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プロフィール
- ジョン・ロスとは
- 概要
- チェロキーのモーゼ
- 少年時代
- 事業活動
- 政治的な修業
- 指導者就任
- チェロキー・ネーションの首長
- 最高裁判所訴訟
- ロス対リッジ党
- 中立の試み
- アメリカ連合国との同盟
- 関連サイト
ジョン・ロス(、1790年10月3日-1866年8月1日)は、グウィスグウィ( 神話の鳥、あるいは珍しい渡り鳥)とも呼ばれ、1828年から1860年までの チェロキー族インディアン・ネーションの首長(PrincipalChief)である。その民族の モーセとも言われ、開拓、 オクラホマへの移住および南北戦争という騒々しい時代に民族を率いた。
概要
| 1690年から1745年、チェロキー族は民族国家(ネーション)になろうと試み、先祖からの土地を失い、インディアン居住地への移動に耐え、また破壊的な南北戦争を味わった。 |
| これら騒々しい時代にチェロキー・ネーションにおける有力な政治的人物がジョン・ロスであり、その指導力はこの全時代に及んだ。 |
| ロスの先祖を辿ると8分の7はスコットランド人の血を引いており、チェロキー族の中やアメリカの辺境という環境で育った。 |
| 白人に英語の教育を受け、チェロキー語は拙く、ネーションの中でも最も富める者の一人だった。 |
| ロスの血筋、教育、身分および経済利益の追求において、政敵であるアンドリュー・ジャクソン大統領やジョージア州知事のジョージ・R・ギルマーとよく似ていた。 |
| チェロキー・ネーションの特権階級の中にあった。 |
| ロス自身の人間性によって民族や先住民に関する19世紀アメリカの思いこみに疑問を投げ掛けることになった。 |
チェロキーのモーゼ
| ロスの人生は、北アメリカやカナダの著名なイギリス系混血者(メティス)の人生に似た様態があった。 |
| 北アメリカのスコットランド人やイングランド人毛皮交易業者は先住民を先祖に持つ上層の女性と結婚し、社会的地位も財政的地盤もあるのが普通だった。 |
| この関係は交易業者にも先住民にも役に立った。 |
| 彼等は子供達を複数の文明と多言語の環境で育てた。 |
| 混血の子供達同士でしばしば結婚し政治的にも経済的にも社会における卓越した地位に昇ったRobertE.Bieder,"{{PDFlink| |
| 19世紀にチェロキー族が経験した環境変化の中で、彼等はロスも習得した技術と言語を必要とした。 |
| チェロキー族の大多数は熱心にロスを支持し、1828年から1860年までの全ての選挙でロスを首長に選出した。 |
| 領土に関する闘争で先住民の事情に関してロスの偉大さや議論があるが、ロスが専制的であり、貪欲で、チェロキー・ネーションを「欺そうとした貴族的指導者」と考えるチェロキー族の声高い少数者やワシントンの政治的指導者の世代もある''TheCorrespI。 |
| ロスには、インディアン問題担当コミッショナーのトマス・マッキニー(在任1824年-1830年)を含み、ワシントンの影響力有る支持者もいた。 |
| マッキニーは「その民族を生まれついた国から新しい国へ、未開の状態から文明化された状態への脱出(エクソダス)を導いたモーゼのように、チェロキー・ネーションの父と表現したThomasL.McKennyandJamesHall,''TheIndianTribesofNorthAmerica'',VolumeIII.(Edinburgh:JohnGrant,1934),p.310.。 |
少年時代
| File:Rosshouse.svg|thumb|300px|19世紀初期にジョン・マクドナルドが立てた家。 |
| 移住前までジョン・ロスが住んだ。 |
| 現在もジョージア州ロスビルに建っている。 |
| ロスはアラバマ州のクーザ川に沿ったルックアウト山に近いターキータウンで、チェロキー族とスコットランド人の混血であるモリー・マクドナルドとスコットランド人移民で交易業者のダニエル・ロスの息子として生まれた。 |
| ロスのスコットランド人の血は、スコットランド人通訳ウィリアム・ショーリーが、チェロキー族バード流の「純血」者ギグーイーと結婚した時に始まった。 |
| 1769年、彼等の娘、アンナ・ショーリーがテネシー州ルードン砦でスコットランド人毛皮交易業者、ジョン・マクドナルドと結婚した。 |
| スコットランド人やイングランド人毛皮交易業者は、幾らかの財政的裏付けを持って到来する社会的基盤のある者達だった。 |
