| 翌1979年には早くも全米オープン決勝に進出し、ビタス・ゲルレイティスを7-5,6-3,6-3で破って、20歳の若さで四大大会初タイトルを獲得する。 |
| 1980年、マッケンローはウィンブルドンで初の決勝進出を果たし、大会5連覇を目指すビョルン・ボルグに6-1,5-7,3-6,7-6,6-8で敗れたが、3時間55分に及ぶ戦いはテニス史上に残る名勝負として今なお語り継がれている。 |
| とりわけ第4セットはボルグの7つのマッチポイントを凌ぎ、タイブレークを18-16という壮絶なスコアでものにして最終セットに持ち込む大激戦となったが、最後は鉄人・ボルグの前に力尽きた。 |
| しかし、同年の全米オープン決勝で同じボルグを7-6,6-1,6-7,5-7,6-4とフルセットの末に破ると、翌1981年のウィンブルドンでは、再び決勝で相まみえたボルグを4-6,7-6,7-6,6-4で破り、前年の雪辱を果たして初優勝。 |
| こうして、マッケンローがボルグのウィンブルドン「6連覇」を阻止した。 |
| 続く全米オープンでも2年連続決勝でボルグを破り、同大会で3連覇を達成する。 |
| 同時にATPランキング1位の座をボルグから奪い取って、マッケンロー時代の幕開けを告げた。 |
| 1982年は、ウィンブルドンは決勝でジミー・コナーズ、全米オープンは準決勝でイワン・レンドルに敗れて、4大タイトル無冠に終わる。 |
| 対レンドル戦は0勝4敗(前年から6連敗)と苦手にしたが、年間ランキング1位は死守する。 |
| 1983年以降は充実期を迎え、同年のウィンブルドン、1984年はウィンブルドン、全米オープンの2冠を獲得、両年とも年間ランキング1位をキープし、名実共にトッププレーヤーとしてテニス界に君臨する。 |
| 絶頂期の1984年は、プレースタイル的に苦手な全仏オープンこそイワン・レンドルに敗れて準優勝に終わったものの、優勝した全米オープンではそのレンドル、ウィンブルドンでは2年前に苦杯をなめたジミー・コナーズを、ともに決勝で圧倒する。 |
| ツアーを通じてもレンドルに6勝1敗、コナーズに6勝0敗と、当時のランキング2位・3位である2人を全く寄せ付けず、最終的に全14大会に出場して12大会で優勝、デビスカップでの1敗を合わせても、年間わずかに3敗という圧倒的な戦績を残した。 |
| (この年の彼の年間勝率.965という記録は、2005年度のロジャー・フェデラーでさえ破れなかった驚異的な記録である)。 |
| 1985年に入ると、年明けのマスターズは前年の勢いでイワン・レンドルを一蹴する。 |
| 当時の4大大会は、年間第1戦が全仏オープンであった。 |
| マッケンロー最大の関門である全仏オープンの準決勝でクレー巧者のマッツ・ビランデルに屈すると、5年連続決勝進出中だったウィンブルドンでも、第8シードのビッグサーバー・ケビン・カレンに足をすくわれ、まさかの準々決勝敗退に終わる。 |
| 唯一決勝に進出した全米オープンもレンドルに前年の雪辱を許し、4大タイトル無冠に終わっただけでなく、ランキング1位もレンドルに奪われる。 |
| それ以後、1986年・1987年は背中の故障などもあって出場試合数が激減した。 |
| 出場した試合でも低迷が続き、ボリス・ベッカーなどの新勢力の台頭もあって、マッケンロー時代は突然の終焉を迎える。 |
| 1988年、前年の出場停止処分に端を発した長期休養から、復活を期して4月のジャパン・オープンを復帰戦として選択すると、有明コロシアムで行われた決勝では、新勢力の代表・ステファン・エドベリを6-2,6-2で破って優勝した。 |
| (準々決勝では若き松岡修造とも対戦し、マッケンローが順当勝ちした)5月の全仏オープンでは、当時絶頂期にあったイワン・レンドルに4回戦で敗れ、ウィンブルドンと全米オープンは、ともに2回戦で格下の選手に惨敗する。 |
| 以後、ツアーでの優勝は散発的にあったものの、4大大会シングルスは1989年・1992年のウィンブルドン、1990年全米オープンのベスト4が最高と、再びタイトルを獲得することはできなかった。 |
| 1990年全豪オープンでは、4回戦でハプニングがあった。 |
| この時マッケンローはミカエル・ペルンフォルス(スウェーデン)との対戦中に審判への暴言をやめなかったため、第4セットの途中(スコア:6-1,4-6,7-5,2-4/すなわち、マッケンローがセットカウント2-1とリード中)で主審から「失格」を言い渡された。 |
| これに観客は憤り、試合会場を立ち去ってしまった。 |
| このペルンフォルス戦は、マッケンローの“悪童”ぶりが度を過ぎた試合の最たる例として語り草になっている。 |
| ダブルスでは、ピーター・フレミングの引退後も活躍を続け、オーストラリアのマーク・ウッドフォードとペアを組んだ1989年の全米オープンで優勝する。 |
| 引退を表明した1992年にも、ドイツのミヒャエル・シュティヒと組んで8年ぶりにウィンブルドンで優勝を飾った後、デビスカップでもピート・サンプラスとペアを組んで、決勝のスイス戦では2セットダウンから逆転勝ちして優勝を決めるなど、最後の活躍を見せている。 |
| 特にシュティヒとペアを組んでジム・グラブ&リッチー・レネバーグ組(ともにアメリカ)を5-7,7-6,3-6,7-6,19-17で破った決勝の試合時間「5時間1分」は、ウィンブルドン男子ダブルス決勝の史上最長時間記録である。 |
| 1992年に33歳で現役を引退した後は、テレビ解説者として活躍する一方、ビョルン・ボルグたちとともにシニアツアーに参加し、来日も果たす。 |
| 1999年ウィンブルドンでは、シュテフィ・グラフとペアを組んで混合ダブルスに出場している。 |
| 1999年に国際テニス殿堂入り。 |
| 2006年には突如ダブルスでツアー復帰を宣言し、ヨナス・ビョークマンとペアを組んだサンノゼ・SAPオープンで優勝を飾っている。 |
| マッケンロー47歳、ビョークマン33歳ペアの優勝は、記録的にも特筆に値する。 |