| 1894年、新設されたシカゴ大学に哲学科主任教授として招かれ、ミードとともに移る。 |
| シカゴ時代に経験に基礎づけられた知識の理論を開発し、ThoughtanditsSubject-Matterとしてまとめられ、さらに大学同僚との共著『StudiesinLogicalTheory(1903)』として出版される。 |
| のち新しいプラグマティズムとして認知される。 |
| 1896年には既存の心理学を根底から覆した、初期の最も重要な仕事ともいわれる「心理学における反射弓の概念TheReflexArcConceptinPsychology」を発表する。 |
| 同年1月、実験学校LaboratorySchool(のちシカゴ大学付属実験学校)をつくる。 |
| 個人宅を借り、生徒は16人、教師は1人(他に補助教師が1人)であった。 |
| 様々な折衝を経て、1898年秋には実験室や食堂などを敷設した校舎に移る。 |
| 生徒は82人になっていたデューイ『学校と社会』宮原誠一訳、岩波文庫、訳者解説。 |
| 翌1899年4月、関係者や生徒の親たちを前に、3年間の実験の報告を3度行う。 |
| この講演の速記をもとに出版されたのが後に教育理論の名著として知られることになる『学校と社会』(1899年)である。 |
| なお実験学校は1903年まで続き、のちデューイスクールと呼ばれる。 |
| これらの仕事によって、シカゴ大学時代には哲学者としてよりも教育学者としての名声を高めた。 |
| なお同年、アメリカ心理学会会長に選出されてもいる。 |
| 1904年からニューヨークのコロンビア大学に招かれ哲学教授となり、晩年まで勤める。 |
| 1905年にはアメリカ哲学会会長就任。 |
| また歴史家チャールズ・ビアード、経済学者ソースティン・ヴェブレンとジェームズ・ロビンソンらとともに、ニュースクール(のちニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチ)を創設する。 |
| 1916年には『民主主義と教育』「EssaysinExperimentalLogic(実験論理学論考)」を発表。 |
| 1919年から1921年にかけて日本と中国を訪れ、中国では長期滞在した。 |
| 1922年には『人間的自然と行為』を発表。 |
| 1924年にはトルコに招へい。 |
| 1925年、デューイの最も形而上学的省察といわれる『経験と自然』を発表。 |
| 1926年、メキシコに招聘。 |
| 1927年にはウォルター・リップマンの『幻の公衆ThePhantomPublicThePhantomPublic,(Harcourt,1925).河崎吉紀訳『幻の公衆』(柏書房,2007年)』への応答として書かれ、民主主義を擁護した『公衆とその問題』を発表。 |
| 1928年にはソビエト連邦を訪れる。 |
| ソ連でデューイの教育理論が受け入れられたため視察に向かったのである。 |
| 1929年、世界恐慌が起きる。 |
| 第一次世界大戦後の1920年代はアメリカの永久の繁栄が謳歌されていた時代であったが、それが崩壊する契機となる。 |
| 危機の時代のなかで、1931年には『個人主義』を発表する。 |
| また1930年代には、教育予算が削減され、数々の学校が閉鎖したり教員が人員整理されたりした。 |
| これを受けてデューイも自身の教育理論を反省的に練り直すことになる。 |
| 1933年にはチャイルズとの共著『経済状態と教育』を発表する。 |
| 1934年には『経験としての芸術』と宗教論である『共通の信条』を発表する。 |
| 1935年の『自由主義と社会的行動』などにおいて、伝統的な個人主義は、社会の集合状態に応じて、不断に計画(プランニング)し更新していくような実験的・協同的な思考と方法にまで再構成されるべきであると主張する。 |
| のちこの「実験主義」は『論理学:探究の理論』で一般理論化される。 |
| これらのデューイの思想は、1933年からのニューディール政策に対応したもので、フランクリン・D・ルーズヴェルトの「プランニングにおける政府と産業との協同体制」と反響したものだったデューイ『学校と社会』宮原誠一訳、岩波文庫、訳者解説。 |
| 1938年には、『論理学:探究の理論』、1939年にはファシズムの起源について論じた『自由と文化』、1949年にはトランスアクションの概念を論じた『知ることと知られたもの』を発表した。 |