| 彼等の子供は、混血であろうとそうでなかろうと、この時代には彼等の地位と階層を受け継いだ |
| 彼等の娘、モリー・マクドナルドが、アメリカ独立戦争の時に交易業者としてチェロキー族の間に住み始めたスコットランド人、ダニエル・ロスと1786年に結婚したEmmetStarr,notesfor''HistoryoftheCherokeeIndians''.OklahomaCity:OklahomaHistoricalSociety,GilbertEatonGovanandJamesW.Livingood,''TheChattanoogaCountry,1540-1951''.(NewYork:E.P.Dutton,1952),pp.26-27.。 |
| ロスはその子供時代を両親とルックアウト山地域で過ごした。 |
| 父の交易会社に度々通ってくる純血チェロキー族と合うことで、チェロキー族社会の多くを目にした。 |
| 子供のロスはグリーンコーン祭りのようなチェロキー族の行事への参加も許された。 |
| 父のダニエルは息子にチェロキー族の慣習に参加するよう喜んで認めたが、息子は厳密な教育も受けるべきと考えた。 |
| ロスは家庭内で教育を受けた後で、チェロキー族の子供達のためにテネシー州南東部に2つの学校を創ったギデオン・ブラックバーン牧師について高等教育を受けた。 |
| 授業は英語で行われ、生徒はロスと同様に大半が多文化の者達だった。 |
| ロスはテネシー州サウスウェストポイントの専門学校でその教育を終えたGaryE.Moulton,''JohnRoss,CherokeeChief''.(Athens:TheUniversityofGeorgiaPress,1978),p.5.。 |
事業活動
| ロスは20代で教育を完了して多言語にも精通し、西部チェロキー族に対するアメリカ合衆国インディアン代理人に指名され、アーカンソー州に派遣された。 |
| 米英戦争の時はチェロキー連隊で副官を務めた。 |
| この連隊はイギリスに同盟するクリーク族に対するホースシュー・ベンドの戦いに参戦した。 |
| ロスはその後一連の事業を開始した。 |
| テネシー州で20人の奴隷を使い、170エーカー(0.68km2)の農園を経営することからその資産の大半を得た''ThePapersofChiefJohnRoss'',VolumeI,ed.GaryE.Moulton(Norman,Oklahoma:UniversityofOklahomaPress,1985),p.5.TheCherokeeNationjointlyownedallland;however,improvementsonthelandcouldbesoldorwilled.。 |
| 1816年、ロスは「ロスの渡し場」と渡し船を設立した。 |
| さらに、交易会社と倉庫を作った。 |
| 事業の全体で年に1,000ドル以上を稼いだ。 |
| ロスとチェロキー族がオクラホマに移住した後、開拓者達はロスの渡し場をチャタヌーガと改名した。 |
| 1827年、ロスはチェロキー族の首都であるニューエコタに近付くためにアラバマ州クーザ郡に移転し、ネーションの政治家達を指導した。 |
| クーザでは別の渡し船を造った。 |
| やはり20人の奴隷を所有し、170エーカー(0.68km2)の農地を開拓した。 |
| 1836年12月までにロスの資産は23,665ドルと評価されるようになった。 |
| 当時チェロキー・ネーションの中で裕福な者5傑に入った''Ibid.'',pp.457,465.。 |
政治的な修業
| 1812年から1827年は、ロスにとって政治的修業の期間でもあった。 |
| アメリカ合衆国との交渉の仕方を覚え、政府を運営するための技術を学ぶ必要があった。 |
| 1814年以降、チェロキー族立法者と外交官としてのロスの政歴は、首長パスキラー、首長補佐のチャールズ・R・ヒックス、およびチェロキー・ネーションの年長の政治家メイジャー・リッジのような者達の支援で発展していった。 |
| 1813年、アメリカ合衆国との関係がより複雑なものになり、年取って、教育を受けていないパスキラーのような首長では効果的にチェロキー族の利益を守れないようになった。 |
| ロスの支配的立場は、教育を受け、英語を話す指導者がネーションとして重要であるとチェロキー族が認めたことを示していた。 |
| パスキラーもヒックスもロスをチェロキー・ネーションの将来の指導者と見なし、そのための訓練をした。 |
