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プロフィール
- ジョセフ・P・ケネディとは
- 一族の出自と生い立ち
- 家族
- ジョセフ・P・ケネディと「ビジネス」
- 初期の職歴
- ウォール街の相場師
- 映画業界と禁酒法ビジネス
- 中央政界への進出
- 在英国大使として
- 戦後の政治活動
- マッカーシー議員との関係
- 苦悶の最期
- フィクション作品において
- 関連サイト
ジョセフ・パトリック・“ジョー”・ケネディ・シニア(JosephPatrick"Joe"Kennedy,Sr.、1888年9月6日-1969年11月18日)はアメリカ合衆国の政治家・実業家、第35代大統領の ジョン・F・ケネディの父として知られる。「ジョー」は「ジョセフ」の短縮形。巨大な資産をバックグランドにした民主党の大物政治家であり、アメリカのカトリック教徒および、アイルランド系アメリカ人の実力者でもあった。 フランクリン・ルーズベルトの大統領選出時(1932年)に財政支援を行った功によって、初代証券取引委員会委員長(1934年)、連邦海事委員会委員長(1936年)、在イギリスアメリカ合衆国大使(1938年~1 ...
一族の出自と生い立ち
| ジョー(ジョセフ・P・ケネディ・シニア)は父パトリック・J・ケネディ、母メアリー・オーガスタ・ヒッキーの長男としてマサチューセッツ州ボストンに生まれた。 |
| 父は実業家であり、アイルランド系アメリカ人コミュニティーの指導者として知られていた。 |
| ジョーの祖父パトリック・ケネディは1849年にアイルランドからアメリカ合衆国に移住してきたため、ジョーはアメリカ移住後の三代目であった。 |
| 移住後、一族はアメリカ社会でのステータスを少しずつあげていったが、依然としてボストンではアイルランド系は上流階級を形成するイギリス系プロテスタント市民(「ボストン・ブラーミン」と呼ばれた)からはよそ者扱いであった。 |
| パトリック・J・ケネディは民主党員として1885年にマサチューセッツ州選出下院議員に当選した。 |
| ジョーが生まれたとき、すでにケネディ家は裕福であり、ボストンのみならず東海岸において影響のある一族であった。 |
| 父パトリックは長男ジョーに期待をかけ、一流校であるボストン・ラテン・スクールに進ませた。 |
| 同校がボストンのプロテスタント系エスタブリッシュメントの牙城ともいうべき学校であったことから、両親がジョーに対してカトリックの枠にとどまらずに、さらなる社会的飛躍を遂げることを望んでいたことがうかがえる。 |
| ジョーの成績は決してよくなかったが、クラスメートから人気があったらしく、級長に選ばれたという記録が残っている。 |
| ジョーはハーバード大学に進学した時、ヘイスティ・プディング・クラブやデルタ・ウプシロン・クラブには加入できたが、ポースリアン・クラブのような一流クラブからは入会を拒絶された。 |
| エドワード・クライン著、金重紘訳、『ケネディの呪い』、集英社、2005年、p126。 |
| ジョーはハーバード時代、野球部で活躍したとよく喧伝したが、実際には1年次以降チームに入れず、4年の最終試合の9回にファーストとして出場したのみであった。 |
| (最終試合に出場した選手にはハーバード野球チームの紋章がもらえることになっていたため、ジョーは卒業後の進路の話をちらつかせてキャプテンを説得し、なんとか出場させてもらえたというのが真相であった)このとき、ファーストで最後のアウトをとったジョーがウィニングボールを勝利投手に渡さずに、ポケットに入れて帰ったことが、その人となりを表すものとして語り草になった。 |
| ネリー・ブライ、『ケネディ家の悪夢』、p17。 |
家族
| 1914年にジョーはボストン市長を務めた有力者ジョン・F・フィッツジェラルドの長女ローズ・エリザベス・フィッツジェラルドと結婚し、二人の間には九人の子供が生まれた。 |
| 「幸せな大家族」というイメージとは裏腹にジョーは家庭を顧みず、ローズはやがて夫の女性問題を見てみぬふりをして生きるようになる。 |
