| 1953年の秋、マッカーシーの委員会は合衆国陸軍への調査を始めたが、それは不幸な結果となった。 |
| 委員会は陸軍通信部隊におけるスパイ団を暴露しようとしたが、失敗した。 |
| 委員会は陸軍の歯科医アーヴィング・ペレスを召喚したが、彼は立証のための質問で20回にわたって権利章典修正第5条(黙秘権)を使った。 |
| ペレスは軍隊の人間を共産党に勧誘したことを告発された。 |
| 確かに知られていることだが、ペレスは「破壊組織」のメンバー員に関する国防省のフォームにおける質問に答えることを拒否し、陸軍軍医総監は1953年初め彼の解雇を勧告した。 |
| マッカーシーはペレスがその勧告のあと解雇されずに、そのかわり少佐の地位に昇進したことについて、真剣な関心があることを表明した。 |
| 220px|right|thumb|マッカーシーとコーン。 |
| この後者の問題を調査する中で、マッカーシー上院議員はラルフ・W・ツウィカー大将に対する扱いに関して、メディアの敵対的な注意を彼自身に対しもたらすことになった。 |
| マッカーシーはツウィカーの理解力を「5歳の子ども」の理解力と比喩し、そしてツウィカーは「大将の制服を着るにふさわしくない」と述べた。 |
| 1954年初め、陸軍はマッカーシー上院議員と彼の助手で弁護士のロイ・コーンを、もう1人のかつての援助者でコーンの友人のG・ディビッド・シャインに対し好都合な扱いをするよう陸軍に対し圧力をかけたと告発した。 |
| マッカーシーは、非難は不誠実によるものであり、前の年のツウィカーへの質問に対する報復であると主張した。 |
| 昇進にあたって、マッカーシーは上院調査小委員会のスタッフを本質的に入れ替えたが、普通、前任者を解職することはない。 |
| 注目すべきはロイ・コーンであった。 |
| コーンはウィリアム・レミントン(WilliamRemington:以前の商務省の雇用者で共産党のメンバーに関し偽証で有罪となった)、ジュリアスとエセル・ローゼンバーグへの熱心な告発や、そして合衆国の共産党指導者への裁判で知られていた。 |
| なお、1995年に公開されたベノナの写しはレミントンとジュリアス・ローゼンバーグがソ連のために働いていたことを証明したが、後述の通りマッカーシー自身はそのような証拠には触れていなかったとみられる(また、エセル・ローゼンバーグのスパイ行為は証明されていない)。 |
| マッカーシーが小委員会の会議を主催することになった時、コーンは、何の法律的経験も持たない26歳の検察官だった。 |
| そのこともあり、コーンは聴聞を公開の場でやりたがらない傾向があった。 |
| これはマッカーシーの「議会秘密会」と「記録しない」会議を首都から遠く離れたところで行い、公開の精査と質問を最小限にするという好みとうまく混ざりあった。 |
| コーンは、調査のために「反ユダヤ主義的動機」という非難を避けることを選んだが、調査を追求する自由を与えられていた。 |
| 220px|right|thumb|ジョン(左)とロバート・F・ケネディ(中)。 |
| 2、3人の注目すべき人物が、マッカーシーが委員会を主催するようになってすぐに委員会を辞めたが、その中にロバート・F・ケネディもいた。 |
| 彼は委員会の「赤狩り」でも当初は活躍し、マッカーシーとの関係も終生良好だったが、馬の合わないロイ・コーンとは文字通り殴り合いをした。 |
| 辞職の際、ロバートは「他の委員(の辞職理由)に同調したわけでは無い」と言明している。 |
| マシューズはかつていくつかの「共産主義者戦線組織」のメンバーだったが、1930年代の急進主義的グループへの好意を捨てたあと、彼は熱心な反共産主義者となった。 |
| マシューズは叙任されたメソジスト牧師であったため「マシューズ博士」と呼ばれていたが、単位をとってはいなかった。 |
| マシューズはのちに「我々の教会の赤たち」という文書のなかでプロテスタントの聖職者内の共産主義への共感を書いたために、何人かの上院議員を怒らせ、退職した。 |
| 上院は1954年12月2日65対22でマッカーシーを「上院に不名誉と不評判をもたらすよう行動した」として非難した。 |
| マッカーシーの決定的な没落の原因が彼の陸軍への調査であることは確かであるとしても、合衆国上院の何人かのメンバーがマッカーシーに対し1953年のだいぶ前から反対していた事は注目する価値がある。 |
| 一つの例はマーガレット・チェイス・スミスであり、彼女はメイン州選出の共和党員(そしてそのとき唯一の女性の上院議員)で、1950年6月1日の「良心の宣言」の中でマッカーシーの名を挙げずに(それは上院のルールにより要求されていた)マッカーシーのやり方を非難している。 |
| なお、民主党の方針でマッカッシーの譴責決議案に賛成票を投じざるをえなかったジョン・F・ケネディは、「かねてから必要とされていた手術を受ける」ことを口実に投票を棄権している。 |
| マッカーシーへのもっとも有名で、そして効果的な攻撃のひとつは、ジャーナリストのエドワード・R・マローによるテレビのドキュメントシリーズの「今(それを)見よ(SeeitNow)」の中の一編で、それは1954年3月9日に放映された。 |
| ショウのほとんどはマッカーシーの演説のクリップであり、それは否定的反応のほとんどがマッカーシー自身から生まれるようにすることを目的として編集したものだった。 |
| このクリップの中で、マッカーシーは民主党を「20年間にわたる裏切り」(1933年~1953年)と非難し、陸軍大将を含む証人をどなりつけた。 |
| その後マッカーシーはマローのことを、「ソ連から資金援助を得ていた団体と関係を持っていた」(そのような事実はない)などと非難したものの、このマローによる放送は大衆に大きな反響とマッカーシーへの不信を巻き起こし、反マッカーシー派を勇気づける結果となった。 |
| この経緯はのちにジョージ・クルーニーにより映画化されている(「グッドナイト&グッドラック」)。 |