19902
20100
223108
%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%AB7%E4%B8%96
%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%AB7%E4%B8%96
%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%AB7%E4%B8%96
%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%AB7%E4%B8%96
%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%AB7%E4%B8%96
0
|
|
|
ネットワーク
|
タグ
キーワード
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
つながりの強いひと
|
|
ルイ11世
フランス・ヴァロワ朝の王(在位:1461年-1483年)。慎重王(lePrudent)と呼ばれる。 |
|
|
シャルル8世
ヴァロワ朝第7代のフランス王(在位:1483年-1498年)。温厚王(l'Affable)と呼ばれた。イタリア戦争を始めたフランス王として知られる。 |
|
|
マリー・ダンジュー
フランス王シャルル7世の王妃。ヴァロワ家傍系のヴァロワ=アンジュー家出身で、アンジュー公ルイ2世と妃ヨランド・ダラゴン(アラゴン王フアン1世の娘)の長... |
|
|
フランソワ1世
ヴァロワ朝第9代フランス王(在位:1515年-1547年)。シャルル5世の曾孫でルイ12世の従兄に当たるアングレーム伯シャルル・ドルレアンと、サヴォイア公フィリ... |
|
|
シャルル6世
フランス・ヴァロワ朝の第4代国王(在位:1380年-1422年)。第3代国王シャルル5世と王妃ジャンヌ・ド・ブルボンの長男。親愛王(leBienaimé)、狂気王(leFol... |
|
|
ジャンヌ・ダルク
「オルレアンの乙女」(/)とも呼ばれるフランスの国民的英雄で、カトリック教会における聖人。百年戦争の際にオルレアン解放に貢献し、シャルル7世をランス... |
|
|
ヘンリー5世
ランカスター朝のイングランド国王(在位:1413年-1422年)。ヘンリー4世と最初の妻メアリー・ド・ブーンの子。クラレンス公トマス、ベッドフォード公ジョン... |
|
|
ジャン2世
フランス・ヴァロワ朝の第2代国王(在位:1350年-1364年)。初代国王フィリップ6世と王妃ジャンヌ・ド・ブルゴーニュの子。善良王(leBon)と呼ばれた。 |
|
|
ルイ12世
ヴァロワ朝第8代のフランス王(在位:1498年-1515年)。シャルル5世の曾孫。「民衆の父」(lePèreduPeuple)と呼ばれた。 |
|
|
フィリップ6世
フィリップ6世(PhilippeVIdeValois,1293年-1350年8月22日、在位:1328年-1350年)はヴァロワ朝初代のフランス王。アンジュー伯、メーヌ伯を兼ねる。フィリッ... |
|
|
ヘンリー6世
平和主義で敬虔だが、自身が直面した苛烈な抗争には不向きな人物として描かれた。彼の精神錯乱と生まれ持った博愛心は、やがて自身の没落とランカスター家の... |
|
|
イザボー・ド・バヴィエール
イザボー・ド・バヴィエール(IsabeaudeBavière,ドイツ語形はエリーザベト・フォン・バイエルンElisabethvonBayern,1370年頃-1435年9月24日)はフランス王シ... |
|
|
レオナルド・ダ・ヴィンチ
レオナルド・ダ・ヴィンチ(LeonardodaVinci,1452年4月15日-1519年5月2日)はイタリアのルネサンス期を代表する芸術家で、万能人(uomouniversale,ウォモ・ウニ... |
|
|
オルレアン
オルレアン(、オルレアン)、フランスの中部に位置する都市で、サントル地域圏の首府、ロワレ県の県庁所在地である。パリの約130km南西に位置する。 |
|
|
佐藤賢一
佐藤賢一先生略歴 1951年 新潟県村松町(現五泉市)生まれ 1974年 東京農業大学林学科卒業 1974年 新潟県林業公社(現農林公社)に勤務 2003年 有限会社 佐藤... |
|
|
シノン
フランス中部のサントル地域圏のアンドル=エ=ロワール県に位置するコミューンである。かつての州トゥーレーヌを庭に見立て、シノンは別名『フランス庭園の... |
|
|
ルイ13世
ブルボン朝第2代のフランス国王(在位:1610年5月14日-1643年5月14日)。初代アンリ4世の子。母はマリー・ド・メディシス。ブルボン朝創成期の王である。父王... |
|
|
エドワード3世
プランタジネット朝の第7代イングランド王(在位:1327年-1377年)。父はエドワード2世、母はフランス王フィリップ4世の娘イザベラ。妃はエノー伯ギヨーム1世... |
|
|
シャルル5世
ロレーヌ(ロートリンゲン) 公 (在位: 1675年 - 1690年 )。ただし、 ロレーヌ公国 は1670年以降、 ルイ14世 の フランス によって占領されており、在位... |
|
|
ルイ15世
ブルボン朝第4代のフランス国王(在位:1715年9月1日-1774年5月10日)。1715年に曾祖父ルイ14世の死により、わずか5歳で即位し、ルイ14世の甥に当たるオルレ... |
|
|
プロフィール
- シャルル7世とは
- ブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立
- ヘンリー5世、シャルル6世の死去
- ジャンヌ・ダルクとフランスの反撃
- 捕えられたジャンヌ・ダルクを何もせず見殺しに?
