリカを含む国際社会の助けで辛くも勝利した形となった。 |
| その一年後にはホメイニーが死去し、湾岸諸国と欧米が危惧した「イスラーム革命の波及」は阻止された形になった。 |
| そして、後に残ったのは中東の強大な軍事大国となったイラクであった。 |