| 1971年初頭に、解散したバンド、コペルニクスのマイケル・シェンカー(g.)とクラウス・マイネ(vo.)を加え、アチィム(b.)と交代したローザー・ハインベルグ(b.)での、6人構成となる第1期スコーピオンズのラインナップで、ドイツのメトロノーム傘下のブレイン・レーベルと契約。 |
| 1972年に、コニー・プランクのプロデュースで、デビュー・アルバム『恐怖の蠍団-''LonesomeCrow''-』を発売。 |
| プログレッシヴ的なサウンドの作品であり、ハード・ロックとは言えない作りは、プロデューサーの志向だと思われる。 |
| 同年ユーライア・ヒープ、ロリー・ギャラガー、UFOなどのサポーティング・アクトとして、西ドイツ国内ツアーを行う。 |
| サーキット中に、UFOのミック・ボルトンが失踪し、急遽代役ギタリストを務めたマイケル(g.)がUFOに移籍。 |
| 1973年6月、ローザー(b.)とウォルフガング(ds.)が脱退。 |
| 一時活動停止を余儀なくされる。 |
| 1974年、オーディションにより、ウルリッヒ・ロート(g.)とフランシス・ブッホルツ(b.)、ヨルゲン・ローゼンタル(ds.)がメンバーに決定。 |
| RCAレコードと新たに契約し、11月に、移籍第1弾となるアルバム『電撃の蠍団-''FlyToTheRainbow''-』を発表。 |
| セルフ・プロデュースの本作は、ウルリッヒのギターをフィーチャーしたハード・ロック色が濃く、以降のサウンドの基礎となる作品となった。 |
| 1年半ぶりのツアーで、夏のドイツ国内をサーキット中に、ヨルゲンが脱退。 |
| ルディ・レナーズ(ds.)を加えて、ベルギーとフランスで国外ツアーを行う。 |
| その後、スウィートのサポーティング・アクトで、北欧をツアー。 |
| この時、後に6人目のメンバーと呼ばれ、長年作品を手掛けることになるプロデューサー、ディーター・ダークスが自らプロデュースを申し出て、新作のレコーディングに着手する。 |
| 1975年、アルバム『復讐の蠍団-''InTrance''-』を発売。 |
| プロモーションの一貫として、ロンドンのマーキー・クラブで、イギリスでのデビュー・コンサートを成功させる。 |
| キッスのサポーティング・アクトとして、西ドイツ国内ツアーを行う。 |
| ドイツの音楽誌での人気投票で、グループ部門3位を獲得。 |
| 1976年11月に、『狂熱の蠍団~ヴァージン・キラー-''VirginKiller''-』を発売。 |
| メロディ・ラインに哀愁を帯び、ハード・ロックの様式美を前面に出した作品で、バンドの代表作となった。 |
| 1977年の全英ツアーは規模を拡大し、ホール・クラスでのバンドに昇格するが、ルディが心臓病を患い脱退。 |
| 後任のハーマン・ラレベルが参加し、5作目のアルバム『暴虐の蠍団-''TakenByForce''-』を発売。 |
| 4月25日の東京から26日の大阪まで、5回の公演は全てソールド・アウトし、日本での人気の高さが証明された。 |
| 中野サンプラザでの2ステージをレコーディング、同年8月に、初のライヴ・アルバム『蠍団爆発-''TokyoTapes''-』として発売される。 |
| この後、ウルリッヒは、バンドがコマーシャルな方向に向かっていることを理由にバンドを脱退。 |
| バンドは、イギリスの音楽誌「メロディ・メイカー」紙に募集告知を掲載し、約140名をオーディションするが、後任は見つからなかった。 |
| 改めてドイツでメンバーを探し、地元のハノーファーで、マティアス・ヤプス(g.)を3代目ギタリストに迎える。 |
| 1978年9月、新ギタリスト披露のため、ドイツで開催の「サマータイム・オープン・エアー・フェスティバル」出演。 |
| ニューアルバムのレコーディング直前、アルコールとドラッグの併用で精神的な支障をきたし、UFOから失踪・脱退していたマイケル・シェンカー(g.)を、ルドルフとクラウスが迎え、レコーディングに参加。 |
| 1979年4月、6人編成で制作されたアルバム『ラヴドライヴ-''Lovedrive''-』を発売。 |
| 同編成で、3月23日のマルセイユからヨーロッパ・ツアーを開始し、マイケルの完全復帰を思わせたが、ケルン公演直前にマイケルが倒れ、バンドから離脱。 |
| 日本で2度目の来日公演が決定していたが、マイケルの登場はなかった。 |
| 6月3日からジャパン・ツアー。 |
| 8月にテッド・ニュージェントのサポーティング・アクトとして初の全米ツアー。 |
| 同8月にイギリスのレディング・フェスティバルにシン・リジィの代替でヘッドライナーとして出演。 |
| 同12月、RCA時代4枚のアルバムの中から11曲をセレクトし、初のベスト・アルバム『蠍団伝説~スコーピオンズ・ベスト-''BESTOFSCORPIONS''-』を発売。 |
| 1980年5月に、『電獣~アニマル・マグネティズム-''AnimalMagnetism''-』を発売。 |
| イギリスでのNWOBHMムーヴメントを契機とした、ヘヴィメタルシーン活性化を受け、レインボーやジューダス・プリーストなどと共に、第1回モンスターズ・オブ・ロックに参加。 |
| 前年の続編となるベスト・アルバム『蠍団帝国~スコーピオンズ・ベストII-''SCORPIONS BEST2''-』を発売。 |
| 1981年、クラウス(vo.)が声帯を痛め、医師に1年間の静養を言い渡された。 |
| バンドは一部録り終えていたレコーディング作業を一時中止し、静養期間とした。 |