| ジョーの在世中に亡くなった子供は四人。 |
| 長男ジョー・ジュニア(ジョセフ・P・ケネディ・ジュニア)、次女キック(キャスリーン)は飛行機事故で亡くなり、次男ジャック(ジョン・F・ケネディ)、三男ボビー(ロバート・ケネディ)は暗殺された。 |
| 長女のローズマリー・ケネディは「もともと知的に障害があり」、20代で「精神的に不安定になった」ため、「精神障害である」とされ、ジョーの指示で1941年にロボトミー手術を受けさせられた。 |
| (当時、この手術は精神障害を好転させると信じられていた)執刀は同手術の熱心な推進者だったジョージ・ワシントン大学医学部のジェームズ・ワッツ博士だった。 |
| 結果、それまでは自分の身の回りのことは自分で出来、普通に会話もしていたローズマリーは廃人となった。 |
| ケネディ家はこの事実を秘し、密かに施設に送り、そこで生涯を送らせ、彼女の存在はケネディ家のタブーとなった。 |
| ローズマリーの真実については1960年7月11日号の『タイム』紙がはじめて報じた。 |
| その後、ケネディ大統領の顧問の一人だった医師のバートラム・ブラウン博士はケネディ家の医師たちへの聞き取り調査や、ローズマリーが手術前に書いた手紙や学校でのテスト結果から判断して、ローズマリーは知的障害でも精神障害でもなかったと結論した。 |
| ローズマリーの件は、不要なロボトミー手術の強制によって一人の健康な女性を社会的に死に至らしめたケネディ家の犯罪であると激しく批判した。 |
| ケネディ家はこの批判には直接答えず、知的障害者のサポート団体への莫大な寄付や、知的障害者のためのスペシャル・オリンピックスの創設などを行って世論の批判をかわした。 |
| ロナルド・ケスラー、『汝の父の罪』、文藝春秋社、pp300-321。 |
ジョセフ・P・ケネディと「ビジネス」
| ジョーは株式市場や不動産・動産投資によって莫大な富を築いた。 |
| 彼自身が一から立ち上げた事業というのはほとんどなかったが、相場の機を見るに敏で、絶妙なタイミングで資産の売買を行った。 |
| ただし、今の基準で言えば完全にインサイダー取引にあたるものも多く、内部情報の取得の仕方にも問題があった。 |
| その彼が後に証券取引委員会(SEC)の初代委員長に任命されたことで多くの非難が巻き起こることになる。 |
| ジョーはこの頃、サム・ジアンカーナやフランク・コステロといったマフィアのボスたちと組んで仕事をしたという。 |
| 具体的には「ベアー・レイド」と呼ばれる株価操作を行った結果、1929年の大暴落の引き金をひいたとも言われる。 |
| さらにジョーがマフィアと組んで酒類の密輸も行っているという噂も絶えなかった。 |
| 1957年にフォーチュン誌が「アメリカの大富豪リスト」を初めて発表したとき、ジョーは9位から16位の間に位置するとみられていた。 |
初期の職歴
| 1912年にハーバード大学を卒業すると、ジョーは父の伝で州の銀行検査官の職を得た。 |
| この仕事をしながら、ジョーは銀行業務の全容を把握するとともに、さまざまな銀行と企業の内部情報を得ることができた。 |
| 1913年、父親が大株主だったコロンビア信託銀行が他銀行による乗っ取りの危機にあったとき、ジョーは親族や友人から金を借りて他の株主が持っていたコロンビア信託銀行の株を買い取り、乗っ取りを防いだ。 |
| こうして1914年、ジョーは25歳で同銀行の頭取に選ばれた。 |
| 1914年10月7日、ジョーは民主党の有力者でボストン市長を務めたジョン・F・フィッツジェラルドの長女ローズ・フィッツジェラルドと結婚し、ここにケネディ家とフィッツジェラルド家というボストンの二大アイルランド系ファミリーが結びついた。 |
| 司式は当時のアメリカ・カトリック界の実力者ウィリアム・オコンネル枢機卿であった。 |
| 第一次世界大戦が始まると、ジョーは1917年にベスレヘム・スチール社の造船部門の支配人補佐となる。 |
| この仕事を得たのは徴兵を合法的に免れるためであったという。 |
