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プロフィール
- ジョージ・マロリーとは
- 生い立ち
- ケンブリッジ入学
- 結婚
- 第一次遠征隊(1921年)
- 第二次遠征隊(1922年)
- 第三次遠征隊(1924年)
- 75年の後
- 遺体からわかること
- 酸素補給の問題
- セカンドステップの問題
- 「登頂」とはなにか
ジョージ・ハーバート・リー・マロリー(GeorgeHerbertLeighMallory、1886年6月18日-1924年6月8日?)はイギリスの登山家。1920年代にイギリスが国威発揚をかけた三度のエベレスト遠征隊に参加。1924年6月の第三次遠征において、 マロリーはパートナーの アンドリュー・アーヴィンと共に頂上を目指したが、北東稜の上部、頂上付近で行方不明となった。 マロリーの最期は死後75年にわたって謎につつまれていたが、1999年5月1日に国際探索隊によって遺体が発見された。 マロリーが世界初の登頂を果たしたか否かは未だに論議を呼んでいる。
生い立ち
| ジョージ・マロリーは、チェシャーのモバリ(Mobberley)で牧師ハーバート・リー・マロリー(HerbertLeighMallory、1856年~1943年)の第二子として生まれた。 |
| ジョージは四人兄弟で、姉と妹、弟がいた。 |
| 1896年、ウェスト・キルビー(WestKirby)の寄宿学校からドーバー海峡沿岸のイーストボーン(Eastbourne)にある寄宿学校グレンゴース(Glengorse)に転校した。 |
| 13歳のとき、ウィンチェスター・カレッジの数学奨学生に選ばれた。 |
| ここでマロリーは師であるロバート・ロック・グラハム・アーヴィング(RobertLockGrahamIrving)の影響で登山をはじめることになる。 |
| 1904年、アーヴィング率いるパーティーにマロリーは学友と共に加わり、アルプスのモン・ヴェラン(MontVelan)の山頂を目指したが、登頂寸前にマロリーが高山病にかかって断念した。 |
| クレア・エンゲルによれば「アーヴィングが17歳のジョージ・マロリーを山にいざなった。 |
| マロリーたちは簡単な山から難しい山までさまざまな山に挑んだ。 |
| 彼らが初めて挑んだモン・ヴェランでは学生たちが高山病にかかったために登頂できなかったが、さまざまな登山の経験を通して学生たちは優秀なクライマーに育っていった」ClaireEngel,''MountaineeringintheAlps'',London:GeorgeAllenandUnwin,1971,p.185という。 |
ケンブリッジ入学
| 1905年10月、マロリーは史学を学ぶべくケンブリッジ大学のモードリン・カレッジに入り、そこでジェームズ・ストレイチー(JamesStrachey)、リットン・ストレイチー(LyttonStrachey)、ジョン・メイナード・ケインズ(JohnMaynardKeynes)、ダンカン・グラント(DuncanGrant)らのいわゆるブルームズベリー・グループ(BloomsburyGroup)と親交を深める。 |
| マロリーはケンブリッジ在学中にボート漕手として知られたが、八人乗りボートのオックスフォードとの対抗戦には出場していない。 |
| 学位取得後もマロリーは一年間ケンブリッジに残り、小論『伝記作家ボズウェル(BoswelltheBiographer)』を執筆した。 |
| その後、しばらくフランスに滞在したが、同地でサイモン・バッシー(SimonBussy)がマロリーの肖像画を描いた。 |
| この絵はロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリー(NationalPortraitGallery)におさめられている。 |
| 教師を志してイギリスに戻ったマロリーは1910年にサリー州(Surrey)ゴダルミング(Godalming)にあるチャーターハウス校で教鞭を執った。 |
| このときの生徒の中に、後に詩人になるロバート・グレーブス(RobertGraves)がおり、1918年のグレーブスの結婚式ではマロリーが付添い人をつとめている。 |
| この間に登山の腕も磨き、1911年にはモンブランに挑み、モン・モディ(MontMaudit)の前壁を征服している。 |
| 1913年までにマロリーはイギリスの湖水地方(EnglishLakeDistrict)にあるピラー・ロック(PillarRock)の登頂に成功した。 |
| このときマロリーが登ったコースは現在「マロリー・ルート」と呼ばれ、登山難易度は5a(アメリカ式では5.9)と評価されており、イギリスの山ではもっとも難しいコースのひとつである。 |
