| 1984年のロサンゼルス五輪で、テニスは正式競技として復活する前に、21歳以下の選手による「公開競技」として行われ、当時15歳のグラフは第8シードから優勝を果たす。 |
| 1985年に初めて女子世界ランキングトップ10入りを果たしたが、グラフのWTAツアー初優勝は比較的遅く、1986年4月の「ヒルトンヘッド」大会でクリス・エバートを破った優勝から始まる。 |
| この優勝を皮切りに、1986年に女子ツアーで年間8勝を記録する。 |
| 1987年6月5日に全仏オープン決勝戦でマルチナ・ナブラチロワを6-4,4-6,8-6で破り、4大大会初優勝を達成。 |
| その年の8月16日に世界ランキング1位となり、1991年3月11日まで「186週」連続世界1位の座を保持した。 |
| これは今なお、女子テニスの史上最長記録として残っている。 |
| 1988年に19歳で女子テニス史上3人目の年間グランドスラムを達成する。 |
| この年に開催されたソウル五輪でも金メダルを獲得し、その偉業は「ゴールデン・スラム」と称えられた。 |
| 「ゴールデン・スラム」達成は男女を通じてグラフしかいない。 |
| オリンピックにおけるテニス競技は、1928年のアムステルダム五輪以後、プロ選手の登場により除外されていた。 |
| しかし1988年のソウル五輪でプロテニス選手の出場が認められ、64年ぶりにオリンピック競技としてのテニスが復活する。 |
| オリンピックはアマチュアの祭典である、という基本理念を覆す決定がなされたため、当時は大きな波紋を呼んだ出来事だった。 |
| グラフは早くからオリンピック参加に積極的な姿勢を示し、1984年のロサンゼルス五輪「公開競技」で優勝した後、ソウル五輪の女子シングルス決勝でガブリエラ・サバティーニを6-3,6-3で破って金メダルを獲得した。 |
| しかし、1992年のバルセロナ五輪決勝では当時16歳のジェニファー・カプリアティに6-3,3-6,4-6で敗れて連続金メダルを逃し、1996年アトランタ五輪では左膝故障のため出場断念を余儀なくされている。 |
| グラフはその後も長く女子テニス界の頂点で活躍し、4大大会優勝は「22勝」(全豪オープン4勝+全仏オープン6勝+ウィンブルドン7勝+全米オープン5勝=22勝)にのぼり、マーガレット・コート夫人の「24勝」に続く女子歴代2位になった。 |
| 世界ランキング1位の在位記録は通算「377週」で、これは男女を通じての史上最長記録である。 |
| グラフは1988年・1993年・1995年・1996年と「4度」にわたり赤土の全仏オープンと芝生のウィンブルドン連続制覇を成し遂げたが、これは男子のビョルン・ボルグが1978年-1980年に成し遂げた「3度」を上回る過去最高記録である。 |
| グラフのダブルスは、4大大会では1988年ウィンブルドンでガブリエラ・サバティーニと組んだ優勝がある。 |
| グラフとサバティーニは、決勝でソ連ペアのナタリア・ズベレワ&ラリサ・サブチェンコ組を6-3,1-6,12-10で破って優勝したが、この時の試合時間「2時間49分」は同選手権の女子ダブルス決勝としては最長記録である。 |
| しかし、グラフとサバティーニのペアはマルチナ・ナブラチロワ&パム・シュライバー組に敗れた準優勝も多かった。 |
| サバティーニとのペアを解消した後は、グラフのダブルスにおける好成績は少なくなった。 |
| 女子国別対抗戦・フェドカップ(旧名称「フェデレーション・カップ」)の西ドイツ代表(東西ドイツ再統一が実現した1990年以後は、統一ドイツ代表)としても、1987年と1992年の2度優勝を飾っている。 |
| しかしフェドカップのグラフには意外な敗戦も多く、1993年の1回戦ではオーストラリア代表のニコル・プロビスに敗れたことがあり、1996年4月28日に日本の東京・有明コロシアムで行われた「ワールドグループ」1回戦では伊達公子に6-7,6-3,10-12で敗れている。 |
| この試合ではグラフが第1セットを5-0でリードしていたが、ここから伊達が大逆転で先取し、第2セットはグラフが奪い返したが、第3セットは22ゲーム目までもつれ、伊達が7度目の対戦でグラフから初勝利を奪った。 |
| 2勝2敗で迎えた最後のダブルス戦で、グラフとアンケ・フーバーのペアは杉山愛&長塚京子組に6-4,3-6,3-6の逆転負けを喫し、ドイツは日本に敗退した( |
| グラフが伊達に敗れたのは1996年フェド杯1回戦の1度だけであるが、同年7月のウィンブルドン準決勝では伊達と2日がかりの試合を戦った。 |