| (その証拠に、休戦の七ヵ月後にはジョーはこの仕事を離れている)この仕事が得られたのは、ジョーを見込んだ大物弁護士ガイ・カリアと義父フィッツジェラルドのおかげであった。 |
| さらにこの仕事を通じて海軍次官補だったフランクリン・ルーズベルトと知り合ったことが後の雄飛につながる。 |
| ケスラー、p47。 |
ウォール街の相場師
| 1919年、ジョーは義父の紹介でボストンのヘイデン・ストーン社(Hayden,Stone&Co.)という老舗証券会社に職を得た。 |
| ここでジョーは株式売買業務をマスターし、自身も株の取引で大いに儲けたが、ほとんどが内部情報をもとに自分に有利な取引を行うというもので、現代なら内部者取引や違法な株価の操作にあたるものや「空売り」による利益であった。 |
| 1923年にジョーは独立し、自らの事務所を構えた。 |
| ジョーは他の出資者たちと共同で投資グループをつくり、風説を流したり、宣伝によって一般投資家たちを引き付け、株価が十分に上がったところで売り切っていた。 |
| これは違法ではなかったが、倫理的にはかなり問題のあるやり方であった。 |
| 1924年4月、ジョン・ハーツ(JohnHertz)が自らのタクシー会社イエロー・キャブ社が乗っ取りの危機にあったときに、買収を防ぐ参謀役をと頼まれ、これを守りきったことで有名になるが、自身もその最中にイエロー・キャブ株を空売りして儲けていたという。 |
| 1929年の大暴落のとき、ジョーは暴落を予期して直前にほとんどの株を売り払っていたため、被害を受けなかった。 |
| よく彼の慧眼(けいがん)を示すエピソードとして「ウォール街で靴を磨いていたパット・ボローニャなる男までが株式取引に精通しているのを見て、株式市場はそろそろ危ないと気づいた」という話がなされるが、これはジョーの作り話であるといわれ、実際にはパトロンのガイ・カリアの「株式市場はそろそろ危ない」という忠告に従ったものだったといわれている。 |
映画業界と禁酒法ビジネス
| 1920年代後半、ジョーは株式取引で得た資産を当時の新興業界であった映画産業に投資し始めた。 |
| 当時のハリウッドにはまだ大スタジオというのはなく、小さな映画会社が乱立している状況であった。 |
| そこに眼をつけたジョーは手始めに経営困難に陥っていたFBO(FilmBookingOfficesofAmerica)という映画会社を150万ドルで買収した。 |
| さらにパテ・エクスチェンジ社という会社の顧問にも就任した。 |
| 1928年10月、彼は自らの持つFBOとKAOを合併させ、新たにRKO(Radio-Keith-Orpheumを発足させた。 |
| 当時、ジョーはアレクサンダー・パンテイジス(AlexanderPantages)という男が経営していた映画館のチェーン、パンテイジス社を買収しようと話を持ちかけたが、すげなく断られた。 |
| その直後の1929年8月、パンテイジスはユーニス・プリングル(EunicePringle)なる女性を強姦しようとしたという罪で訴えられる。 |
| パンテイジスは濡れ衣であると言い張り、最終的に無罪を勝ち取るが、社会的な信用を失って、会社も結局ジョーのものになった。 |
| 二人とも既婚者であったが、すぐに情事を重ねるようになり、やがてジョーは自らが製作にあたり、エリッヒ・フォン・シュトロハイム(ErichvonStroheim)を監督にたてて、スワンソンの主演映画「クイーン・ケリー」(QueenKelly、1929年)を撮り始めた。 |
| 彼はあきらめず、「侵入者」(TheTrespasser、1929年)、「陽気な後家さん」(WhataWidow! 1930年)とスワンソン映画の製作を続けたが、スワンソン自身がジョーに愛想を尽かし始めていた。 |
| ピーター・コリヤー、デヴィッド・ホロウィッツ共著、鈴木主悦訳、『ケネディ家の人々』、草思社、1990年、上巻pp70-71。 |
| コリヤー・ホロウィッツ上巻p54、禁酒法時代のジョーの非合法ビジネスについては 土田宏、『ケネディ 神話と実像』、中公新書、p8など参照後に禁酒法が廃止されると、ジョーはサマセット社(SomersetImporters)という会社を立ち上げて、ジンとスコッチの販売網を独占し、再び大もうけした。 |
