| 1821年4月9日、パリに生まれる。 |
| 父は、ジョセフ・フランソワ・ボードレール(JosephFrançoisBaudelaire)(1759-1827)、母は、カロリーヌ・アルシャンボー=デュフェー(CarolineArchimbaut-Dufays)(1793-1871)。 |
| 父方は富裕な農家。 |
| この年、ナポレオン・ボナパルト死亡。 |
| 1827年(6歳)、父フランソワ死亡。 |
| 1828年(7歳)、母が陸軍軍人と再婚。 |
| シャルルはこの義父を嫌う。 |
| 3人は間もなくリヨンに移り住み、シャルルはドローム私塾(PensionDelorme)からロワイヤル中学(CollègeRoyal)に進む。 |
| 1836年(15歳)、一家はパリに戻り、シャルルはリセ・ルイ=ル=グランに転校する。 |
| 1839年(18歳)、リセ・ルイ=ル=グランから放校される。 |
| 大学入学資格試験(baccalauréat)に合格する。 |
| 1839年-1841年、パンテオン近くのバイイ私塾(PensionBailly)に入れられる。 |
| オクターヴ・ワイエ(OctaveFeuillet)、ネルヴァル、ルコント・ド・リールらを知る。 |
| 文芸新聞に寄稿する。 |
| バルザックの門をたたく。 |
| 1841年4月(20歳)、シャルルの行状を案じた義父により、インド行きの船に乗せられる。 |
| 1842年2月(21歳)、モーリシャス島からパリに逃げ戻る。 |
| 乗船中に詩作する(のち「悪の華」に収める)。 |
| 4月、成年に達し、亡父の遺産を分与され、転居を繰り返した後、サン・ルイ島のオテル・ピモダン( |
| 以後二年間に、後に『悪の華』へ収録される詩編の大半を綴る。 |
| ヴィクトル・ユーゴー、サント・ブーヴ、テオフィル・ゴーティエを知る。 |
| 黒人混血女ジャンヌ・デュヴァル(JeanneDuval)と関係を持つ。 |
| 1844年(23歳)、禁治産者として弁護士の監視下に置かれ、売文の必要に迫られる。 |
| 1845年(24歳)、この頃自殺未遂を起こす。 |
| 美術批評、文芸批評の筆を執る。 |
| 1846年(25歳)、批評家として名を高める。 |
| この頃からエドガー・アラン・ポーに打ち込む。 |
| 1847年(26歳)、シャルル・ドゥファイスの筆名で『ラ・ファンファルロ』を発表。 |
| 1848年(27歳)、政治熱にかられる。 |
| ポーの翻訳を続ける。 |
| この年、二月革命が起こり、ナポレオン・ボナパルトの甥シャルル・ルイ=ナポレオンが大統領になる。 |
| 1851年(30歳)、政治熱が冷める。 |
| 1852年(31歳)、年末以降、サバティエ夫人(MadameSabatier)の文学サロンに出入りし、彼女に数篇の詩を捧げる。 |
| この年、シャルル・ルイ=ナポレオンがナポレオン3世として皇帝に即位する。 |
| 1853年(32歳)、「玩具のモラル(Moraledujoujou)」、「笑いの本質について(Del'essencedurire)」を書く。 |
| 後者の論考は、昨今の笑いについての哲学において使われる「有意義的滑稽」と「絶対的滑稽」という言葉を提唱したものである。 |
| 1855年(34歳)、ドラクロワ賛美の美術評論を書き、また、詩篇十八を発表して、初めて詩人と認められる。 |
| 1857年(36歳)、詩集『悪の華』を出版する。 |
| これはゴーティエに捧げられている。 |
| 治安裁判で六篇を削除され、罰金を科される。 |
| 散文詩六篇を発表し、サント・ブーヴに激賞される。 |
| 義父が没し、母カロリーヌとよりが戻る。 |
| 1858年(37歳)、『人工楽園』(Lesparadisartificiels)第一部を公表する。 |
| 1859年(38歳)、評論活動を続ける。 |
| 1861年(40歳)、35篇を追加した『悪の華』第二版を出版する。 |
| アカデミー・フランセーズの会員になろうとして諦め、世評を損ねる。 |
| 1863年(42歳)、梅毒による体の不調に悩み始める。 |
| 1864年(43歳)、負債に追われて4月末にパリからブリュッセルへ逃れる。 |
| 時折母カロリーヌや後見人を訪れ、金を無心する。 |
| 1865年(44歳)、ブリュッセルから痛烈な論陣を張る。 |
| 散文詩集『パリの憂鬱』(Petitspoèmesenprose,SpleendeParis)を書き進めるが、病勢進む。 |
| 1866年(45歳)、3月、ブリュッセル南東のナミュール(Namur)に遊んで倒れる。 |
| 脳神経の変調が現れ、言葉を失い、ブリュッセルの病院に収容される。 |
| 1867年(46歳)、8月31日、死亡。 |
| 9月2日葬儀、モンパルナス墓地に葬られる。 |
| 1869年、散文詩集『パリの憂鬱』が出版される。 |