結婚
| チャーターハウス校在任中、マロリーはゴダルミングに住むルース・ターナーという女性と出会い、1914年に結婚した。 |
| 二人の間には長女クレア(1915年生まれ)、次女ベリッジ(1917年生まれ)、長男ジョン(1920年生まれ)の三人が生まれた。 |
| 第一次世界大戦の勃発にともない、1915年12月マロリーは王立砲兵連隊(RoyalGarrisonArtillery)に入隊し、ソンムの戦いに従軍した。 |
| 戦争が終わると、マロリーはチャーターハウス校に戻ったが、1921年にエベレスト遠征隊に参加するため、学校を離れた。 |
| 離職後、マロリーは著述と講義によって生計をたてようと考えたが、あまりうまくいかなかった。 |
| 結局、1923年ケンブリッジ大学の校外公開講座局(ExtramuralStudiesDepartment)に職を得た。 |
第一次遠征隊(1921年)
| 1852年、インド測量局によって「P-15」と呼ばれていた山が世界最高峰であることが明らかになると、測量局は前長官ジョージ・エベレスト(GeorgeEverest)にちなんで同山を「エベレスト山」と名づけた。 |
| 1893年に、東アジアで軍人として活躍したフランシス・ヤングハズバンド(FrancisYounghusband)とグルカ連隊の勇将チャールズ・グランヴィル・ブルース准将(CharlesGranvilleBruce)がエベレスト登頂について話し合ったのが最初であるといわれる。 |
| 1907年には英国山岳会(RoyalAlpineClub)の創立五十周年記念行事としてエベレスト遠征隊の派遣が提案された。 |
| この時代、北極点到達(1909年)および南極点制覇(1911年)の競争で敗れていたイギリスは帝国の栄誉を「第三の極地」エベレストの征服にかけようとしていた。 |
| 第一次大戦の勃発によって計画は先送りになるが、戦争の終結とともに英国山岳会と王立地理学協会がエベレスト委員会(MountEverestCommittee)を組織し、ヤングハズバンドが委員長となって、ここにエベレスト遠征が具体化し始めた。 |
| 1921年、マロリーはエベレスト委員会によって組織された第一次エベレスト遠征隊に招聘された。 |
| 隊長にはグルカ連隊で長年勤務し、地理に明るく、地元民の信頼も厚いチャールズ・グランヴィル・ブルース准将がふさわしいと思われたが、軍務のため断念し代わってチャールズ・ハワード=ベリ(CharlesHoward-Bury)中佐が選ばれた。 |
| 隊員としてカシミール地方に詳しく高度と人体の影響に関しての専門家であったアレキサンダー・ミッチェル・ケラス博士、ハロルド・レイバーン、そして気鋭の若手としてマロリーとジョージ・イングル・フィンチ(GeorgeIngleFinch)が選ばれた。 |
| フィンチは後に健康状態を理由に降板し、代わりにマロリーのウィンチェスター校以来の友人で領事だったガイ・ブロック(GuyBullock)が選ばれた。 |
| この第一次遠征隊の目的はあくまで本格的な登頂のための準備偵察であったため、一行はエベレストのノース・コル(NorthCol、チャン・ラとも呼ばれる、標高7020m)にいたるルートを確認し、初めてエベレスト周辺の詳細な地図を作成した。 |
| 遠征隊にはイギリス山岳会の主要なメンバーやインド測量局から派遣された測量官が参加していたが、高山病の影響によって登山は思うように進まなかった。 |
| また、6月5日にケラス博士を失うという悲劇にも見舞われた。 |
| マロリーはガイ・ブロック、インド測量局のE.O.ホイーラー(E.O.Wheeler)らとともにシェルパの力を借りてエベレスト周辺の調査を行った。 |
| ノース・コル経由の北壁ルートが登頂に最適であることが判明したのはこのときであった。 |
| 一行は6月25日にロンブク氷河(RongbukGlacier)にキャンプを設けて、登頂ルートの選定にあたった。 |
| このパーティーはおそらくローツェ(Lhotse)のふもとからウェスタン・クウム(WesternCwm)を眺め、ロンブク氷河から北壁へのルートを見出した最初の西洋人だったと考えられる。 |
| 山を南側にまわった一行は、東ロンブク氷河のルートを見出した、これは今でもチベット側から登頂するほとんどすべての登山者に利用されている最速ルートである。 |
| マロリーはついにノース・コルの鞍部へあがることに成功したことが、これによってマロリーはエベレストの山そのものに足を踏み入れた最初の人間になっただけでなく、難関セカンドステップを越えて北東稜から山頂に至るコースを見出すことになる。 |
| 9月25日、全員がカールタの基地に戻り、第一遠征は終了した。 |
