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プロフィール
- ジーコとは
- 学歴
- プレースタイル
- 愛称
- 家族
- 日本国外での評価
- アーサー王
- ジーコレーベルとサンバ
- 退場処分
- 幼少期
- フラメンゴ
- ウディネーゼ
- ブラジル代表
- 短い引退
- 鹿島アントラーズ
- ジーコジャパン
- 2006年以降
- 監督として
ジーコ(Zico、本名:アルトゥール・アントゥネス・コインブラ、ArthurAntunesCoimbra、1953年3月3日-)は、ブラジル出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。愛称である「Zico」は「やせっぽち」の意味で、より原音に近い表記をすればズィッコとなる。
プレースタイル
| ブラジルスタイルの抜群のテクニックを持ち、ドリブル、パス、シュートの三拍子を持ち合わせた1980年代の代表的な10番。 |
| 右足から繰り出される長短のパスの正確さは世界最高峰で、前線に張る選手、背後から飛び出す選手を問わず、絶妙のタイミングで正確無比なパスを飛ばす。 |
| むろんプレースキックも大きな武器だった。 |
| 得点能力という点ではFWを凌駕するほどで、FWの後ろから飛び込むダイレクトプレーを始め、常に得点を狙う攻撃的MF。 |
| また計画的なフィジカル強化によって、強靭な肉体も併せ持っていた。 |
| ジェフ市原(現、ジェフ千葉)のDFとして対戦経験もある宮澤ミシェル曰く「ボールの捨て方もうまかった選手」。 |
| エースであるジーコには相手選手の何人もの激しいプレッシングが襲いかかり、結果ボールを回さざるを得なくなること(これを「捨てる」と表現)も多々あったのだが、ジーコはボールをそのまま下げるよりむしろ無理な体勢からでも相手バックラインの隙間を狙ったスルーパスを狙い、結果走り込んだFWやサイドMFへのアシストにつながることが多かったという。 |
| 上のように、サッカー史でも最高レベルのテクニックを持っているものの「テクニックはロナウジーニョのほうが上だ。 |
| しかし勝利に結びつくプレーは自分の方が上だ」と自己評価するように、ロナウドやマラドーナのような個人技が主の選手ではなく、味方を活かすプレー選択の確かさと敵の弱点を瞬時に見抜く卓越した戦術眼や、得点に結びつく動きの質の高さに最大の特徴がある。 |
愛称
| ブラジルサッカー界の英雄であるペレになぞらえ「白いペレ」とも呼ばれていた。 |
| また、長く選手として在籍したフラメンゴのホームスタジアムエスタジオ・ド・マラカナンの名称から「マラカナンの英雄」とも謳われた。 |
| 幼少時代に兄が所属するチームが得点する度に雄鶏(galoガーロ)の掛け声(cocorecoo!)をしていた事から愛称は「ガリーニョ・デ・キンチーノ」(キンチーノ地区の雄鶏小僧)''〜ニョ''は''小さい''、''可愛らしい''の意、日本語の「〜ちゃん」に相当。 |
| と呼ばれた。 |
| サッカーを目指した華奢で小柄なアルトゥール少年は周囲から「アルトゥルジーニョ」と呼ばれ、アルトゥールズィッコ(Arturzico)となり、最後は語尾の「ZICO」だけとなり以後定着している。 |
| フラメンゴ時代やブラジル代表時代、また鹿島アントラーズ時代の選手、親しい関係者間では「ガーロ」の愛称で呼ばれている。 |
| 飛躍的に向上した日本サッカー文化への貢献とネームバリューから、日本では「サッカーの神様」と呼称される事も多い。 |
| 要出典ただしジーコ自身はカトリック信徒であるため、日本の宗教観念を理解してはいるものの、この呼称を好ましくは思っていない(キリスト教圏で、「○○の神様」に該当する表現は「○○の守護聖人(PatronSaint)」)。 |
| フェネルバフチェSK監督時代にはファンから本名のアルトゥールと同じ綴りであるアーサー王伝説から「アーサー王(KingArtur)」と呼ばれている。 |
家族
| 1975年にサンドラ夫人と結婚。 |
| 3人の息子をもうける。 |
| 長男のジュニオールは元サッカー選手、サガン鳥栖でプレイしていた時にはジーコも鳥栖まで訪れた。 |
| なお、長男の妻は日系人である朝日新聞 2011年6月3日。 |
| 次男はブラジルで有名な歌手ブルーノ・コインブラ。 |
| 実兄はエドゥ(元鹿島アントラーズ監督、元日本代表テクニカルディレクター)。 |
日本国外での評価
| 2003年には母国ブラジルで過去30年で最も輝いた選手としてジーコが1位に選ばれた。 |
