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プロフィール
- ジョージ・パットンとは
- 生い立ち
- 初期の軍歴
- 第一次世界大戦
- 戦間期
- 第二次世界大戦
- 北アフリカ戦役
- イタリア戦役
- ノルマンディー戦役
- ロレーヌ地方における進撃
- バルジの戦い
- ドイツ降伏後と急死
- 人物像
- 関連サイト
ジョージ・スミス・パットンジュニア(GeorgeSmithPatton,Jr.1885年11月11日-1945年12月21日)はアメリカ合衆国の軍人。モットーは「Beaudacious!( 大胆不敵であれ!)」。__TOC__
生い立ち
| カリフォルニア州サン・ガブリエル(SanGabriel)生まれ。 |
| 祖父は南北戦争中南部連盟の兵士であり、オペクォンの戦いで戦死している。 |
| またアメリカ独立戦争で戦ったヒュー・マーサー准将の血も引き継いでおり、アメリカ合衆国設立当初から続いている由緒正しい軍人一家の一員であり、パットン本人もそれを非常に意識していた。 |
| バージニア州立軍事学校(VirginiaMilitaryInstitute)およびウェストポイント陸軍士官学校で教育を受けた。 |
| 幼少の頃から将軍になろうと英雄願望を持っていた。 |
| 幼少時から妹と軍人ごっこをして遊んでおり、その頃からLieutenantGeneralGeorgieS.Patton,Jr.(パットン中将)を名乗っていた。 |
| 古典文学と戦史を勉強する知的な子供ではあったが、基礎的な学習能力に問題があり、学校教育の全体にわたって影響した。 |
| 他の子に比べ読み方を学ぶのが遅れ、綴り方のような基本的学習を行わなかった。 |
| 今でいう失読症であったと言われている。 |
| ウェストポイント卒業後、近代五種競技のアメリカ合衆国代表として、1912年のストックホルムオリンピックに参加。 |
| 近代五種は伝統的にヨーロッパ勢が強く、5位という成績を残す。 |
| 輪廻転生の信仰者でもあった。 |
| 多くの文献が、彼が自身をカルタゴのハンニバル将軍の再来であると主張したことを記している。 |
| 他にもナポレオンとともに戦ったとも言い、ローマの軍団兵であったとも主張していた。 |
初期の軍歴
| 1916年のメキシコ国境戦役中に、パットンはテキサス第13騎兵連隊に配属され、パンチョ・ビリャ懲罰遠征時のジョン・パーシング准将の副官となった。 |
| 戦役中、第6歩兵連隊の兵士10人を同伴したパットンは、ビリャ個人の護衛隊指揮官フリオ・カルデナス将軍を殺害した。 |
| 帰国後パットンはこの戦功で評価を上げる。 |
第一次世界大戦
| 第一次世界大戦にアメリカが参戦するにあたり、パーシング将軍はパットンを大尉に昇進させた。 |
| フランスにおいてパーシング将軍は、パットンに新しく編制されたアメリカ戦車部隊の戦闘指揮を取らせた。 |
| ミューズ・アルゴンヌ方面での作戦において負傷し、戦時昇進により大佐にまで昇進した。 |
| ちなみにパットンは第一次世界大戦に参加した将兵では珍しく、塹壕戦と言うものを全く無意味だと信じており次の戦争は塹壕を掘ったり陣地を守ったりで勝敗が決まることは無く、機動力で決するであろうと信じていた。 |
戦間期
| 第一次大戦中に戦時昇進で大佐に昇進したが、大戦の終結により少佐に降格となる。 |
| 1919年のワシントン勤務中にアイゼンハワーと親友になった。 |
| このことは、後のパットンの人生に大きな影響を与えた。 |
| 1920年代の前半には、アメリカ議会に対し、機甲部隊に対する予算措置を要請したが、認められなかった。 |
| また、戦車や機械化部隊についての記事を書き、これらの兵器についての用法を示唆した。 |
| 平時における緊縮した軍事予算は、パットンの昇進にも影響した。 |
| 根っからの戦争好きだったパットンにとって戦争の無い平和な期間と言うのものは耐えがたかったらしく、この戦間期はパットンやその家族にとっては大変難しい時期になってしまった。 |
| 戦争に参加できない不満のせいかパットンはこの期間中に娘の親友と不倫をして離婚寸前になったり、頻繁に癇癪を起こして娘達に煙たがられたり、アルコールに溺れたり、度を過ぎた甘党になったりと明らかにその情熱を持て余しているような行為が多かったこの期間中彼は日記に「早く次の戦争が始まらないだろうか」等と不穏当な事を書いており、米国と日本やドイツとの関係が悪化すると明らかに戦争を期待しているような記述が増えた。 |
