| ラスベガスは当時もギャンブルの街で、クレーマーも子供の時からトランプゲームなどに親しんだ。 |
| 彼は父親の勤務先にあった古い運動場で、テニスを含む様々なスポーツに親しみ、最初は草野球に熱中した。 |
| 彼が本格的にテニスを志したきっかけは、1935年の春に見たポモナ(カリフォルニア州ロサンゼルス郡にある都市)のカウンティ・フェアで、当時世界最強の選手だったエルスワース・バインズのプレーに魅了された時だったという。 |
| それからサンタモニカで開かれたジュニア・トーナメントに初出場し、当時「南カリフォルニア・テニス連盟」の会長だったペリー・ジョーンズ(1890年-1970年)と出会い、「ロサンゼルス・テニスクラブ」で彼の指導を受け始める。 |
| これを契機に、クレーマー一家はラスベガスを去ってロサンゼルスに定住した。 |
| このクラブで出会ったジョー・ハント、テッド・シュローダー、ボビー・リッグス、パンチョ・ゴンザレスなどが、後にクレーマーのテニス経歴を通じて重要なライバルとなる。 |
| クレーマーは1938年の全米選手権で4大大会に初出場し、翌1939年に18歳で男子テニス国別対抗戦・デビスカップのアメリカ代表選手に指名された。 |
| 18歳1ヶ月でのデ杯デビューは、1968年にジョン・アレクサンダーが17歳5ヶ月でオーストラリア代表に選ばれるまで、29年間デビスカップの最年少出場記録であった。 |
| 先にボビー・リッグスとフランク・パーカーがシングルス2試合を取ったが、クレーマーとハントのペアが、当時世界最強のダブルスコンビとして知られたエイドリアン・クイスト&ジョン・ブロムウィッチ組に7-5,2-6,5-7,2-6で敗れた後、流れは一気にオーストラリアに傾き、アメリカはオーストラリアに逆転負けした。 |
| (第2次世界大戦の勃発は、ヒトラーがポーランド侵攻を開始した9月1日である)世界大戦勃発により、デビスカップやウィンブルドン選手権は開催中止となったが、全米選手権だけは戦時中も途切れることなく続行された。 |
| 戦時中のアメリカ男子テニス界では、どの選手も軍務に就きながら全米選手権に出場した。 |
| 開戦の翌年、クレーマーは1940年全米選手権で男子ダブルス・混合ダブルスの決勝に初進出した。 |
| 男子ダブルスでは親友テッド・シュローダーと組んで初優勝し、ここで最初のタイトルを獲得するが、ドロシー・バンディと組んだ混合ダブルスでは準優勝に終わる。 |
| 1941年全米選手権ではシュローダーとの男子ダブルスと、サラ・ポールフリー・クックと組んだ混合ダブルスを制し、2部門制覇を達成した。 |
| ところが1942年全米選手権の開幕前日に、彼は虫垂炎(盲腸炎)で倒れて出場を断念する。 |
| 1943年の大会期間中は食中毒に見舞われ、2年連続で病気の不運に見舞われた。 |
| 1943年全米選手権の男子シングルスは、戦争の激化のため出場選手数が激減し、32名の選手による5回戦制で優勝を争った。 |
| クレーマーはここで初の決勝進出を果たすが、少年時代からのライバルの1人だったジョー・ハントに3-6,8-6,8-10,0-6で敗れて準優勝に終わった。 |
| 戦時中のクレーマーはアメリカ軍で沿岸警備員の仕事に就いたため、終戦後の1946年までテニス界に復帰できなかった。 |
| ジョー・ハントはアメリカ海軍に入隊し、1945年2月2日に航空事故で死去したため、1943年の全米決勝が2人の最後の対戦になった。 |
| 1945年に第2次世界大戦が終結し、デビスカップやウィンブルドン選手権は1946年から開催が再開された。 |
| 終戦後最初のウィンブルドン選手権で、ジャック・クレーマーは男子シングルス4回戦でヤロスラフ・ドロブニー(当時チェコスロバキア国籍)に6-2,15-17,3-6,6-3,3-6の5セット・マッチで敗れてしまう。 |
| 彼はこの試合でラケットを握る右手のまめが破れ、試合終了時には手が血まみれになっていた。 |
| 不本意なシングルス敗戦の後、クレーマーはサンフランシスコ出身のトム・ブラウンと組んで男子ダブルス初優勝を決めた。 |
| ブラウンの自伝によれば、ウィンブルドン・ダブルスに臨む前に、コーチのペリー・ジョーンズから「ジャックは経験豊富な選手だから、ダブルスでは彼の言う通りにしなさい」と指示されたという。 |
| この後、1946年全米選手権と1947年ウィンブルドン選手権の男子シングルスで、クレーマーはブラウンと2度決勝対決を行い、2度ともストレート勝ちを収めた。 |
| 当時「フリスコ(サンフランシスコ)の殻ざお」(TheFriscoFlailer)というニックネームで呼ばれたブラウンは、クレーマーの観点では“対等なライバル”とは思えなかったという。 |
| 1947年のウィンブルドンでは、男子シングルスの7試合を通じて総計「37ゲーム」しか落とさず、ブラウンとの決勝戦はわずか45分で決着をつけた。 |
| 男子ダブルスではボブ・ファルケンバーグと組んで優勝し、こうしてウィンブルドンの単複2冠を獲得した。 |
| そして、彼のアマチュア最後の舞台となった1947年全米選手権を迎える。 |
| 2年連続3度目の男子シングルス決勝戦で、クレーマーはフランク・パーカーに4-6,2-6,6-1,6-0,6-3の逆転勝利を収めた。 |
| 男子ダブルスではテッド・シュローダーと組み、このペアで6年ぶり3度目の全米男子ダブルス優勝を果たしている。 |
| 最大の親友シュローダーとは、デビスカップでも息の合ったプレーを展開した。 |
| この全米選手権を最後に、ジャック・クレーマーはプロテニス選手契約書にサインする。 |
| 彼は全豪選手権と全仏選手権には1度も出場しなかった。 |