| ケリーは1966年2月18日に海軍に入隊した。 |
| 8月22日にロードアイランド州ニューポートの海軍士官訓練学校に入学した。 |
| その後10月19日に現役勤務を命じられ、12月16日に辞令を受理した。 |
| 1967年6月8日にミサイル・フリゲートグリッドレイ(''USSGridley,DLG-21'')の技術士官として着任、1968年2月9日にグリッドレイは西太平洋に向けて出航した。 |
| 翌日ケリーはベトナムでの哨戒艇任務を志願した。 |
| グリッドレイはニュージーランドのウェリントン、フィリピンのスービック湾から北ベトナムのトンキン湾で航空母艦の支援を行い、接敵することもなく6月6日にはカリフォルニア州ロングビーチに帰港した。 |
| 10日後の6月16日にケリーは中尉に昇進し、哨戒艇の艇長として訓練を受け、12月6日には南ベトナムのカムラン湾で高速哨戒艇PCF-44の艇長として任務に就いた。 |
| この間、12月2日夜間から3日朝にかけて、敵に遭遇し、ケリーは左肘上にM-79グレネードの破片を受けた。 |
| 彼を手当てしたルイス・レットソン医師は彼のクルーが衛生兵にケリーのことを「マサチューセッツからの次のJFKだ。 |
| 」「いつか大統領になる。 |
| 」と話していたことを思い出す。 |
| この負傷でケリーは初めてのパープルハート章を受章し、その後任務に復帰した。 |
| ケリーはイェールでのクラスメート、リチャード・パーシングを含む5名の友人をベトナムで失った。 |
| 1969年2月28日にボーデ川で再び榴散弾の破片を左腿に受け、二度目の名誉負傷章を得た。 |
| 医師は破片を切除するのに大きく切開せずそのまま縫合処置をしたため、彼は未だに左腿に破片を持っている。 |
| ベイハプ川からの運河を他の哨戒艇3隻と共にパトロールしていたが、その水路は南ベトナム解放民族戦線の拠点だった。 |
| 他の哨戒艇がドンクン川の近くで待ち伏せされたとの報告を受け、それらの支援に向かったとき、解放戦線からのB-40ロケット弾の砲撃をキャビンに受けた。 |
| 通常であれば川岸へ砲撃を行い次に回避行動を取るのをケリーは副長のサンダスキーに艇を直接岸の待ち伏せに乗り上げさせるように命令した。 |
| この行動が勇気あるものかそれとも無鉄砲だったのか異論があるが、事実は明白である。 |
| 艇が岸に乗り上げるとベトコンはグレネード・ランチャーを抱えて茂みに飛び込んだ。 |
| 機銃手のトミー・ベロドウはM-60機銃を敵の足に撃ち込んだ。 |
| ベロドウの機銃は発射後給弾不良を起こし、マイケル・メディロスが銃撃しようとしたができなかった。 |
| ケリーはメディロスと敵兵の死体を探し、艇に戻りロケットランチャーを取った。 |
| 監督官は艇を浜に引き上げたことでケリーを軍法会議にかけるべきか、乗組員を救ったことで彼にメダルを与えるべきであるかどうか分からないとジョークを言った。 |
| 結局ケリーは銀星章を受章した。 |
| 3月13日に彼の艇は機雷に接触すると共に激しい銃撃を受けた。 |
| 左上臀部に榴散弾の破片を受け、回復まで二日を要した。 |
| この負傷と、グリーンベレー隊員ジェームズ・ラスマンの救出活動でケリーは三度目の名誉負傷章と青銅星章を受章した。 |
| ケリーは三度の負傷後に帰国した。 |
| 彼のベトナムでの任務は4月前半に終了し、その後11ヶ月をアメリカ本国で勤務した。 |
| 彼は1966年2月から1970年3月まで4年間軍で勤務した。 |
| 1970年に海軍予備役となりその後1972年には待機予備役に編入され、1978年に名誉除隊した。 |
| 批評家は彼の最初の負傷を、バントラシン剤と包帯による治療のみで任務に復帰したことで、名誉負傷章に相当しないのではないかと批判している。 |