| その結果、1938年に大佐に昇進した頃にはもはや米国の参戦が待てないと言うほど生気に漲っており、今すぐにでも戦争に参加できると公言していた。 |
| その後ドイツの電撃戦により、アメリカ軍においても機甲師団の必要性が認識された。 |
| パットンはその能力が認められ准将に昇進し、機甲旅団長に着任した。 |
| この機甲旅団は後にアメリカ第2機甲師団となり、パットンも少将に昇進した。 |
第二次世界大戦
| アメリカ陸軍が第二次世界大戦に参戦するにあたり、パットンはカリフォルニア州インディオ(Indio)に砂漠戦訓練センターを設立した。 |
| 1941年のルイジアナにおける演習においては、2個軍を指揮している。 |
北アフリカ戦役
| 1942年11月にパットンは少将として、アメリカ第1機甲軍団を指揮しトーチ作戦でモロッコに上陸した。 |
| 次いで、1943年3月6日に中将に昇進し、同時に更迭されたフリーデンタール中将の後任として第2軍団の司令官に就任した。 |
| 同軍団はドイツ・アフリカ軍団によってカセリーヌ峠の戦いで大敗を喫したところであった。 |
| パットンはオマール・ブラッドレー少将を副官とした。 |
| 多くの米軍将校や英軍将校によれば当時北アフリカに駐屯していた米軍は規律に緩く、弱かったらしい(当初は英軍に『われわれ(連合側)のイタリア軍』と揶揄されていた)。 |
| パットンは着任早々将兵達に厳格に規律を守るように命令し、軍規を守らなかったものには容赦なく罰を科した。 |
| また、今までと全く違った厳しい訓練を行い、北アフリカの米軍を文字通り叩きなおした。 |
| 良くも悪くも軍人らしい軍人だったパットンは必ずしも人気のある指揮官ではなかったが、敬意は払われていた。 |
| ほんの些細な事でも軍規を守らなかった将兵には厳しい罰則を課した反面、勇敢に戦った将兵や勇気ある行動を示した将兵の事は過剰なまで褒め上げ、その健闘を称えた。 |
| また部下の訓示でも『私を見つけたかったら師団の先頭を走っている戦車まで来い』と言っているように常に前線で指揮を取る事を好んでいた。 |
| また彼は部下の将校にもそのような積極的な態度を要求しており、北アフリカに着任してから後方に安全な指揮所を開設しただけでそこから動こうとしない将軍などは容赦なく罷免した。 |
| これらの策は功を奏し、パットンの部隊は東から攻め寄せるモントゴメリーの英軍とドイツ軍を挟撃し、1943年5月までには、ドイツ軍を北アフリカから駆逐した。 |
イタリア戦役
| 北アフリカでの戦功により、第7軍の司令官となったパットンは、1943年7月にシチリア島に上陸した。 |
| 第7軍の役割は、島の北東端のメッシナに直進するモントゴメリーの英第8軍の西側面を援護することであったが、第8軍がエトナ山の南で激しい抵抗にあって進撃を停止すると、パットンは島の西部に迅速に進撃し、島の中心都市であるパレルモを解放し、返す刀で東方に転回して、英軍の担当箇所であったメッシナを英軍より先に占領している。 |
| しかしドイツ・イタリア軍はメッシナ海峡の制空権と制海権を保持していたので、シチリアに駐屯していたドイツ・イタリア軍のほとんどは重装備と共にイタリア本土に引き上げてしまった。 |
| シチリア島における作戦の最中、パットンは野戦病院を見舞っているが、そこで有名な「兵士殴打事件」を起こしている。 |
| 彼はまったく外傷のない兵士を見つけ、臆病であるとしてその兵を殴打(持っていた手袋で叩いたとも、又、映画『パットン大戦車軍団』では‘臆病者は銃殺してやる’と自身の拳銃に手を掛けたが、周囲に制止された)してしまった。 |
| その兵士は砲弾神経症によって精神状態が不安定になっていたために入院していたのであるが、一見健康そうな者が重傷者達と一緒に病院のベッドに寝ていることがパットンには我慢がならなかったのであろう。 |
| また、砲弾神経症(いわゆるシェル・ショック)がどのようなものか理解していなかったため、単なる臆病な兵士に見えてしまった可能性も高い。 |
| 現場にいた特派員はこれを報じなかったが、現場の医師がこの件をアイゼンハワーに報告したため、かねてよりパットンを疎んじていた司令部の判断で一気に大事件として報道されてしまった。 |
