| アメリカ独立戦争の勃発に伴って1775年に大陸海軍が設立されると、ジョン・ポール・ジョーンズは軍艦アルフレッド(en)の先任将校に任じられ、次いでプロビデンス(en)の艦長となった。 |
| この間、彼は通商破壊戦に従事し多数のイギリス艦船を捕獲した。 |
| 1777年にはジョン・ポール・ジョーンズは新造のスループ、レンジャー(en)の艦長となり、フランスを基地としてベンジャミン・フランクリンの指令を受けることとなった。 |
| 1778年4月10日、ジョーンズはイギリス本土に奇襲を加えることを目的として、ブレストを出撃した。 |
| 彼はこれにより、敵による本土攻撃という事態になれていない英国民に過剰反応を呼び起こし、本土防衛強化の世論を強めることで、アメリカ沿岸へのイギリス海軍の圧力を軽減することを企図していたのである。 |
| 港の焼き討ちでは捕獲賞金にありつけないという部下の不満をなだめつつ、4月23日未明、ジョーンズ率いる奇襲隊は2手に別れてホワイトヘブン(現在のカンブリア州西部)の港に上陸した。 |
| ホワイトヘイブンが攻撃の対象となったのは、アイリッシュ海の内深い、イギリスの内海のような場所にあり、攻撃が成功すればイギリス世論に与える衝撃も大きいと見込まれたからである。 |
| またジョーンズが13歳の時に船員としてのキャリアをスタートさせた港でもあり、彼に土地勘があったことも大きい。 |
| ジョーンズが直率する隊は港の船舶を焼き払って回ったが、別の一隊はパブに押し入ると、そのまま飲み始めてしまったため、この奇襲は大した戦果を挙げることはできなかった。 |
| しかし、ジョーンズの目論見通りイギリス世論は英蘭戦争以来の本土攻撃に大きな衝撃を受けた。 |
| さらに同日午前、ジョーンズはアイリッシュ海北部沿岸のセント・メアリー島SaintMary'sIsle、島と名がついているが実際は半島(現在のダンフリーズ・アンド・ガロウェイ州のキルクブリー(en)南部)にあるセルカーク伯爵邸を襲撃し、イギリス海軍の捕虜となっているアメリカ海軍将兵との交換材料とするため、伯爵を捕らえようとした。 |
| しかし、伯爵は不在だったため、戦利品を望む部下たちは伯爵邸の金品を「徴発」したここで奪われた伯爵家の品々は、国際法違反と言うイギリスから抗議を受け、部下の給料用に密かに一部を売却した後、残りをジョーンズが部下から買い取り、謝罪の手紙とともに伯爵家に返還された。 |
| 激しい戦いの後、レンジャーはドレークを降伏させた。 |
| イギリス海域でイギリス軍艦が敵艦に降伏したというのも、イギリス世論にとって衝撃であった。 |
| ジョーンズはレンジャーの指揮権を他に譲り、しばらくパリで時を過ごしていたが、1779年8月、新たな指揮艦ボノム・リシャール(en)を得て、イギリス艦攻撃のためにロリアンを出撃した。 |
| ボノム・リシャールを中心に数隻に米仏混成艦隊が編成され、彼らはアイルランド海域を時計回りに航行した。 |
| 彼らはオークニー諸島に達してから進路を南に変更し、エジンバラ攻撃の機をうかがうに至った。 |
| 9月23日、艦隊はフランボロー(現在のヨークシャー州西部)の沖合でバルト海からやってきたイギリスの船団に遭遇する。 |
| 船団はフリゲイトのセラピス(en)および、スループのカウンテス・オブ・スカボローに護衛されていた。 |
| 両船隊の間で戦闘が始まると、ボノム・リシャールはセラピスと一騎打ちを繰り広げることとなった。 |
| セラピスはボノム・リシャールより有力な艦であり、またボノム・リシャールは船体・装備とも万全な状況ではなかったため、舷舷相摩す戦闘はセラピス優勢で推移していた。 |
| 自らの優勢を見て取ったセラピスの艦長がジョーンズに降伏を勧告すると、ジョーンズは一言、"Ihavenotyetbeguntofight!"(こっちはまだ戦いを始めてもいないんだ!)と答えてこれを拒否したというジョーンズが実際になんと言ったかについては諸説ある。 |
| この一言は大陸海軍の敢闘精神を示すものとして非常に有名になった。 |
| やがてボノム・リシャールに乗船していたフランス海兵隊の射撃が功を奏し、セラピスには死傷者が続出、ついには米仏艦隊に降伏するに至った。 |
| ジョーンズはセラピスを捕獲したが、翌日には満身創痍だったボノム・リシャールが沈没してしまった。 |
| ジョーンズはセラピスに移乗し、中立国だったオランダのテセルに入港した。 |