第二次遠征隊(1922年)
| 1922年、第二次遠征隊の一員としてマロリーは再びヒマラヤに戻ってきた。 |
| 第二次遠征隊では実際に山を歩けるメンバーが少なかった第一次遠征隊の反省から人選が進められた。 |
| 隊長にはかねてより宿願であったチャールズ・グランヴィル・ブルース准将がつき、エドワード・リーズル・ストラット(EdwardLisleStrutt)大佐を副隊長に迎え、前回参加できなかったジョージ・フィンチ、ハワード・サマヴィル(HowardSomervell)博士やエドワード・ノートン(EdwardNorton)、地理に詳しい医師のトム・ロングスタッフ(TomGeorgeLongstaff)、同じく医師のアーサー・ウェイクフィールド(ArthurWakefield)博士、ブルース准将の甥でやはりグルカ連隊所属のジェフリー・ブルース(GeoffreyBruce)大尉と同僚のジョン・モリス(JohnMorris)大尉、さらに前回のメンバーであるヘンリー・モーズヘッド(HenryT.Morshead)、遠征隊の模様を映写機で撮影することになるジョン・ノエル(JohnBaptistLuciusNoel)大尉らが選ばれた。 |
| 第二次遠征隊は三度の頂上アタックを行った。 |
| 7620mの地点に設けられた第五キャンプから第一次アタックチームを率いたマロリーは、酸素ボンベなどは信頼性が低いと考えてこれを用いず、サマヴィルやノートンらと無酸素で北東稜の稜線に達した。 |
| 薄い空気に苦しみながら、一同は8225mという当時の人類の最高到達高度の記録を打ちたてたが、天候が変化し、時間が遅くなっていたため、それ以上の登攀ができなかった。 |
| 次にジョージ・フィンチとウェイクフィールド、ジェフリー・ブルースからなる第二次アタックチームは酸素ボンベをかついで5月27日に8321mの高さまで驚異的なスピードで到達することに成功した。 |
| ブルースの持っていた酸素器具の不調で第二次チームが戻ってくると、マロリーはフィンチ、サマヴィルと第三次アタックチームを編成して山頂を目指そうとした。 |
| しかし、マロリーらがシェルパとともにノース・コル目指して斜面を歩いているとき、雪崩が発生して七名のシェルパが命を落としたため、計画は破棄され、一行はベースキャンプに戻った。 |
| マロリーは帰国後、第二次遠征隊で犠牲者が出たことを批判されることになるが、山頂まであと一息という思いは他の隊員と変わらなかった。 |
第三次遠征隊(1924年)
| 1923年、アメリカ合衆国での講演活動を行ったマロリーは1924年の第三次遠征隊にも参加を要請された。 |
| 1922年同様隊長はブルース将軍がつとめ、副隊長にはノートン大佐がえらばれた。 |
| 58歳のブルース将軍にとって年齢的にこの山行が最後のチャンスだろうと思われていた。 |
| 隊員として経験者のジェフリー・ブルース、ハワード・サマヴィルが選ばれ、さらにベントリー・ビーサム(BentleyBeetham)、E・シェビア(E.O.Shebbeare)地質学者でもあったノエル・オデール(NoelOdel)、マロリーと最期を共にしたアンドリュー・アーヴィン(AndrewIrvine)らが選ばれた。 |
| 一行は2月28日にリヴァプールを出航、3月にダージリンへ到着し、3月の終わりにダージリンから陸路エベレストを目指したが、道中でマラリアのためブルース将軍が離脱、ノートンが隊長になった。 |
| 4月28日、遠征隊はロンブクに到着してベースキャンプを設営し、そこから順にキャンプをあげていった。 |
| 彼らは7000m付近に第四キャンプを設けて頂上アタックの拠点とし、そこから頂上までの間に二つのキャンプを設けることにした。 |
| マロリーはジェフリー・ブルースおよびノートン、サマヴィルらと山頂を目指したが失敗し、6月6日,22歳の若いアンドリュー・アーヴィン一人を連れて第四キャンプを出発、再びノース・コル経由で山頂を目指した。 |
| 今回のマロリーは1922年のフィンチ隊の健闘を見て酸素器具に対する認識を改めて、自らも積極的に使うことにしていた。 |
| ノエル・オデールは二人をサポートすべく単身第五キャンプ(7710m)にあがり、6月8日の朝8時すぎに第六キャンプ(8230m)を目指して登り始めた。 |
| その途中(高度8077m付近)でオデールはふと顔をあげ、雲がはれ上がって頂上が青い空の中に現れるのを見た、そこで目にしたものを彼は生涯忘れることがなかった。 |
| 私が初めてエベレストで化石を見つけて大喜びしていたまさにその瞬間、空が突然晴れ上がり、エベレストの山頂が姿を現した。 |
| 私は山壁にひとつの小さな点を見出した。 |
| それは大きな岩塊の下、雪の上に浮き出た小さな点だった。 |