| アイゼンハワーはこれを機会にパットンを本国に送還するつもりだったが、ジョージ・マーシャル総参謀長と話し合った結果それは取りやめ、前線指揮官の地位を剥奪するにとどめたという。 |
| パットンはその後自主的に被害にあった兵と現場にいた兵士達に謝罪している。 |
| パットンは第7軍の指揮を外され、その後カイロで10ヶ月近く待機することとなった。 |
ノルマンディー戦役
| 1944年6月、ノルマンディー上陸作戦期間中のパットンはアメリカ第1軍集団の指揮を命じられていた。 |
| この部隊は実体のない部隊であり、連合軍がノルマンディーではなくカレーに上陸しようと見せかける欺瞞作戦の一環であった(フォーティチュード作戦)。 |
| 部隊の指揮を外された彼にとっては打って付けの役目であったが、戦争狂とも言えるほど戦争好きだったパットンにとっては耐え難い忍耐の日々だったようだ日記や妻の手紙に(彼は毎日のように日記をつけ、頻繁に妻に手紙を書いていた)戦争が起こっているのにそれに参加できない焦燥感や、前線指揮に復帰する前に戦争が終わってしまうのではないかと嘆いていた。 |
| その後のノルマンディー地方における戦いにおいては、アメリカ第3軍の指揮を執り連合軍部隊の最西端を担った。 |
| ここでドイツ軍戦線突破の作戦・コブラ作戦が実行され、パットンはまるで水を得た魚のように活躍し第3軍で戦線を突破して大進撃を開始する。 |
| 少なくない数のドイツ兵が装備を捨てて散り散りになって包囲を脱出することに成功したものの、1万を超える戦死者(負傷者を含めれば6万人)と5万を超える捕虜を出した「西方のスターリングラード」とも呼ばれた大敗北であった。 |
| しかし英軍の進撃が遅かったせいでより多くのドイツ兵を捕らえ損なっていたと思っていたため、パットン本人はこの結果に不満であった。 |
| 彼が敵の抵抗拠点を見つけた場合、停止しその拠点を攻略してから攻撃を再開するより、機動力を生かして敵の後方に回り込むことを好んだ。 |
| パットンはそうやってドイツ軍の抵抗拠点の多くを無力化し、攻略したパットンは側面と言うものは敵が守るもので自分たちが守るものではなく、また敵の防御陣に正面からぶち当たるのは愚か者のする事だと常に自軍の将兵達に説いていた。 |
ロレーヌ地方における進撃
| パットン率いる第3軍もフランス東部ロレーヌ地方に進撃する。 |
| まず第1は、パットンが自分の部隊が第2戦線を担当している部隊であると認めたがらなかったため、とするベラガン(アメリカの防衛白書の中に寄稿されていた記事の筆者のようである)の説である。 |
| 確かにその時点で連合軍の主攻撃は大西洋・ドーバー海峡に近いエリアで行われており、抵抗の弱さもありフランス中部は必ずしも重要視されていなかったと言うのは事実である。 |
| 作戦の初期段階で大きな港湾施設を持つ港湾都市を得るのに失敗していたこともあり、連合軍の補給能力は第2戦線で進撃中の機甲軍団にガソリンを十分補給するほどの余裕がなかった、というのは確かに事実かもしれない(まだ補給に使える港を解放できていないので、補給物資は全てノルマンディーの海岸で陸揚げしてトラック輸送するしかなかったし、このトラックのためにガソリンもまた必要だった上にパットンが進撃すればするほど当然補給線は長くなった)。 |
| 連合軍総司令官のアイゼンハワーは円滑に戦争を遂行するためには英国の意向を無視することができないと言うのが分かっていたため、モントゴメリーの第21軍集団の方により多くの補給物資を割り当てたと言うのだ。 |
| モントゴメリーは自分の第21軍集団に多く物資を回してもらえれば「戦争を終える事ができる程の一撃」をドイツ軍に与えることができると強弁していたのだ(この強弁が後のマーケット・ガーデン作戦となる)。 |
| 第21軍集団の方が優先順位が高かったせいと、補給物資が届かなくても進撃の速度を緩めなかったせいで、パットンの第3軍は文字通り動けなくなってメッツの目の前で「停止」してしまったのだ。 |
| パットンは常々「マーケットガーデン(モントゴメリーの第21軍集団主導で行われた作戦)に使用されただけの物資が第3軍に回ってきていたら戦争は12月までに終わっていた」と愚痴っていたが、そこまでうまく行ったかどうかは定かではない。 |
バルジの戦い
| 1944年12月のバルジの戦いでは、パットンの指揮する第3軍の北方でドイツ軍の攻勢が行われた。 |
