| 1947年パリ大学法学部に進学し、在学中第一次インドシナ戦争に志願し従軍。 |
| 帰国後トゥールーズで学生組織を率いた後、1956年にピエール・プジャード率いるポピュリスト運動から国民議会議員選挙に出馬。 |
| 戦後最年少の27歳で議員に当選した。 |
| その後アントワーヌ・ピネーの一派に合流し、アルジェリア戦争に議員を休職して従軍。 |
| 1958年にアルジェリア独立に反対して大統領選挙に立候補するも敗れ、選挙戦中のトラブルから左目を失明する。 |
| その後、右翼活動を続けながら右翼諸派の糾合を目指し、1972年に国民戦線の結成にこぎつけ党首となる。 |
| 主な政策は以下の内容であった。 |
| 通貨のユーロからフランへの回帰。 |
| 国籍取得制限の強化など。 |
| 250px|right|thumb|仏全土で移民2世・3世を中心とした2005年パリ郊外暴動事件|暴動が激化した最中に国民戦線がパリで開いた屋外集会で演説するジャン=マリー・ル・ペン2005年11月。 |
| しばしば舌禍スキャンダルを起こし、ナチスのユダヤ人虐殺を「第2次大戦史の末梢事」だと述べた。 |
| 1997年の総選挙では、社会党候補に暴力をふるったとして有罪となった。 |
| しかし、失業問題や移民問題が深刻になり、EU拡大に不安が募る中次第に支持を集め、1988年の大統領選では得票率14%、1995年には15%と着実な支持を得ていた。 |
| 1999年に国民戦線は内紛で分裂し、2002年の大統領選挙では泡沫候補と見なされていた。 |
| ところが、犯罪に対する社会不安から急速に支持を拡大。 |
| 投票日の2日前にオルレアンで一人暮らしの男性の家が放火される凶悪事件があり、前大統領でこの時の選挙の勝者になるジャック・シラク候補が、治安問題を争点にしたことも、ルペンに対する追い風になった。 |
| この選挙で、外国人の帰化について「日本とスイスの国籍法両日本は血統主義だが例外として出生によって国籍を与える場合もあるは完全にわれわれの考えと一致する。 |
| われわれが人種的な偏見を持っていると指摘されるのはおかしい」と主張。 |
| また、移民の間でも、ルペンが移民の中でも特にイスラム教徒の排斥を訴えたこのためホロコーストを軽んじていた過去の言動にも関わらず、ユダヤ教徒の一部はルペン支持に流れたという。 |
| ルペンはシラク(得票率19.71%)に次ぐ16.86%を記録し、社会党有力候補リオネル・ジョスパン(16.12%)を上回り決選投票まで残った。 |
| この結果にEU諸国は騒然とし、マスコミは「ルペン・ショック」と呼んだ。 |
| この選挙ではトロツキスト政党である革命的共産主義者同盟(LCR)のオリヴィエ・ブザンスノ候補が共産党(PCF)のロベール・ユー候補の得票を上回るなど、極左も得票を伸ばしており、「コアビタシオン」(保革共存)への不満が両極に集まったとの見方も出たルペンは支持を伸ばしたとはいえ、これまでの大統領選ならば、決選投票に残れる得票率ではなかった。 |
| 第一回投票の世代別投票動向(フランス大手調査機関・IPSOS調査)を見ると、16人いる候補者の中で18~24歳ではルペン党首が一番人気で16%もの支持を獲得、2位のシラク候補・ジョスパン候補は各々14%。 |
| 25~34歳ではシラク支持が18%(1位)なのに対し、ルペン支持は17%(2位)。 |
| 職業別で見ると、失業者のルペン支持は38%でダントツ1位。 |
| 2位のジョスパン支持(13%)に大差をつけている。 |
| 肉体労働者の支持率でも30%とルペンが2位のジョスパン(15%)を圧倒。 |
| 失業者や肉体労働者、若者がルペン支持に傾斜して、ルペン・ショックが起きた。 |
| ルペンは中立性を敢えて無視したフランスマスコミの総バッシングに遭い、左派を中心とした反ルペンデモは110万人を動員。 |
| 「反ルペン・反ファシズム」キャンペーンが大規模に行われ、この時の決戦相手ジャック・シラク候補は決選投票前の恒例となっているテレビ討論を拒否した。 |
| 結果はシラクに得票率にして18対82の大差で敗れた。 |
| 1990年の湾岸戦争や1999年のコソボ紛争、2003年のイラク戦争などアメリカ合衆国による覇権主義的戦争に反対している。 |
| 湾岸戦争の時にはイラクに乗り込み、フセイン大統領と会談し、フランス人の人質55人を解放させた。 |
| それ以来、フセイン政権と国民戦線は交流を深める。 |
| また、湾岸戦争以降の米国による経済制裁により苦境の中にあったイラクの子供らを助ける慈善活動も行っている。 |
| 2005年パリ郊外暴動事件を受けて更なる党勢拡大と2007年大統領選挙でも2002年大統領選挙の再現を狙った。 |
| 大統領選挙で台風の目となることが予想されたが、保守・国民運動連合総裁のニコラ・サルコジが移民対策で強硬論を主張する中、ルペン等右翼支持層を浸食されていった。 |
| 2006年1月には、2007年の大統領選に向け早々と選挙対策事務局を設置したが、出馬に必要な500筆の市町村国会議員の推薦署名集めの段階で苦戦大統領選出馬には3月22日までに500人分の署名を集めることを必要とするが、2月21日時点で規定数に40人足りなかった |
| また、左派のインタネット・ユーザーが国民戦線の事務所のパソコンにあった「推薦予定名簿」を法律で認められない方法で盗み取り、そのデータに記されていた推薦人予定者たちにフォーラムなどで脅し、「極右」というレッテルを怖れた予定者たちが推薦人を降りるという事態も発生した。 |
| また、インターネットのバーチャル空間であるSecondLife上の国民戦線の架空選挙事務所を左派の参加者たちが一斉に「襲撃」して、事務所常駐スタッフが「応戦」するも架空事務所が破壊・炎上する、という「事件」も起こった。 |
| しており、決選投票への進出以前の大統領選の出馬さえ危惧されていたが、サルコジが「極右にも出馬のチャンスを与えるのが民主主義だ」と自らの推薦人数人をルペンに回す「助け舟」もあってなんとか500人の署名を確保した。 |
| 大統領選挙では、サルコジに対峙する形で左派・フランス社会党のセゴレーヌ・ロワイヤルの左右両候補による激戦が繰り広げられ、さらにサルコジ、ロワイヤルの両候補に飽き足りない中間層がフランス民主連合議長(党首)のフランソワ・バイルを支持したため、ルペンの得票は伸びず、383万4530票(10.44パーセント)で4位に留まった。 |
| ルペンは、5月1日の国民戦線の集会において「決選投票はボイコットせよ」と支持者に訴えた。 |
| 2008年1月11日のフランス国際放送(RadioFranceInternationale,RFI)の報道によると、ルペン率いる国民戦線は資金が欠乏してきており、パリ近郊ルヴァロワにある政党本部ビルの清算に入ったという。 |
| 2010年4月12日、2011年の党大会をもって引退することを発表した。 |
| 2011年1月16日の党大会で三女・副党首のマリーヌが後継者に選ばれ{{Citenews。 |