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デイル・ヒバートが当初ベースを担当し、サウンド・エンジニアとして働くスタジオの施設と機材を貸して
デモテープを作ったが、2回のライブのあとベーシストはマーの友人アンディ・ルークに代えられた。
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マーとルークはかつてパリス・ヴァレンティノスというバンドを結成していた仲である(メンバーにはケヴィン・ケネディがいたが、後に彼はマンチェスターを舞台にした
モリッシーも偏愛する長寿テレビドラマ『コロネーション・ストリート』の人気俳優となった)。
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「スミス一家」というバンドの名前の由来は不明である。
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「ザ・スミス・ストーリー 心に茨を持つ少年」によると、
モリッシーに影響を与えたザ・フォールのメンバー、マーク E.スミスの名前をバンド名に引用したとの大方の憶測に対し彼らは否定したという。
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彼らはこの名前を、幻想的で気取ったバンドの名前、例えばオーケストラル・マヌヴァーズ・イン・
ザ・ダーク(OMD)や、
スパンダー・バレエなどに対する反発だと言ったことがある。
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{{要出典}}また、
モリッシーのアイドルの一人である
パティ・スミスにちなんだ可能性や、地元マンチェスターをショックに陥れた連続男児殺人犯マイラ・ヒンドリーの義理の兄弟、デイヴィッド・スミスにちなんだ可能性もある。
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別の説には、バンド名をスミスというイングランド人のありふれた名前にしたのは皮肉なジョークである(なぜなら、バンドのメンバーは全員アイルランド移民の子孫だから)というものもある。
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モリッシーは1984年のインタビューで「僕が(自分達のバンドをザ・スミスと呼ぶことに)決めた理由は、スミスは最もありふれた名前だからで、今は世界中の普通の人たちが顔を見せる時だと思うんだ」と述べている
[{{cite web | date=1984 | title=Interview | format=http | work=Melody Maker, ''cited at'' Hiddenbyrags.com | url=http://www.hiddenbyrags.com/mminterview1984.html | accessdate = 2007-04-22}}]。
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彼らは地元での評判をもとにラフ・トレードと契約し、最初のシングル『ハンド・イン・グローブ』を1983年5月13日にリリースした。
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これがBBCラジオ第1のDJ、ジョン・ピールの目に留まり、後のザ・スミスの全てのシングル同様、番組でプッシュされたが売れ行きは芳しくなかった[解散後、「スミスで一曲選ぶなら?」という問いにこの曲を挙げるファンは多い。]
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続くシングル『ディス・チャーミング・マン』『ホワット・ディファレンス・ダズ・イット・メイク?』はそこそこ売れ、音楽誌で取り上げられたりジョン・ピールやデイビッド・ジェンセンのラジオ番組に出演しての演奏につながった。
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ザ・スミスには熱心なファンがつき始めていた
[エルヴィス・コステロもインタビューで注目しているバンドとして アズテック・カメラ 等と共に挙げた - 「あと、ラフトレードから出てるスミスというバンドもいい」 - Rockin' On 1983年12月号でのインタビュー。]
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たぶんNME誌からの翻訳転載。
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モリッシーの気の滅入る、しかしジョン・ピールに大笑いさせるほどねじれたユーモアのある歌詞や、疎外され恋愛に苦しむ彼自身を反映した歌詞は、若者文化の中の不満に満ちた層、チャートを独占するシンセサイザー・バンドにはうんざりした層に支持された。
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ザ・スミスのビジュアルも独特だった。
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モリッシーとラフ・トレードのアートディレクターであったジョー・スリーがデザインしたアルバムやシングルには、彼ら自身の姿は一切登場せず、その代わり二色刷りで映画やポップスのスターが印刷されていた。
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また1980年代のイギリスなどでは
ニューロマン
ティックに代表されるような、エキゾチックなファッションにとりつかれたバンドや雑誌(「The Face」 や 「i-D」 など)が多かったが、ザ・スミスはただのシャツにただのジーンズという普通の服でステージに上った。
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モリッシーはほかにも小道具、たとえば偽物の補聴器、分厚い縁のメガネ、ズボンの後ろに挿した
グラジオラスの花束などを持って登場する事もあった。
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そして、実質3枚のシングルとライブのみの実績で、この年のNew Musical Express(NME)紙のリーダーズポールでブライテストホープ (最優秀新人) に選ばれ、俄然注目を浴びることになる(この年の2位は
ビッグ・カントリー。
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因みにベストバンド部門は
ニュー・オーダーで、翌1984年にはスミスがトップとなる)。