| ロスはパスキラーとヒックスの秘書を務め、ネーションの財務や政治のあらゆることに関わったMoulton,''JohnRoss,CherokeeChief'',p.23.。 |
| チェロキー族の将来の指導者の教育として同じくらい重要だったのはチェロキー・ネーションの伝統についての教導だった。 |
| ヒックスはロスに宛てた一連の手紙の中で、チェロキー族の伝統と知られるものを概説した''ThePapersofChiefJohnRoss'',VolumeI,1807-1839,p.32.。 |
| 1816年、ネーション議会はワシントンD.C.に送る初代代議員としてロスを指名した。 |
| 1816年の代表団はネーションの境界、土地の所有権、およびチェロキー族の土地への白人の侵入という微妙な問題の解決を指示された。 |
| 代表団の中でロスだけが英語に流暢であり、このことで交渉の場の中心人物になった。 |
| 伝統的に年長者を好むチェロキー族社会にあってロスのような若者には特異な地位となったMoulton,''JohnRoss,CherokeeChief'',p.15,FredO.Gearing,''PriestsandWarriors:SocialStructuresforCherokeePoliticsintheEighteenthCentury'',(Menasha,Wisconsin:1962),p.40.。 |
| ロスが初めて政治家として地位を得たのは1817年11月にネーション議会を形成した時だった。 |
| ロスは13人の議員のうちに選ばれ、そろぞれが2年間の任期となった。 |
| ネーション議会はアンドリュー・ジャクソン将軍がチェロキー族少数派を代表する小さな徒党と2つの条約を結んだ後で、チェロキー族の政治的権威を固めるために創設された。 |
| ネーション議会の議員であることで、ロスはチェロキー族指導層の支配的特権階層に入った。 |
| left|frame|若いときのジョン・ロス。 |
指導者就任
| 1818年11月、チェロキー族代理人ジョセフ・マクミンとの協議会前に、ロスはネーション議会の議長になった。 |
| 議会はアメリカ合衆国がチェロキー族の土地を割譲するよう要請してきているのを斥けるために必要な外交術をロスが持っていると考えたので、ロスを議長に選んだ。 |
| マクミンはチェロキー族がミシシッピ川の向こうに移住することで20万ドルを提供すると提案したが、これをロスが拒絶したMoulton,''JohnRoss,CherokeeChief'',p.20.。 |
| 1819年、議会は再度ロスをワシントンに送った。 |
| 代表団は、割譲する土地の上限を交渉する必要があり、残っている土地でのチェロキー族の権利を明確にすることを望んだ。 |
| 当時のアメリカ合衆国国務長官ジョン・カルフーンはテネシー州とジョージア州の広大な土地を割譲するようロスに圧力を掛けた。 |
| このようなアメリカ合衆国政府からの圧力はその後も続き、強くなっていった。 |
| 1822年10月、カルフーンは、1802年盟約におけるアメリカ合衆国の義務を全うするために、ジョージア州が権利主張する土地をチェロキー族が放棄することを求めた。 |
| ロスはカルフーンの提案に回答する前に、チェロキー族の人々の感情をまず確認した。 |
| 1824年1月、ロスはチェロキー族の土地所有権を守るためにワシントンに行った。 |
| チェロキー族の土地を放棄して西部に移住するか、ネーションを解体してアメリカ合衆国市民になることを受け入れるかだった。 |
| 1824年4月15日、アメリカ合衆国議会に直接請願するという劇的な手段を採った。 |
| しかし、現存する嘆願書の日付は、チェロキー族がアメリカ合衆国議会を支援のための手段として初めて使ったネーションであるという考えを支持している。 |
| ジョージア州の代表団は「ジョージア・ジャーナル」の論説でロスの交渉術を認め、チェロキー族代表団の文書はあまりに洗練されていてインディアンによって書かれるか或いは口述されたとは考えられないので、不正なものであると非難した''ThePapersofChiefJohnRoss'',VolumeI,1807-1839,p.78.。 |
チェロキー・ネーションの首長
| 1827年2月23日付けでチェロキー族代理人ヒュー・モンゴメリー大佐に宛てたロスの手紙では、ヒックスの死によってロスがネーションの政治的な事項の責任者となったと記していた。 |
| 1827年5月、ロスは24名の委員からなる憲法制定委員会委員に選ばれ、委員会が起草した憲法では、首長、首長の諮問委員会、およびナショナル・コミッティを要求し、これらが一緒になってチェロキー・ネーションの総協議会を形成することとした。 |