| ブラジル国民の大半がインターネットなどで投票し、2位のロナウドとはダブルスコアの大差であった。 |
| また、主に攻撃的MFとしてプレーしながらロマーリオに次ぐブラジル歴代代表4位の66得点(88試合)の記録を持つ。 |
| また、サッカー日本代表の親善試合でイギリス遠征中、ジーコやスタッフの待機する控え室にベッカムが「少年時代のヒーローだった」と正装姿で訪問したり、ブラジル代表のアドリアーノがパルマFCでのチームメイトだった中田英寿に「ジーコのサインが欲しい」と交渉したりと、現代のスーパープレイヤー達も崇拝する名実共にサッカー界の英雄であり、その知名度ゆえ各国のメディアに対する発言力も大きい。 |
アーサー王
| フェネルバフチェの監督として、就任1年目にしてトルコリーグを制覇し、また翌年には同クラブ史上初めてUEFAチャンピオンズリーグの決勝トーナメント進出、ベスト8まで進むなど、選手としてだけでなく指導者としても大きな成功を収めた。 |
| そのためフェネルバフチェのサポーターからは、本名のアルトゥールとつづりの同じ伝説の王にちなんで「アーサー王」(KingArthur)の愛称でも呼ばれている。 |
ジーコレーベルとサンバ
| ブラジルは、サンバやボサノヴァ、またブラジル音楽などで知られる音楽大国であるが、彼もまたブラジル音楽を好むことで知られる。 |
| 1994年には友人であるファギネルが来日した際のアルバムにコーラスで参加。 |
| ポニーキャニオンでは、ホベルト・メネスカルと組んでジーコレーベルと称して、何組かのアーチストのアルバムを発売、また息子であるブルーノもパゴージ(サンバの一形態)でCDデビューを果たした。 |
| エスコーラ・ジ・サンバ・ベイジャ・フロールの大ファンとして知られ、その一員としてパレード会場を行進する姿が日本のメディアでも紹介されている。 |
退場処分
| フェアプレーが身上であるが、1994年1月に国立霞ヶ丘競技場で行われたJリーグチャンピオンシップ第2戦では三浦知良のPKの際にボールへつばを吐く非紳士的行為で退場(この日2枚目の警告)となり、物議を醸した。 |
幼少期
| ポルトガルからの移民でパン職人(後に洋服仕立て屋)で生計を立てていた父、ジョゼ・アントゥネス・コインブラとイタリア系の母マチウデの第6子として出生。 |
| 母親の意向で息子アルトゥールをミュージシャンにさせるべく幼少時からピアノを習わせるものの彼の兄弟アンツネスとエドゥアルト(エドゥ)の影響もあり多くのブラジル人と同様に、サッカー選手を目指す様になる。 |
| 幼少期はナショナルキッドを見ていたと言う。 |
| 家業の仕立屋も多忙で父ジョゼの遅い息子だった事もあり実兄のゼッカとエドゥが両親の代わりにアルトゥルの面倒を見る。 |
| あまり手のかからない子で上の兄らは父親に叱られてよく殴られていたがアルトゥールは学業も習い事もそつ無くこなし、家庭内でも整理整頓、小遣いも管理するという几帳面な子供だった。 |
| 母からはフチボーを固く禁じられていたが「勉強も手を抜かない」とお願いして了解を取り付け兄らとフチボー三昧の日を送る内にエドゥがプロサッカー選手として成功。 |
| アルトゥール13歳時には既に後のプレースタイルが確立していたとエドゥが回想しており、14歳時にはゼッカもエドゥも目を見張る程のセンスを持った少年へと成長した。 |
フラメンゴ
| 1967年、14歳の時にブラジル・リオデジャネイロの名門フラメンゴのユースチームのテストに合格し入団。 |
| 入団当初はテクニックは通用するが身長1m50cm、体重30kgの「やせっぽち」な体躯であることが致命的になり、思春期が終わり骨の成長が遅くなるのを待ってジーコの肉体改造計画がチームスタッフにより立てられた。 |
| その計画により筋トレとホルモン注射などを効率よく行なった結果、計画は成功。 |
| 元々の兄二人直伝の教えもありトレーニングメニューを次々と消化、競り合いに負けない強靱な体を手に入れた(サイボーグと比喩されたことも)その後、ユースチームで116試合81得点の驚異的な記録を残すと1971年にジーコはフラメンゴのトップチームに昇格した。 |
| 前年、現夫人となるサンドラ(エドゥの妻の妹)と出会い交際開始。 |
| 4年後の1975年、結婚の条件だったアパートを購入しサンドラと結婚。 |
| フラメンゴには10年以上に渡って在籍し中心選手として君臨。 |
| 1981年のコパ・リベルタドーレス、トヨタカップと4度のブラジル全国選手権(1980年、1982年、1983年、1987年)で勝利に導く。 |