| やがて雪上にもうひとつの小さな点が現れ、最初の点に追いつこうと動いていた。 |
| 第一の点が岩の上にとりつくと第二の点も続いた。 |
| オデールの証言以外にこれを証明するものはないが、彼らがセカンドステップにたどりついたのかどうかわからないし、(ファーストステップ周辺には空の酸素ボンベや1933年に見つかったアーヴィンのアイス・アックスがあった)逆に言えばたどりつかなかったという証拠もない。 |
| しばらくして戻ってくる二人が吹雪でキャンプを見つけられないといけないと考えたオデールはテントを出て口笛をふいたりヨーデルを歌ったりしていたが、人の気配はなかった。 |
| 下山する二人のための用意を終えたオデールは四時半に第六キャンプを後にした。 |
| 下りながらオデールはたびたび山頂方向を眺めたが、下山する二人の姿はついに見ることができなかった。 |
| 第四キャンプまで下りて一泊したあくる日の6月9日、オデールは再び第五キャンプから第六キャンプへ向かったが、人が入った形跡はなかった。 |
| 10月17日に行われたマロリーとアーヴィンの追悼式は国葬のような規模でセント・ポール大聖堂において行われ、列席者の中には時の首相ラムゼイ・マクドナルドや国王ジョージ5世はじめロイヤル・ファミリーの姿もあった。 |
75年の後
| 二人の失踪後、いくつかの遠征隊が遺体を捜し、それによって彼らが山頂にたどりついたのかどうかの決め手を得ようとした。 |
| イギリスも1933年から1939年にかけてさらに四度の遠征隊を派遣しているが、1933年の第四次遠征隊は高度8460m地点でアーヴィンのものと思われるアイス・アックスを発見している。 |
| 第二次世界大戦後、多くの国々がエベレスト初登頂の名誉をかけて争ったが、1953年5月29日、イギリス隊のメンバーでニュージーランド出身のエドモンド・ヒラリーがシェルパのテンジン・ノルゲイと共に初登頂を果たし、マロリー以来の悲願が達成された。 |
| 1979年、日本偵察隊メンバーだった長谷川良典が協力していた中国人クライマーの王洪宝(WangHung-bao)から1975年に高度8100m付近でイギリス人の遺体を見たという証言を得た。 |
| 1999年に入ってBBCとアメリカのテレビ局WGBH製作のドキュメンタリーシリーズ「NOVA」が共同で企画したマロリー捜索隊が組織され、エリック・サイモンスン(EricSimonson)をリーダーに、山岳史家でマロリーに詳しいヨッヘン・ヘムレブ(JochenHemmleb)らをメンバーに加えてエベレストに向かった。 |
| 一行の一人コンラッド・アンカー(ConradAnker)は5月1日に頂上付近の北壁でうつぶせになった古い遺体を発見。 |
| ヘムレブは遺品にコダックのカメラ(VestPocketModelB)があればマロリーが登頂したか否かという歴史的疑問が解かれると考えたが、なぜかコダックはみつからなかった。 |
遺体からわかること
| マロリーの娘クレア・ミリカンによれば、彼は頂上に記念として置いてくるため妻の写真を持っていったというが、遺体からはメモだけで写真が発見されなかった。 |
| 遺体が寒冷な気候下で驚くほど良く保存されていたことを考えれば、写真がポケットの中で風化・消滅したとは考えにくいので、この事実はマロリー登頂の消極的な証左とはいえないだろうか。 |
| マロリーの最後のアタックに先立って隊員のノートンが雪に目をやられて苦しんでいたのを見て、マロリーは日中常にサングラスをかけるようにしていた。 |
酸素補給の問題
| 現代の登山家で無酸素登頂に成功しているものもいるが、彼らは十分にトレーニングを積み、酸素をしっかりと吸い込んで最新の超軽量防寒着を着込んだ上、訓練されたシェルパの助けによって登頂している。 |
セカンドステップの問題
| ラインホルト・メスナーに代表される現代の登山家たちの多くはセカンドステップの困難さを理由にマロリーらの登頂を否定する。 |
| スペインのオスカル・カディアフ(OscarCadiach)は1985年に素手でセカンドステップ登攀に成功しているが、彼の見積もりではセカンドステップの難易度は(マロリーの技術なら登れる)5.7から5.8であった。 |
| オーストリア人テオ・フリッシュ(TheoFritsche)は2001年にマロリー同様の条件でモンスーン到来前の状態でロープなしでの登攀に挑み、5.7~5.8という難易度であると評価している。 |
| 2007年6月、コンラッド・アンカーとレオ・フールディング(LeoHoulding)が中国隊のアルミはしごを取り外した状態でのセカンドステップ超えに挑み、成功した。 |
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