| ドイツ軍の突出部の中でも南部にあったバストーニュは交通の要衝であったため、アメリカ第101空挺師団がここを死守していた。 |
| 12月19日にヴェルダンのブンカーでアイゼンハワーらと会った時、パットンはどのぐらいの時間があれば軍を北方に向けられるかを尋ねられ「48時間以内に可能である」と答えている。 |
| アイゼンハワーは「無茶なこと言うな!」と言い、準備が十分に整ってからで良いと言ったが実はパットンは会議に出席する前に北部に反撃する準備をしておくように部下に伝えてあり、尋ねられた時点ですでに局地的な反撃は行われ始めていたのである。 |
| 12月26日には第3軍の一部がバストーニュにたどり着きバストーニュの近くまでたどり着いた部隊の指揮官がパットンに「バストーニュまで到達できるかもしれませんが困難が予想されます」と報告した時パットンは「まずはやってみろ」と命令している。 |
| その後、第3軍はドイツ軍を追撃してザールランドや西ボヘミアへ進出、さらにプラハへ進撃する予定であったが、その前にドイツは降伏し、終戦となった。 |
ドイツ降伏後と急死
| 180px|thumb|ロサンゼルスでの戦勝パレードにて(1945年6月9日)。 |
| ナチス党に所属していた事自体が罪だと思っていなかったパットンは他の指揮官と違って占領地域での非ナチ化政策は行わなかったのだが、その行為はメディア等から疑問視されていた。 |
| そして1945年の9月22日に行われた記者会見で「何故ナチス党員だった職員をそのまま働かせているのか」と聞かれたパットンはドイツ国民にとってのナチスはアメリカ国民にとっての民主党と共和党と同じようなものであると言う趣旨の発言をして、メディアや政治家から批判の嵐にさらされた。 |
| その発言の趣旨はあくまでナチス党はヒトラー政権下では合法的かつ唯一の政党であり、その当時ナチス党に所属していた事自体を犯罪として考えるべきではない、と言う彼のスタンスを説明したものだったのだがその説明をする時にわざわざアメリカの政党をナチス党と同レベルで扱ったと言う事で多くのアメリカ国民を怒らせてしまったのだ。 |
| 彼はその後12月9日にハイデルベルクで自動車事故(暗殺の疑いもある)により重傷を負った。 |
人物像
| 彼には機甲部隊の重要性を提唱するなど先見の明があったが、その思考における軍人・軍隊像は第二次世界大戦の初期までで止まっていたようである(ただし後述のように、大戦終結後に見たソ連機甲部隊に対する評価など、自身の思考内で判断できる事象については正確に判断できた)。 |
| パットンの融通の無さを物語るエピソードとして、大戦後期のアメリカ陸軍の主力戦車であったM4シャーマンはドイツ軍の火力に対して装甲があまりに貧弱だったため、前線では車体周囲に土嚢を積み上げて増加装甲の代わりとしていたが、パットンが第3軍では土嚢装甲を禁じたため、やむなく撃破された自軍やドイツ軍の車両から切り出した鋼板を装着していたという逸話がある。 |
| この件については、土嚢に対戦車徹甲弾を減衰させる能力はほとんどなく、重量によって、戦車の機動力を損なうことを、第3軍の幕僚に調査させて知っていたためとも言われている(土嚢装甲に限らず、装備の改良についてはよく調査を行い、本国へも報告していたという)。 |
| こうした性格を表すように、豪放な言動、野卑たジョーク、演出を考え抜いた訓令、将校への厳しい言動などは一部の兵士へのウケは良かったが、大多数の兵士にとってはシチリア戦で見られるような、自己の名声のために無理な作戦を行い、兵の命など考えない指揮に不満は極限まで高まっていた。 |
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1938年
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大佐に昇進した頃にはもはや米国の参戦が待て... |
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1942年
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パットンは少将として、アメリカ第1機甲軍団... |
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