| 1882年、土木監督の父レジェ(Léger)と母アンヌ・ラコスト(AnneLacoste)との間に生まれ、父の転勤にしたがう。 |
| 1887年、アンドル県ペルヴォアザン(Pellevoisin)の小学校へ入る。 |
| 1893年、アンドル県シャトールーのリセ(現在のリセ・ジャン・ジロドゥ・シャトールー( |
| 1898年、シャルル=ルイ・フィリップ(Charles-LouisPhilippe)とエドモン・ロスタンとから、励ましの返書をもらう。 |
| 1900年、パリのリセ・ラカナル(LycéeLakanal)に、給費生として移る。 |
| 1901年、リセを卒業して兵役につき、1903年除隊後、パリの高等師範学校に進む。 |
| ドイツ語の優等賞を受け、1905年首席で卒業、給費生としてミュンヘンに留学し、ついで東欧・南欧に遊ぶ。 |
| 1906年、ハーヴァード大学のフランス語教師として渡米し、1907年帰国し、ル・マタン紙(LeMatin)の文芸担当記者に就職する。 |
| 1909年、小説集『田舎の人々』を出版。 |
| 売れ行きはよくなかったが、アンドレ・ジッドの目にとまる。 |
| 1910年、外務省政治経済局副領事見習生となり、かたわら小説を発表し、注目され始める。 |
| 1914年、第一次世界大戦に出征して負傷、入院する。 |
| 1915年、ダーダネルスで諜報活動にしたがい、ふたたび負傷、パリに戻る。 |
| レジオン・ド=ヌール勲章五等を受ける。 |
| 1916年、教導士官としてポルトガルへ、ついでアメリカへ派遣される。 |
| 1918年、大戦終結、結婚。 |
| 1919年、外務省に復帰する。 |
| 1920年、フランス海外事業局(ServicedesŒuvresFrançaisesEtrangère)に入り、翌1921年、局長となる。 |
| 1922年、小説『ジークフリートとリムーザン人』を出版し、バルザック賞を受ける。 |
| 1924年、駐独大使館秘書官としてベルリンに赴任。 |
| 短期間で戻り新聞情報局長となる。 |
| 1926年-1933年、連合国損害評価委員会(Commissiond'évaluationdesdommages)委員を勤める。 |
| 1927年、演出家・俳優のルイ・ジューヴェを知る。 |
| ジューヴェは当時、シャンゼリゼ劇場内のコメディ・デ・シャンゼリゼに一座を構えていた。 |
| ジロドゥは、ジューヴェに励まされながら、『ジークフリートとリムーザン人』をもとに台本を練り、1928年5月3日、初戯曲『ジークフリード』の初演に漕ぎつけた。 |
| 「この芝居はジューヴェと一座の人々とが作り上げた。 |
| 台本は無署名がふさわしい」とジロドゥは記した。 |
| 以降ジロドゥは、次々と戯曲を書き、殆どをジューヴェ一座が上演し、さながら同座の座付作者であった。 |
| 殆どが好評であった。 |
| 台本にト書きが少ないのは、一座の意見を入れては訂正を重ねたためという。 |
| ギリシア神話や旧約聖書などを下敷きにした反リアリズムの、新鮮な作風であった。 |
| 上演の記録は、次項の「戯曲」にある。 |
| 1934年、外交官・領事の監督官となる。 |
| 1936年、世界一周旅行をする。 |
| 1939年、第二次世界大戦の勃発と共に、ダラディエ首相に乞われ情報局長となり、ラジオ放送でナチスと対抗するが、1940年3月、ドイツ軍侵入による内閣の退陣とともに、辞職する。 |
| 6月のフランス降伏後、いちじ地方に疎開して、間もなくパリに戻る。 |
| 1940年-1944年の被占領中は、レジスタンスに協力し、ルイ・アラゴンらとも通じていた。 |
| 1941年、ゴーモン映画会社(Gaumont)の文芸部長となり、シナリオ2本を書く。 |
| 1942年、『マルザックのアポロ』(のち『ベラックのアポロ』と改題)の草稿を、大戦を避けて南米を巡業中のジューヴェに送り、リオ・デ・ジャネイロで初演される。 |
| 1943年、『ソドムとゴモル』を、ジューヴェ不在のパリで、ドゥキング( |
| 1944年1月31日、尿毒症のため、パリ1区のホテルで急死。 |
| サン・ピエール・グロ・カイユー教会( |
| 1945年12月22日、遺作『シャイヨの狂女』を、帰国したルイ・ジューヴェが初演する。 |
| 1951年7月1日、故郷ベラックに「ジャン・ジロドウ記念碑」が建ち、ジユーヴェらが故人の作品の抜粋を演じた。 |