| ピッチではジュニオールやヌネスらのサポートもあり、アジーリオ、アンドラージ、モーゼル、レアンドロらを率いて考えられるあらゆる方法で得点を生み出し、正確なパスでフィールド全体を統率、フラメンゴ黄金期を築き上げる。 |
ウディネーゼ
| 1983年にイタリアのウディネーゼへ移籍すると、ジーコ個人は1983-84シーズンに19得点をあげ得点ランキングの2位となった(20得点で得点王となったミシェル・プラティニより試合出場が4試合少ない)。 |
| これらの活躍によってサポーターの人気を集めたが、クラブとの間で契約問題で揉め、1984-85シーズンを最後にイタリアを去る事となった。 |
| また、インテルへの移籍話もあったが上手く交渉がまとまらず実現しなかった。 |
| ジーコ自身インテルへの移籍に非常に乗り気だったので残念だったと語っている。 |
ブラジル代表
| 1976年にブラジル代表に初選出され、FIFAワールドカップへは1978年、1982年、1986年の3大会に出場している。 |
| 兄エドゥのプレーが評価されるに従い、正体不明の者らがエドゥを取り巻き群がるようになる。 |
| 当時のブラジルは軍事政権下であったためにマスとフチボーは直接結びついており、時には政争の具へと利用される事があった。 |
| エドゥはセレソン入りも噂されたが所属チームがネックとなって選出は叶わなかったとされる。 |
| エドゥの不遇と不運を直接見てきたジーコは「僕には(フチボーを取り巻く状況を把握する)予行演習になった」と述べている。 |
| 初のワールドカップ出場となった1978年のワールドカップ・アルゼンチン大会では、初戦のスウェーデン戦で先発出場。 |
| 終了間際のコーナーキックからの得点が取り消される不運(ウェールズ人主審のクライブ・トーマスはジーコがシュート体勢に入る直前、ボールが空中にある状態で試合終了の笛を吹いたと主張)や監督との確執もあって不本意な大会となった。 |
| 1982年のワールドカップ・スペイン大会では名将テレ・サンターナ監督の下でソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾと共に「黄金のカルテット」(クワトロ・オーメンジ・オロ)を形成。 |
| 技巧的なパスワークと攻撃力で優勝候補の大本命と目されたが、2次リーグ最終戦でのイタリア戦では、クラウディオ・ジェンティーレの執拗なマンマークにあい決定的な仕事が出来ず、2次リーグ敗退(現在の規定でベスト8相当)。 |
| しかし、この時に披露したサッカーは「ブラジルサッカー史上最も魅了したチーム」と称えられている。 |
| 2002年以降自身が監督に就任した日本代表の中盤を称した「黄金のカルテット」はこのチームが語源である。 |
| 1986年のワールドカップ・メキシコ大会では膝の負傷(国内リーグ戦の、対バングーAC戦で相手DFの悪質なタックルを受けた)によって数ヶ月間プレーを中断していた事もあって控えに回った。 |
| 最後のワールドカップは準々決勝のフランス戦で交代出場直後にみせたスルーパスとそれによって獲得したPK失敗が最後の見せ場となり、現役を通じてワールドカップ制覇を成し遂げる事は出来なかった。 |
短い引退
| 1989年3月27日にイタリアのウーディネでブラジル代表引退試合(対世界選抜)が行われ、同年12月のブラジル全国選手権、フルミネンセ戦がブラジル国内の公式戦最後の試合となった。 |
| フラメンゴ在籍中に731試合に出場し508得点の記録を残したが、得点はクラブ史上最多記録である。 |
| 翌1990年のブラジル初の大統領選挙によって誕生したフェルナンド・コロール・デ・メロ大統領は、ジーコをスポーツ担当大臣に任命した。 |
| ジーコはおよそ1年間この政治的な任務を務めたが、1991年に将来のプロリーグ参加を表明していた日本サッカーリーグ2部の住友金属工業蹴球団(現、鹿島アントラーズ)のオファーを受けると大臣を辞任し、再び現役選手としてピッチに立つ事になった。 |
| 1991年、「ジーコを指導者として使うチームを紹介してくれ」と知り合いの代理人から打診を受けたテレビプロデューサーが木之本興三JSL事務局長を訪れ、この話を最初、古河電工へ持ちかけるも返事は「NO」。 |
| 川淵三郎が「住金にジーコを選手として雇えないならプロチームにさせないと言え」と命じ、住金もこの話に乗り気でジーコとの契約に乗り出す。 |
| ジーコの入団について当時Jリーグ理事長だった川淵三郎は、「当初、紹介した古河電気工業サッカー部(現、ジェフユナイテッド市原・千葉)にそのまま加入してもらおうと思っていたが、当の古河電工はジーコ入団に難色を示し、その後断りをいれた。 |
鹿島アントラーズ
