| 原型は沢田研二を除く4人で1965年に京都で結成された「サリーとプレイボーイズ」。 |
| 当初は、ベンチャーズなどのエレキインストナンバーを主なレパートリーにしていたが、同年12月に「サンダース」で活動していた沢田研二の加入で歌主体のいわゆるヴォーカル・インストゥルメンタル・グループへと路線変更。 |
| バンド名も「ファニーズ」に改称する。 |
| 当時、メンバー全員がファンクラブに加入していたザ・スパイダースの田邊昭知より「上京するならスパイダクション(現田辺エージェンシー)へ来ないか」と誘われたこともあった。 |
| 後日彼は「あのグループをデビューさせるとスパイダースの人気が危うくなる」と悟り以後何も無かったかの如く毅然とした態度で臨んだ、しかしその後ファニーズがザ・タイガースとしてデビューすると対抗馬としてザ・テンプターズをスパイダクションから送り込むがそれがかえって裏目に出てしまいスパイダースの人気はブルー・コメッツと共に一気に急降下していく。 |
| 大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」の楽屋へ向かう階段でブルージーンズの内田裕也から『君たち、俺と一緒にやんねぇか?』と声を掛けられたことがきっかけでナベプロ(渡辺プロダクション、現在のワタナベエンターテインメント)に所属する運びとなる。 |
| 1966年11月9日、新幹線こだまで上京。 |
| 11月15日、初出演のテレビ番組「ザ・ヒットパレード」(CX系列)収録当日、関西出身ということからすぎやまこういちによってバンド名をザ・タイガースに変更させられる。 |
| 加橋、瞳、森本が巨人ファンだったことから一瞬揉めそうになったが、「ここで了承しないと出演させてもらえないかも知れない」ということで納得した。 |
| また、当時アメリカ、カナダ、イギリス、そして日本などでビートルズを凌ぐ大人気だったアイドルグループ「モンキーズ」の存在を意識して動物名となった説もある。 |
| 近代映画 1967年12月号 近代映画社 130頁。 |
| 初のテレビ出演では、当時アメリカ本国に於いてモンキーズに次ぐアイドル人気となっていた元祖パンクロックバンドであるポールリビアとレイダースの『KICKS』を演奏。 |
| 国公立大卒初任給が東京で約3万5000円前後だった当時の価格で250万円もしたソニー製ビデオデッキ(オープンリール・白黒)で岸部の父の友人がこれを録画した。 |
| このビデオテープは岸部シローが保管しているという説があったが、現在は岸部の友人の息子が保管していることがTVで判明した。 |
| 1967年2月5日発売のシングル『僕のマリー』(1966年12月の録音時点でのタイトルは『マリーの想い出』)でデビュー。 |
| この頃、メンバーのニックネームが決まり、沢田は女優ジュリー・アンドリュースから「ジュリー」と名乗るようになる。 |
| 岸部は背が高かったことから、リトル・リチャードのシングル『のっぽのサリー』にかけて「サリー」、森本は本名から「タロー」、加橋はトッポ・ジージョに似ていることから「トッポ」、瞳はキューピーに似ていることから、幼少のころに乳母から呼ばれた二ックネームの「ピー」と呼ばれることになった。 |
| 5月発売のセカンド・シングル『シーサイドバウンド』で人気に火がつき、8月発売のサード・シングル『モナリザの微笑』で一気にマスメディアからクローズアップされ、折りからの爆発的なグループ・サウンズ(GS)ブームも相なって、ザ・タイガースは瞬く間にトップ・アイドルへと躍り出る。 |
| 1968年8月12日に日本初のスタジアム・ライブとなる「ザ・タイガース・ショー〜真夏の夜の祭典」を後楽園球場で開催。 |
| 11月25日には、トータル・コンセプト・アルバム『ヒューマン・ルネッサンス』タイガースのメンバーに創価学会員がいたことから『ヒューマン・ルネッサンス』というアルバムを出したとの情報もあったが、岸部四郎はこれを否定。 |
| ただし岸部によると、メンバーの一人が一時期創価学会に入信していたことは事実であり、合宿の時も仏壇を買ってきて南無妙法蓮華経を唱えるので他のメンバーから「それはマズいよ」と言われたことはあるという。 |
| (吉田豪『人間コク宝』p.25(コアマガジン、2004年)を発売し、社会現象とまで言われた圧倒的な人気の渦中でザ・タイガースはGSブームの頂点に立つ。 |
| グループ・サウンズのファンクラブは親衛隊と呼ばれたが、ザ・タイガース親衛隊の数は断トツで後々デビューする荒井由実(現:松任谷由実)は八王子の支部長であった、また、「追っかけ」と呼ばれる新しいファン行動も出現した。 |
| しかし、1969年3月に加橋かつみがザ・タイガースを脱退(所属事務所の演出による「加橋失踪」という茶番劇で、後に事務所側は謝罪会見を開いた)。 |
| 事務所のシナリオ通りに新メンバーとして岸部の弟・岸部シローが加入するも彼の加入により、タイガースの人気は下がったと本人が言っている。 |
| シローは兄・修三を通してタイガースのアマチュア時代から裏方的な貢献を行っていたが楽器歴は一切なかった状態での参加となり、当初はステージで演奏をするフリだけの存在であった。 |
| しかしその後ある程度のギターやタンバリンはこなせるようになり、1970年8月の田園コロシアムでのコンサートや解散コンサートでは実際に演奏しているのが映像でも確認できる。 |
| また、加橋がメイン・ヴォーカルをとっていた曲では代わりに歌っておりビージーズやドノヴァンの曲を好んで歌っていた。 |
| 、1969年も夏に差し掛かる頃には急速に音楽シーンが多様化、GSブームも終焉の兆しを見せ始める。 |
| そんな中、7月にはほぼ完全に沢田のソロシングルとも受け取れるような『嘆き』(岸部シローの薄いコーラス程度)を発売、秋からは日増しにグループとしての活動よりもメンバー個々の活動が中心となっていった。 |
| その後12月1日に沢田は初のソロ・アルバム『JULIE』を発表する。 |
| 1970年4月26日には日本万国博覧会のEXPOホール・水上ステージにて「ザ・タイガース・ショー」を開催するなど根強い人気を保つものの12月7日、ザ・タイガースは解散を表明。 |
| 翌1971年1月24日、日本武道館における「ザ・タイガースビューティフル・コンサート」を事実上の解散コンサートとして、ザ・タイガースは解散する(武道館では以前、新曲発表会を開いているので初演ではない)。 |
| この模様は日曜日ということもありテレビで生中継され、大幅に編集された実況録音盤(ライブアルバム)『ザ・タイガース・フィナーレ』として同年に発売された。 |