| サンデーサイレンスは同馬の所有権を4分の1持つチャーリー・ウィッティンガムが管理することとなった。 |
| 調教を進めるなかでサンデーサイレンスの能力を感じ取ったウィッティンガムはハンコックに「あの真っ黒い奴は走る」と電話で報告し、ハンコックを驚かせたポーリック2002、65-66・75-76頁。 |
| サンデーサイレンスは1988年10月に初めてレースに出走したが2着に敗れ、翌11月に初勝利を挙げた。 |
| 12月の一般競走でふたたび2着に敗れたあと、ウィッティンガムは余力を残した状態で休養をとらせることにしたポーリック2002、76-80頁。 |
| 翌1989年3月2日、サンデーサイレンスはサンタアニタパーク競馬場で行われた一般競走でレースに復帰して優勝。 |
| さらに同月19日、重賞(G2)のサンフェリペハンデキャップをスタートで出遅れながら優勝した。 |
| この段階で主戦騎手のパット・ヴァレンズエラは「今まで乗った中でも最高の3歳馬」と評し、ウィッティンガムは「ケンタッキーダービーでも5本の指には入るだろう」と述べた。 |
| サンデーサイレンスはケンタッキーダービーの優勝候補として競馬ファンに認識され始めたポーリック2002、95-96・101-103頁。 |
| ウィッティンガムはサンデーサイレンスのケンタッキーダービー出走について「サンタアニタダービーが終わるまでは分からない」とも述べていたポーリック2002、103頁。 |
| が、4月8日にサンタアニタダービーを11馬身差というレース史上最大の着差サラブレ編集部(編)1998、31頁。 |
| で優勝したことを受けてケンタッキーダービー出走を正式に表明。 |
| 4月半ばにはケンタッキーダービーに備え同レースが行われるチャーチルダウンズ競馬場へサンデーサイレンスを移送したポーリック2002、105-110頁。 |
| ケンタッキーダービーはレース前日に20mmを超える雨が降り、1967年以来といわれる悪い馬場状態で行われたポーリック2002、115-116頁。 |
| サンデーサイレンスはスタートで体勢を崩し他馬と激しく接触し、直線で左右によれる素振りを見せる場面も見られた(ヴァレンズエラは馬場の両側から歓声を浴びせられて驚いたからだと、ウィッティンガムは馬場の内側のラチ沿いに並んでいた警備員に驚いたからだとしているサラブレ編集部(編)1998、34頁。 |
| が、1番人気のイージーゴアに1馬身半の着差をつけ優勝。 |
| レース後、ウィッティンガムは「この馬は三冠馬になる」と宣言したポーリック2002、119-125頁。 |
| ケンタッキーダービー優勝後、アメリカ三冠第2戦のプリークネスステークスに出走するまでの過程は平坦なものではなかった。 |
| まずレース1週間前の5月13日、サンデーサイレンスの右前脚に問題が発生(獣医師の診断は打撲または血腫による跛行)し、レースの4日前まで調教が行えなくなるアクシデントに見舞われたポーリック2002、127-132頁。 |
| サラブレ編集部(編)1998、35頁。 |
| さらにサンデーサイレンスはレースまでの期間をピムリコ競馬場で過ごしたが、数百人にものぼる観光客やマスコミが馬房に押しかけ、サンデーサイレンスは苛立った様子を見せるようになった。 |
| 陣営は馬房の扉を閉めてサンデーサイレンスを隔離する措置を講じたポーリック2002、133-134頁。 |
| ケンタッキーダービーを優勝したサンデーサイレンスであったが実力はケンタッキーダービーで1番人気に支持されたイージーゴアのほうが上と見る向きが多く、プリークネスステークスでもイージーゴアが1番人気に支持され、サンデーサイレンスは2番人気であった。 |
| レースは中盤を過ぎてからイージーゴアがサンデーサイレンスの外に進出し、サンデーサイレンスが前方へ進出するためのスペースを塞ぐ展開となった。 |
| そのままイージーゴアは先頭に立ったがサンデーサイレンスが猛然と追い上げ、15秒以上にわたる競り合いの末、数センチの差でサンデーサイレンスが先着し優勝したポーリック2002、136-140頁。 |
| サラブレ編集部(編)1998、36-37頁。 |
| ベルモントステークスではアメリカ三冠達成の期待がかかり、サンデーサイレンスはイージーゴアと対戦したレースで初めて1番人気に支持された。 |
| しかしレースでは残り400メートルの地点でイージーゴアに交わされるとそのまま差を広げられ、8馬身の着差をつけられ2着に敗れたポーリック2002、158-160頁。 |
| ベルモントステークス出走後、ウィッティンガムはブリーダーズカップ・クラシック優勝を次の目標に据えた。 |
| ウィッティンガムはじめ厩舎スタッフはサンデーサイレンスの体調の低下を感じ取っていたが、短い休養を取らせたあとでスワップスステークスに出走した。 |
| レースでは逃げの戦法をとったが残り400mの地点で突如失速し、プライズドに交わされ2着に敗れたポーリック2002、163-167頁。 |
| レース後、ウィッティンガムはレース途中でほかの馬を引き離し過ぎたことに不満を表したポーリック2002、167頁。 |
| 合田直弘はヴァレンズエラがサンデーサイレンスに鞭を入れ過ぎたことを敗因に挙げているサンデーサイレンスは鞭を打たれると癇癪を起すところがあった(ポーリック2002、204頁・さらば最強種牡馬サンデーサイレンス(『優駿』2002年10月号、16頁))。 |
| さらば最強種牡馬サンデーサイレンス(『優駿』2002年10月号、16頁)。 |
| 9月に入り、ウィッティンガムはブリーダーズカップ・クラシックに向けた前哨戦としてルイジアナ州のルイジアナダウンズ競馬場で行われるスーパーダービーへの出走を決めた。 |
| この時期にはサンデーサイレンスの体調は回復しており、レースでは2着に6馬身の差をつけて優勝したポーリック2002、169-172頁。 |
| ブリーダーズカップ・クラシックの1週間前、サンデーサイレンスの主戦騎手パット・ヴァレンズエラに対して薬物(コカイン)検査で陽性反応が出たことを理由に60日間の騎乗停止処分が下され、急遽クリス・マッキャロンに騎手が変更されるアクシデントがあった。 |
| しかしサンデーサイレンス陣営はイージーゴアが抱えていた脚部不安が深刻化していたことを察知し、勝利に対する自信を深めたポーリック2002、179-182頁。 |
| ベルモントステークスのあとG1を4連勝したイージーゴアもブリーダーズカップ・クラシックに出走することが決まり、このレースはエクリプス賞年度代表馬をかけた対決となった。 |
| 競馬関係者のなかには2頭の対決をボクシングのヘビー級のタイトルマッチに例えたり「10年に一度の大一番」と呼ぶ者もいたポーリック2002、189-190頁。 |
| レースではイージーゴアが1番人気に支持され、サンデーサイレンスは2番人気であったが、残り200メートルの地点で先頭に立つとイージーゴアの追い上げをクビ差しのいで優勝したポーリック2002、189-194頁。 |
| レース後、ウィッティンガムはサンデーサイレンスを、自身が管理したなかで「文句なしに最高の馬」と評しているポーリック2002、194頁。 |
| さらに翌1990年1月、1989年度のエクリプス賞年度代表馬、および最優秀3歳牡馬に選出されたポーリック2002、197-198頁。 |