| ジョーが買った不動産の中でもっとも有名なものはシカゴのマーチャンダイズ・マート(MerchandiseMart)ビルであり、同ビルはケネディ家のシカゴでの拠点となった。 |
中央政界への進出
| 1930年、ヘンリー・モーゲンソー・ジュニアの紹介でフランクリン・ルーズベルトと面会したジョーは1932年の大統領選挙に打って出るルーズベルトの資金援助を申し出た。 |
| 資金援助だけでなく、新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストをルーズベルト支持に引き込んでみせたジョーの功績は大きかったが、大統領当選後、ルーズベルトは彼にポストを与えなかった。 |
| ようやくジョーが政府の職を与えられたのは1934年7月、新設の証券取引委員会(SEC)初代委員長に任命されたのだった。 |
| 「ニューヨーク・タイムズ」のコラムニスト、アーサー・クロックはこのとき、ジョーを擁護し、その経歴を褒め称えるコラムを書いた。 |
| ジェームズ・ランディスなど有能なメンバーに恵まれたことと、ここで一花咲かせてやると張り切ったジョーが精力的に活動したことにより、証券取引委員会の活動は高い評価を得た。 |
在英国大使として
| 当時のイギリス首相はネヴィル・チェンバレン、彼は勢力を拡大しつつあるアドルフ・ヒトラーに対して宥和政策で対応しようとしていた。 |
| 」1940年11月10日のボストン・グローブ紙日曜版にのったこの談話がジョーの政治家生命に終止符をうつことになった。 |
| 1944年8月12日、期待のジョー・ジュニアが海軍の飛行隊での任務中、イギリスでの飛行機事故で不慮の死を遂げたのである。 |
戦後の政治活動
| 特にボストン、ニューヨーク、シカゴ、ピッツバーグといった大都市のアイルランド人コミュニティーに築いた強固な基盤は息子ジャックのホワイトハウス入りの大きな推進力となった。 |
マッカーシー議員との関係
| マッカーシーのやり方が信用を失い1954年12月2日に上院で彼の問責決議が行われたとき、ジャックは民主党の上院議員として賛成票を投ずべき立場だったが、入院中ということで投票を放棄し、マッカーシーとの友情を守った。 |
苦悶の最期
| 大統領の座に押し上げた息子のジャックは1963年11月22日に遊説中に暗殺され、兄の後を次いで大統領を目指したボビーまで1968年6月6日に暗殺された。 |
| 末っ子のテッドも上院議員となり、兄たちの果たせなかった夢を果たそうとしたが、1969年7月18日に起こしたチャパキディック事件で大統領への道を絶たれた。 |
フィクション作品において
| ロバート・ハリスの小説『ファーザーランド』(映画作品名は『ファーザーランド~生きていたヒトラー~』(1994年))ではパラレルワールド(並行世界)の1960年代において、ジョセフ・P・ケネディが米国大統領として訪独、戦勝国の一首脳として高齢で存命中のヒトラーと米独首脳会談に挑もうとする姿が描かれている。 |
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1849年
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アイルランドからアメリカ合衆国に移住してき... |
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1888年
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ボストンにアイルランド系政治家の子として生... |
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ジョセフ・P・ケネディさんについてのひとこと紹介
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