- 味方を平気で見捨てるシャルル7世
- 愛妾を殺害?
- 総括
- 脚注
ブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立
| 当時、フランスはブルゴーニュ派とアルマニャック派の内戦状態にあり、両派は王と王族の確保とパリの支配を巡って争いを繰り返していた。 |
| 1415年にこれを好機と見たイングランド王ヘンリー5世がフランスに侵攻し、アジャンクールの戦いでアルマニャック派を中心とするフランス軍に大勝し、ノルマンディーを征服した。 |
| シャルルには兄がいたが、王太子(ドーファン)であったルイが1415年に、次いで王太子となったジャンも1417年に死去した。 |
| そのため新たに王太子となったのであるが、間もなくブルゴーニュ派がパリを制圧すると、フランス南部のブールジュに逃れた。 |
| 1419年に王太子シャルルとブルゴーニュ公ジャン(無怖公)はイングランドに対して共闘すべく、和解の交渉を開始したが、交渉の場で王太子の支持者が無怖公を暗殺したため、跡を継いだフィリップ善良公はイングランドと同盟して王太子シャルルと全面的に対立し、トロワ条約を結んでヘンリー5世のフランス王位継承を支持した。 |
| この条約は、王太子シャルルの王位継承権を否認し、シャルル6世の死後は王太子シャルルの姉カトリーヌ(キャサリン)を妃にしたヘンリー5世がフランス王位を継ぐというものであった。 |
| その際に、カトリーヌとシャルル7世の母イザボー(対立派から淫乱王妃と呼ばれた)は、シャルルが王の子ではないことを示唆したとされ、以降シャルルは、正統な王の子ではないのかあるいは狂人の子なのか、悩むことになったといわれる。 |
ヘンリー5世、シャルル6世の死去
| しかし1422年、ヘンリー5世はヴァンセンヌの森で急死した。 |
| また、シャルル6世も同年10月21日に死去し、フランス王位はヘンリー5世とカトリーヌの間に前年に生まれたばかりのヘンリー6世がイングランド王位とともに継承することとなった(ただし、正式にフランス王として戴冠式を行ったのは1431年)。 |
| 一方、シャルル7世もアルマニャック派の支持のもとでフランス王位を継承することを宣言したが、ブルゴーニュ派はこれを否認し、シャルル7世は正式にフランス王として即位することができなかった。 |
| 彼はアルマニャック派以外からは相変わらず王太子、あるいは侮蔑的に「ブールジュの王」と呼ばれた。 |
ジャンヌ・ダルクとフランスの反撃
| 一方、イングランドはブルゴーニュ派と再び提携して、1428年にはアルマニャック派の拠点であったオルレアンを包囲した。 |
| ここを落とせばフランス南部へ一気に侵攻できるはずであったが、このときジャンヌ・ダルクの活躍によってイングランド軍はオルレアンの包囲を解いて撤退せざるを得なくなった。 |
| そして1429年7月17日、シャルル7世はランスへ赴き、ノートルダム大聖堂で正式にフランス王として戴冠式を挙行した。 |
| その後ジャンヌは、1430年5月のコンピエーニュの戦いで捕虜となり、翌年5月30日に火刑に処された。 |
| しかし1435年のアラスの和約でブルゴーニュ派と和解した後、シャルル7世率いるフランス軍は着実に勢力を伸ばし、1449年にはイングランドからルーアンを奪回し、1450年にはフォルミニーの戦いでイングランド軍を破ってノルマンディーを奪回した。 |
| そして1453年のカスティヨンの戦いでギュイエンヌを奪回することで、フランスにおけるイングランド領の大半を奪取すると共に、百年戦争に終止符を打ったのであった。 |
| 1456年には裁判を行なってジャンヌの名誉回復を図っている。 |
| その後は百年戦争で荒廃した国内の復興に励み、財政の再建、官僚機構の整備、王国常備軍の創設などを行なった。 |
| しかし晩年は息子ルイ11世との対立に苦しみながら、1461年7月22日に死去した。 |
| 一説には息子との争いで殺されることを恐れて食事を拒み、餓死したとも言われている。 |
捕えられたジャンヌ・ダルクを何もせず見殺しに?
