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1550年、ネイピアは、スコットランドの首都エディンバラの南西に位置するマーキストン城でアーチボールド・ネイピア(''Archibald Napier'') と ジャネット・ボスウェル(''Janet Bothwell'') の間に生まれた。
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ここは、現在のネイピア大学の敷地内である。
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1563年にネイピアが聖アンドリューズ大学に入学した直後、母親のジャネットが亡くなった。
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この後、大学を中退したネイピアは、フランスをはじめ、諸外国を遍歴したらしいが詳しいことは分かっていない。
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1571年頃にネイピアは故郷に戻り、父のアーチボルドの再婚に立ち会った。
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翌年、父から土地を譲り受け、ガートネス城に居を構え、エリザベス・スターリング(''Elizabeth Stirling'') と結婚した。
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エリザベスとの間には 2 人の子供ができる。
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1579年にエリザベスは亡くなり、アグネス・チザム(''Agnes Chisolm'') と再婚する。
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アグネスとの間には 10 人の子供を得る。
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この年、ネイピアは炭坑から水を外に出すための装置の発明をしている。
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1593年に『''A Plaine Discovery of the Whole Revelation of St. John''』(ヨハネの黙示録の真相)を出版し、カトリック教会を激しく批判した。
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また、この中で、最後の審判の日を1688年ないし1700年と予言している。
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この本は好評で、ネイピアの死後も版を重ね 21 版まで出版された。
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また、多言語に渡り翻訳もされて広く読まれた。
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1594年に対数の概念を発見し、以後 20 年に渡り、対数表の作成に従事する。
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1608年、父のアーチボルドが亡くなったため、マーキストン城の八代目の城主となる。
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1614年、対数表を完成させ、ラテン語の論文『 ''Mirifici Logarithmorum Canonis Descriptio'' 』(素晴らしい対数表の使い方)で発表する。
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この論文は、1616年にエドワード・ライト(''Edward Wright'') による英語訳が出版されている。
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1615年の夏には、ロンドンのグレシャム大学の幾何学の教授だったヘンリー・ブリッグスがエディンバラまでネイピアを訪ね、一月ほど滞在し、対数について議論を行った。
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翌年も、ブリッグスはネイピアの元を訪れている、さらにその次の年も、ブリッグスはネイピアに会う予定だったが、1617年4月4日にジョン・ネイピアが自分の城で息を引き取ったため会うことはできなかった。
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この時の二人の間の議論で、対数の用途について様々な角度から検討がなされ、ブリッグスの提案から常用対数や底の概念などが生まれ、対数が現代の用法に近い形で確立された。
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1619年、息子の一人、ロバート・ネイピア(''Robert Napier'') によって遺稿『''Mirifici logarithmorum canonis constructio''』(素晴らしい対数表の作成方法)が出版された。
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ネイピアの対数では、できるだけ小数を避けて、対数表が作成されていたが、この遺稿では、ブリッグスの影響かどうかはわからないが、小数を容認する方向へと進み、小数の表現方法として小数点の使用を提案し、この発明も世界中に広まることになった。