| グラフが6-2,2-0とリードした後、第2セット・第3ゲームから伊達が6ゲームを連取する。 |
| この試合の第2セット・第7ゲームでは、グラフのファンと思われる人間から(冗談で?)プロポーズされるハプニングも起きた。 |
| 彼女の答えは“Howmuchmoneydoyouhave?”で、実父の脱税事件で金銭的問題を抱えていたことからくるブラックジョークであった。 |
| 続く第8ゲームも伊達が奪って6-2とし、セットカウント1-1となったところで日没順延になる。 |
| 翌日に再開された最終第3セットはグラフが取り、4日-5日にかけて行われた試合は6-2,2-6,6-3でグラフの勝利になった。 |
| この辺は“日本POV”になりやすい。 |
| 25歳を過ぎた頃から身体の故障の蓄積が目立ち始め、1995年・1996年と全豪オープンを欠場するなど、出場試合数を制限していた。 |
| 1997年2月1日に東京体育館の「東レパン・パシフィック・オープン・テニストーナメント」の準決勝でブレンダ・シュルツ=マッカーシー(オランダ)と対戦中に左膝の故障が悪化し、2月2日にマルチナ・ヒンギスとの決勝を棄権する。 |
| 治療のため休養に入り、同年3月31日に当時16歳のヒンギスに世界ランキング1位の座を明け渡した。 |
| (これでグラフの世界ランキング1位生涯保持記録は「377週」で終わった)5月にいったん復帰するが、全仏オープン準々決勝でアマンダ・クッツァーに敗退する。 |
| 全仏終了後の6月10日に左膝の手術を受け、復帰までに8ヶ月の長期間を要した。 |
| その間に若手の新勢力が次々と台頭し、グラフ自身の体調もなかなか回復しなかった。 |
| 1年ぶりの4大大会復帰戦となった1998年ウィンブルドンでは、過去の実績を考慮した特別措置による「第4シード」を与えられたが、3回戦でナターシャ・ズベレワに敗退した。 |
| ようやく全米オープン直前の「パイロット・ペン選手権」決勝でヤナ・ノボトナを破り、復帰後の初優勝を果たす。 |
| 11月上旬の2週連続優勝により、グラフは女子テニスツアー年間最終戦の「チェイス選手権」にも2年ぶりに出場資格を獲得し、リンゼイ・ダベンポートとの準決勝まで勝ち進んだ。 |
| このカムバックにより、グラフは世界ランキングを9位まで戻した。 |
| 現役最後の年となった1999年、全豪オープンでは準々決勝でモニカ・セレシュに敗退する。 |
| 3月上旬の「エバート・カップ」では、当時17歳のセリーナ・ウィリアムズと決勝戦を行い、全仏オープンで「第6シード」を得た。 |
| この大会で1996年全米オープン以来の4大大会決勝に進出したグラフは、1999年6月5日の決勝戦でマルチナ・ヒンギスとの“新旧女王対決”に勝ち、全仏で3年ぶり6度目の優勝を飾る。 |
| これが自身最後の4大大会優勝(22勝目)となった。 |
| 続くウィンブルドンでは、3年ぶりの決勝でリンゼイ・ダベンポートに4-6,5-7で敗退し、8度目の優勝を逃す。 |
| この大会ではジョン・マッケンローと組んで混合ダブルスにもエントリーしたが、準決勝の直前に試合を棄権した。 |
| その後左膝の故障が再発し、8月13日に世界ランキング3位で現役を引退した。 |
| グラフは結局、4大大会優勝の女子歴代1位記録保持者マーガレット・コート夫人(オーストラリア)の「24勝」に“あと2勝”追いつけなかった。 |
| グラフは現役生活を通じて、4大大会女子シングルス決勝に31度進出したが、これはクリス・エバートの34度(18勝16敗)、マルチナ・ナブラチロワの32度(18勝14敗)に続く女子歴代3位記録である。 |
| 決勝戦の勝率(22勝9敗=71%)は、1968年以後の「オープン化時代」の女子テニス界では最高勝率となった。 |
| なお、彼女が1987年8月-1991年3月に記録した世界ランキング1位連続保持記録「186週」は、2007年8月27日に男子のロジャー・フェデラーが187週に到達したことにより、女子の歴代1位記録となった。 |
| (フェデラーは2004年2月2日-2008年8月17日まで「237週」世界ランキング1位を連続保持し、グラフの女子歴代1位記録を51週上回る世界最長記録を樹立した)。 |
| 現役引退後の2001年10月22日にアンドレ・アガシと結婚。 |
| 2004年7月11日に国際テニス殿堂入りを果たした。 |
| また、1998年12月に設立した基金「チルドレン・フォー・トゥモロー」(''ChildrenforTomorrow'')を通して、慈善活動にも積極的に携わっている。 |