| 1960年4月には日本プロレスへ入団、力道山の元に弟子入り。 |
| 同年9月30日デビュー。 |
| その後何度かアメリカに渡り、数々のタイトルに挑戦する。 |
| 修行時代に馬場は、「練習生はジムに住み込み、基本的にノーギャラ」というのを知らず、力道山に「(給料は)幾らですか?」と単刀直入に聞き、「巨人時代は幾ら貰ってたんだ?」「5万です」「よし5万だ」で話はまとまった。 |
| もっとも、翌月には「試合もしてねえのに5万は高すぎる。 |
| 3万だ」と値切られたという。 |
| ただ、道場にはアパートから通っていた。 |
| また、修行時代にヒンズースクワットで、床に垂れた汗で水溜りができたという伝説も残っている(これに負けじと、アントニオ猪木も一緒にスクワットをし、汗の水溜りが出来たという)。 |
| 当時は脚力も強く、逆エビ固めをかけようとする相手レスラーを力だけで跳ね返した。 |
| 新人時代にはアントニオ猪木と16回対戦し馬場の16勝0敗。 |
| 決まり手は猪木よりも身長が高いことを利用したフルネルソンが多い。 |
| 馬場は猪木との戦歴を自ら話そうとはしなかった。 |
| アメリカ時代のリング名は、当初は本名の馬場正平(ショーヘイ・ババ)であったが、「フランケンシュタイン・ババ」、「ビッグ・ババ」、「ババ・ザ・ジャイアント」など様々なリングネームがあった。 |
| アメリカでは、大舞台でのメインイベントの試合も多く、当時は大変な知名度があったとされる(そのため、『日本人として初めてアメリカで成功したレスラー』と言われている)。 |
| アメリカではヒールとして活躍し、米レスリング専門誌『レスリング・レビュー』では、生傷男ブルーザー、殺人狂コワルスキー、東洋の悪魔ババとして、世界三大悪党と並び称されるようになった。 |
| アメリカでの師匠は、フレッド・アトキンス。 |
| 若手時代の海外遠征では、プロモーターの意志に従い、アメリカの都心でも着流しに草履という格好で通した。 |
| しかしまだ有名になる前、テキサス州の田舎街のレストランにその格好で入ろうとした際、店の用心棒から「東洋人のくるところじゃない」と一喝され、ピストルで足元を射撃されたこともあるという。 |
| また、馬場は飲み屋へ出かけると少ない手持ちの金を使いジュークボックスの中に唯一入っていた日本の楽曲、坂本九の『SUKIYAKI(上を向いて歩こう)』を流していたという。 |
| 後年、全日本プロレスの試合会場で、全試合終了後に同曲が流されるようになったのはこれに由来する。 |
| またニューヨークには当時珍しかった日本人が営業しているカレー屋があり、そこを訪れてはカレーをご馳走になったり、店主と遊びに行ったりしていたという。 |
| 1962年8月31日、オハイオ州コロンバスにおいて、ビル・ミラーとカール・ゴッチが、当時のNWA世界ヘビー級王者バディ・ロジャースと控え室でトラブルを起こし、試合を控えていたロジャーズが負傷欠場。 |
| 対戦相手の馬場が一時NWA王者となったが、結局、馬場はタイトルを返上した。 |
| なお、レコードとしては認められていない『馬場伝説』筑摩書房、1996年発行より。 |
| 1963年力道山が死去し、遠征中のアメリカから帰国。 |
| その際、マネージャーだったグレート東郷から、「力道山死後の日本プロレスは先行きが怪しい、高額の年俸(当時の額で1億円弱)を保障するのでアメリカに定住するように」と勧められたが、金銭の問題ではないからと断り帰国している。 |
| それ以外にも、アメリカでの生活で売れっ子だったレスラーが怪我をして試合が出来なくなり、何の保障もないまま生活苦へ陥る姿も見ているので、いくら高額の年俸を稼いでも同じようになった時のことを考えて断ったという理由もあった。 |
| 1964年2月にはNWA(ルー・テーズ)、WWWF(ブルーノ・サンマルチノ)、WWA(フレッド・ブラッシー)の三大世界王者に連続挑戦した。 |
| 帰国後の馬場は力道山に代わるスターとして期待され、1965年インターナショナル・ヘビー級王座を獲得し、豊登に代わって日本プロレスのエースとなる。 |
| テーズ、サンマルチノ、ジン・キニスキー、ボボ・ブラジル、クラッシャー・リソワスキーなどの強豪レスラーとのインター防衛戦でエースの重責を果たし、1972年の離脱まで日本プロレスのトップに君臨した。 |
| タッグマッチでも、吉村道明との名コンビ、坂口征二と組んだ東京タワーズ、さらにはアントニオ猪木とのBI砲でインターナショナル・タッグ王座を獲得するなどの活躍を見せた。 |
| 日本プロレス時代、実況アナウンサーの清水一郎は、1970年頃までは馬場を巨人軍に在籍していたためか、「ジャイアンツ馬場選手」と実況では呼称していたが、その後は「ジャイアント馬場選手」と実況するようになった。 |