| シャルル7世といえば、ジャンヌ・ダルクを見殺しにしたということで有名であるが、アントニオ=モロシーニの年代記に次のような記述がある。 |
| 王太子(シャルル7世)は、ブルゴーニュ公に特使を送った。 |
| その特使による申し入れは、ブルゴーニュ公がジャンヌをイングランド軍に引き渡した場合、王太子側の捕虜になっているブルゴーニュ派に対しても同様の扱いをするという脅迫紛いのものであった堀越孝一「ジャンヌ=ダルクの百年戦争」清水書院1984年p.184。 |
| ジャンヌ・ダルクを助けられなかったのは事実であるが、まったく何もしなかったわけではないようである。 |
味方を平気で見捨てるシャルル7世
| ジャンヌ・ダルクを見殺しにしたことで評判の悪いシャルル7世であるが、敵に身代金を払いたくないからと味方を見殺しにする人物ではなかった。 |
| 身代金を払って助け出した代表的な人物として、シャルル・ドルレアンレジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン 福本直之訳『ジャンヌ・ダルク』東京書籍1992年p.308,309、ラ・イルこと工ティエンヌ・ド・ヴィニョルレジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン 福本直之訳『ジャンヌ・ダルク』東京書籍1992年p.316がいる。 |
愛妾を殺害?
| フランスの研究者が2004年秋に、シャルル7世の愛妾であり宮廷に影響力を振っていたアニェス・ソレルの遺骨などを調べたところ、高濃度の水銀が検出されたことを発表した。 |
| 当時は薬として使われることが多かったが、薬にしては服用量が多すぎるため毒殺と判断された。 |
| ソレルは、それまで男性にのみ使われていた宝石ダイヤモンドを女性として初めて身に着けた人物である。 |
総括
| 一介の羊飼いであるジャンヌ・ダルクの起用を英断して、危機的状況から勝利により百年戦争を終結させた功績にもかかわらず、創作物などでは暗愚な国王として描かれることが多い。 |
| これは本来共闘すべき存在であったジャン無怖公を暗殺してブルゴーニュ派を敵に回したり、ジャンヌ・ダルクがブルゴーニュ派の手に落ちた際、多額の身代金を惜しみ、見殺しにしてしまったことなどの影響と見られる。 |
| ただ、シャルル7世が百年戦争によって荒廃したフランスを復興させた功績を忘れるべきではないだろう。 |
| 「彼はその死に臨み、フランス王国をクローヴィス以来ともいえるほど平和で正義と秩序に満ちたものにしていった」(ルイ12世までの年代記略パリ国立図書館所蔵フランス語写本第4954番より)レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン 福本直之訳『ジャンヌ・ダルク』東京書籍1992年p.299。 |
脚注
| simple:CharlesVIIofFrance。 |
|
1415年
|
これを好機と見たイングランド王ヘンリー5世... |
|
1419年
|
王太子シャルルとブルゴーニュ公ジャン(無怖... |
|
投票数
0
| ふりがな |
|
| 性別 |
|
| 出身地 |
|
| 生年月日 |
|
| 血液型 |
|
| 職業 |
|
| 所属 |
|
| Twitter |
|
|
|
|
シャルル7世さんについてのひとこと紹介
|
|
|
|