| ジャッキー吉川とブルーコメッツの前身であり母体であるブルーコメッツは、1957年9月、大橋道二、ロジェ滋野ら米軍キャンプ回りのバンドマンを中心に結成された。 |
| 専属シンガーを付け、渋谷のジャズ喫茶を中心に活動した。 |
| 1959年6月には、来日したジーン・ヴィンセントの地方巡演のツアーバンドに選ばれる程までに音楽性を高めた。 |
| 1959年9月、一旦解散するが、彼らのファンだった鹿内タカシによって再興され、1960年4月に新メンバーで再スタートした。 |
| 1963年からはジャッキー吉川がリーダーになり(ジャッキー吉川を参照)、のちにグループ・サウンズ全盛時代を築くメンバーがほぼ揃った。 |
| この頃尾藤イサオのバックバンドとしても活動していた。 |
| ある時、尾藤のコンサートに尾藤と一緒に開催地に向かったが、尾藤が列車から降り損ね、開催が不可能になってしまった。 |
| 観客に尾藤が来ていないことを説明したところ、観客から「何か歌ってくれ」と求められ、井上忠夫が即席で歌って観客に受けたことからグループ・サウンズとしての本格的なブルーコメッツ独自の活動が始まったとされている。 |
| このような経緯から日本における歌うエレキバンド=グループ・サウンズが誕生し、その先駆者となった。 |
| 1966年にコロムビアから発売されたデビュー曲「青い瞳(英語盤)」が10万枚、「青い瞳(日本語盤)」が50万枚のヒットになった。 |
| このヒットの頃にザ・ドリフターズや内田裕也らとともにビートルズの日本公演に前座として出演。 |
| その際彼らはビートルズとは別のステージでメンバーの井上忠夫作曲のビートルズ讃歌「ウェルカム・ビートルズ」を歌った。 |
| その後も「青い渚」「何処へ」など順調にヒットを連ねていき、1967年に発売された「ブルー・シャトウ」は自身最大の150万枚の大ヒットを記録し、この年の第9回日本レコード大賞で大賞を受賞した。 |
| 「グループ・サウンズ=不良」のイメージが強かった1960年代当時、数多のグループ・サウンズの中でザ・ワイルドワンズと共にNHKへの出演が許され、NHK紅白歌合戦に第17回(1966年)から3回連続で出場した。 |
| これは他のグループ・サウンズと違い、外見が短髪でスーツ姿=銀行員風と言うのが世間一般に評価されたことによるものである。 |
| もっとも、メンバーにしてみれば、長髪が似合わなかったから短髪にしていただけで、NHKへの出演を意図していたものではなかった。 |
| 逆にコンサートなどでかつらを被って長髪を試したところファンに不評だった。 |
| また音楽面での演奏品質が高く、楽器演奏のみならずダイナミクス、声色などを巧みに使い分けられるいわば職業演奏グループだった。 |
| 1967年美空ひばりの大ヒット「真赤な太陽」でバッキングを担当。 |
| 1968年にはエド・サリヴァン・ショーに出演のため渡米→ |
| このときに演奏したのはイントロに琴の音をフィーチャーした、いささか奇妙な「ブルー・シャトウ」で何ともいい難いサウンドに観客の反応は冷ややかだった。 |
| すっかり欧米のポピュラーミュージックの奧深さに圧倒された井上忠夫は帰国後すぐにグループの解散を打ち出す姿勢であったが周囲の反対により断念、自らの活動を見直すことによって「脱GS宣言」を出した。 |
| 同年発売されたムード歌謡的な傾向が強いシングル「さよならのあとで」が快心の大ヒット。 |
| だがその後は演歌調の歌を歌うかと思えば揺りもどしてGS調に戻ったかのような曲をも発表、また当時台頭していたバート・バカラック風の作品など、個々としては秀作が多いものの作品を通してグループとしての統一したイメージを作れないまま1969年に入るとレコードの売り上げと人気は急降下、日本全国のナイトクラブやキャバレー回りといった地味な営業活動を続けたのち1972年10月に実質上解散。 |
| GSブームを支えた名立たるグループは既に早期解散していたことから「最後のGS解散」=遅すぎた解散とマスコミに揶揄された。 |
| しかし正確には解散ではなく、井上・高橋・三原の3人が脱退し、新メンバーが加入、ビクターから再デビューした。 |
| 1977年にもメンバーチェンジし、1984年には小田も脱退する。 |
| 時代が平成に入ると「ジャッキー吉川とニューブルーコメッツ」に改称して活動している。 |
| その一方でGS時代のメンバーでも懐メロ番組に出演することが度々あったが、井上が2000年5月に死去したのを期に、2002年にGS時代のメンバーでも本格的に再結成した。 |
| 全国ツアーを展開するなど精力的に活動を続け、現在に至っている。 |