| 彼等は、アメリカ合衆国政府の複雑さを理解し、その知識をネーションの政策遂行に活かすことのできる強い指導者の姿をロスの中に見た。 |
最高裁判所訴訟
| right|250px|thumb|スーツを着て帽子を持つジョン・ロス。 |
| 1828年12月20日、ジョージア州はアメリカ合衆国がチェロキー・ネーションの移住を実行に移せないことを恐れ、チェロキー族からその権利を剥奪する一連の抑圧法を法制化し、チェロキー族の移住を強制しようとした。 |
| このような情勢にあって、ロスはジョージア州とチェロキー・ネーションの間の年金不払いと境界に関する論争を解決するために、1829年1月にワシントンにまた代表団を連れて行った。 |
| ロスはアメリカ合衆国議会では、国民共和党の個人の中で、上院議員ヘンリー・クレイ、セオドア・フリーリングハイゼンやダニエル・ウェブスター、下院議員アンブローズ・スペンサーやデビー・クロケットの支持を得た。 |
| このような支持にも拘わらず、1829年4月、陸軍長官ジョン・イートン(在任1829年-1831年)はロスに、ジャクソン大統領はチェロキー・ネーションに対するジョージア州の法律を及ぼす権利を支持すると告げた。 |
| 1830年、アメリカ合衆国議会はインディアン移住法を成立させることで、ジャクソンの強制移住政策を裏書きした。 |
| ロスとチェロキー族代表団がアメリカ合衆国政府の行政府や議会との折衝を通じてチェロキー族の土地を守ろうという運動に失敗したとき、ロスはアメリカ合衆国裁判所を通じてチェロキー族の権利を守ろうという過激な手段に転じた。 |
| 1830年6月、ウェブスター上院議員やフリューリングハイゼン上院議員の薦めで、チェロキー族代表団はジェームズ・モンロー政権やジョン・アダムズ政権でアメリカ合衆国司法長官を務めたウィリアム・ワートを、アメリカ合衆国最高裁判所でチェロキー族の権利を弁護するものとして選出した。 |
| 1832年5月、最高裁判事ジョン・マクリーンはチェロキー族代表団との非定例の会合で、チェロキー族の状態に対するその見解を表明した。 |
ロス対リッジ党
| リッジ党の存在に圧力を感じたロスは、1835年2月25日、ミシシッピ川の東にある全てのチェロキー族土地をミシシッピ川西の土地と2,000万ドルとで交換することに同意した。 |
| 1835年12月29日、リッジ党はアメリカ合衆国とのニューエコタ条約に署名して移住に同意したが、この行動はチェロキー族の大多数の意志に反するものだった。 |
| 1838年までにインディアン準州に移住しなかったチェロキー族はウィンフィールド・スコット将軍によって強制移住させられた。 |
中立の試み
| 南部諸州がアメリカ合衆国から脱退してアメリカ連合国を形成したとき、以前の条約締結派の中核を形成していた奴隷を所有するチェロキー族がスタンド・ワティーの下に党派を形成し、新しいアメリカ連合国政府との条約締結を推進した。 |
| ロスはアメリカ合衆国(北部)との条約と、アメリカ連合国に同調するチェロキー族のメンバーとの間の紛争を見ながら、ネーションを統一していくため、およびチェロキー族の権利が失われないようにするために、中立政策を選択した。 |
| 1861年2月、ロスはチカソー、チョクトーおよびクリーク各ネーション指導者の間に活発な運動を始めて、その政策を前進させ、条約で得た権利を守るためにアメリカ合衆国への忠誠を強調した。 |
アメリカ連合国との同盟
| ロスは、「我々の共通の国の福祉のために感情と行動を統一していることの重要性を人々が深く心に刻むようになる手段を編み出すという目的」で、1861年8月21日に実行協議会を招集することで事態を収めようとした。 |
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1745年
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チェロキー族は民族国家(ネーション)になろ... |
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1769年
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彼等の娘、アンナ・ショーリーがテネシー州ル... |
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