| 結果、旧2部リーグの弱小チームを名実ともに日本を代表するサッカークラブに成長させることになるが、来日早々は有名ゲスト扱いで毎夜何らかの会合に呼ばれてはスター選手として持て成され、練習場へは電車通勤、ロッカールームには所属選手らの汚れたシューズが散らかり「こんな汚い所では寛げないよ、次もこんな状態だったら僕が全部捨てるよ」と、おもむろに自分のシューズの手入れを始めたジーコに周囲は唖然とする。 |
| 1993年にJリーグが開幕した当初、この小さな町のクラブは横浜マリノスやヴェルディ川崎といった大都市の名門クラブに対し圧倒的な不利が予想されていた。 |
| しかし自分のプレーが活きて、且つ合致するアルシンドを日本に呼び寄せて開幕戦の名古屋グランパス戦でJリーグ初のハットトリックを決め5-0で圧勝すると勢いに乗り、大方の予想を覆し1stステージ制覇。 |
| 1998年に鹿島のテクニカル・アドバイザー在任中に、ブラジルサッカー連盟の要請を受けブラジル代表のテクニカル・ディレクターに就任し、ワールドカップ・フランス大会にスタッフとして参加した。 |
ジーコジャパン
| 2002FIFAワールドカップ終了後、フィリップ・トルシエの後任として2002年7月22日にサッカー日本代表監督に就任。 |
| それまで監督経験は無かったものの、ブラジル代表のスタッフを務めた経験や、鹿島の選手やテクニカルディレクターとして同クラブの躍進に尽力した経験からの抜擢であり、日本サッカー協会会長の川淵三郎の強い意向でもあった。 |
| FIFAコンフェデレーションズカップ2005では初戦のメキシコには敗れたもののギリシャに勝利し、ブラジルとは2-2で引き分けた。 |
| 中田英寿、中村俊輔、小野伸二、稲本潤一の4人を初めて同時に起用し(黄金のカルテット)話題を呼んだが、結果は1-1の引き分け。 |
| 4月16日、ソウルワールドカップ競技場での韓国との日韓戦で試合終了間際FW永井雄一郎のゴールで勝利を挙げる。 |
| 6月8日、キリンカップ2003でのアルゼンチン戦で1-4で完敗。 |
| 2月18日、ドイツW杯アジア1次予選初戦、オマーンと戦い、これを1-0で勝利。 |
| メキシコには1-2で敗れたが、ギリシャに1-0で勝利、ブラジル戦でも2-2の引き分け。 |
| ジーコジャパンにおいて一番多く得点を決め(11得点)、本大会のエースとして期待された久保竜彦と、フランスリーグ・アンでアシストランク3位だった松井大輔をメンバーから外し、ドイツブンデスリーガで1得点の高原、日本Jリーグで1得点の玉田を招集したことに物議をかもした。 |
2006年以降
| その後、2006年7月4日にトルコ・シュペルリガの名門フェネルバフチェの監督に就任。 |
| ブニョドコルとの契約期間は2009年12月までだったが、ロシアプレミアリーグのPFCCSKAモスクワがガザエフ監督の後任としてジーコに興味を示した為に、クラブとの話し合いの末、円満退団した。 |
| UEFAカップ2008-09ではラウンド16でこの大会を制覇したシャフタール・ドネツクに敗れたが、ロシア国内では3月7日のロシア・スーパーカップでFCルビン・カザンを下し優勝。 |
| クラブ側の説明では「成績不振」であったが、シーズンの大部分、ケガによって主力選手の多くが欠けていたにもかかわらず、カップ戦は敗退したものの、リーグ戦では18節を終わって12勝4分2敗で勝ち点40の2位(1位のパナシナイコスは15勝2分1敗勝ち点47、唯一の負けはオリンピアコス戦)、チャンピオンズリーグではベスト16に進出しており、ジーコ自身も自身のオフィシャルサイトにおいて解任についての信じられない思いと、クラブ側の解任手続きの唐突さに対する不満を述べた |
監督として
| オシムやベンゲルを始めとした日本で指導した有識者達の多くから、日本人は実際に起こっている現実から判断をせず、現実と乖離する決まり事に従うという独特の短所があると指摘されており、ジーコはそれが実践的な戦いの大きな妨げになっているとし「自主性」を大きなテーマとしたのである。 |
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1953年
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ジーコ(Zico、本名:アルトゥール・アントゥ... |
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14歳の時にブラジル・リオデジャネイロの名門... |
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