| 休止期間には、ハーマン(ds.)がソロ・デビュー・アルバム『奇襲攻撃-''NipInTheBud''-』を製作している。 |
| 1982年3月に、『蠍魔宮~ブラックアウト-''Blackout''-』を発売。 |
| 2年振りのこのアルバムは全英11位、全米10位の売り上げとなり、最強のライヴ・バンドと評されながら、セールスが反映されなかったアメリカ・マーケットで初のビッグ・ヒットを記録。 |
| 4月に、同アルバムのプロモーション・ツアーをイギリスからスタート、アメリカや日本などをサーキットする。 |
| 1983年5月に、アメリカのサン・バーナディーノで開催されたUSフェスティヴァル、同年12月に、ドイツのロック・ポップ・ヘヴィ・メタル・スペシャルに出演。 |
| 同年10月に、イギリスのロンドン・ハマースミスオデオン劇場で行われたM.S.G.のライヴに、ルドルフとクラウスが飛び入り参加し、ファンを沸かせた(このライヴの模様を収めたライヴ・アルバムとライヴ・ビデオが、翌年にM.S.G側から発売されている)。 |
| 1984年3月に、『禁断の刺青-''LoveatFirstSting''-』を発売。 |
| 8月に、日本初のヘヴィ・メタルのビッグ・イベント「スーパー・ロック'84イン・ジャパン」に、ホワイトスネイクやマイケル・シェンカー・グループ、ボン・ジョヴィなどと共に出演。 |
| 1985年1月、初の日本武道館公演を果たし、同年のジャパン・ツアーと6月のイギリスのネブワース公演後、2枚目のライヴ・アルバム『ワールド・ワイド・ライヴ-''WorldWideLive''-』を発売。 |
| 若干の充電期間と発表し、しばらくの間表立った活動を停止する。 |
| 1988年5月に、4年ぶりのアルバム『サヴェイジ・アミューズメント-''SavageAmusement''-』を発売。 |
| ペレストロイカ最中のソビエト・レニングラード(現ロシア連邦・サンクトペテルブルク)でコンサートを行う。 |
| 1989年8月、前年のコンサートが契機となり、歴史的イベントとなった、モスクワ・ミュージック・ピース・フェスティヴァルが開催。 |
| ボン・ジョヴィをメイン・アクトに、スコーピオンズやオジー・オズボーン、モトリー・クルーなどが参加した。 |
| 付随したチャリティー企画で、アンチ・ドラッグ/アルコール・キャンペーンのオムニバス・アルバム『メイク・ア・ディファレンス-''MakeADifference''-』が発売され、スコーピオンズは、ザ・フーのカヴァー「アイ・キャント・エクスプレイン-''ICan'tExplain''-」が収録された。 |
| 1990年「ベルリンの壁崩壊」の年7月に、そのベルリンの壁の前で行なわれた、元ピンク・フロイドのロジャー・ウォーターズ主宰による「ザ・ウォール・ライヴ」に参加。 |
| 演奏は、『ザ・ウォールライヴ・イン・ベルリン-''TheWallLiveInBerlin''-』として発売された。 |
| 11月に、アルバム『クレイジー・ワールド-''CrazyWorld''-』を発売。 |
| このアルバムは、長年のプロデューサーであるディーター・ダークスに代わり、キース・オールセンがプロデュースを務めている。 |
| 「ウィンド・オブ・チェインジ-''WindofChange''-」がシングル・カットされ、全米第4位、全英第2位を記録するビッグ・ヒットとなった。 |
| その後、印税のトラブルから、ベーシストのフランシス・ブッホルツ(b.)が脱退する結果となる。 |
| 1992年の活動は無く、1993年には、ラルフ・リーカーマン(b.)を迎え、9月にアルバム『フェイス・ザ・ヒート-''FacetheHeat''-』を発売。 |
| 1994年1月の来日公演は、M.S.G.に終止符を打ったマイケル・シェンカーがスペシャル・ゲストで参加し、アコースティックで夢の共演を実現させた。 |
| しかし、この時期に70年代からのメンバー、ハーマン・ラレベル(Ds.)が脱退。 |
| ライヴでは、カート・クレスやピティ・ヘチットがドラマーとして参加、ルーク・ヘルゾッグやコーエン・ヴァン・ベイルといったキーボード奏者も参加していた。 |
| 1995年、ライヴ・アルバム『ライヴ・バイツ-''LiveBites''-』を発売。 |
| 1996年、デビュー25年を迎え、イースト・ウエスト・ジャーマニーと契約。 |
| 5月に、レーベル移籍第1弾アルバム『ピュア・インスティンクト~蠍の本能-''PureInstinct''-』を発売し、活動を再開。 |
| 1997年にベスト・アルバム『蠍の刻印~マーキュリー・イヤーズ:ベスト・オブ・スコーピオンズ-''DEADLYSTING:TheMercuryYears''-』を発売。 |
| 1999年4月、3年ぶりのアルバム『アイ・トゥ・アイ-''EyeIIEye''-』発売。 |
| オーストリア人のピーター・ウルフ(ジェファーソン・スターシップやハートのプロデューサーとして知られる)プロデュースで制作されたこのアルバムは、コンピューターを導入し、ハードロックやヘヴィメタルの枠を超越したアプローチを展開。 |
| 2000年ドイツ、ハノーファーで開催されたEXPO2000のテーマ曲を担当し、「モーメント・オブ・グローリー」を発表。 |
| 同年夏に、その曲も含み、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との共演によるアルバム『栄光の蠍団~モーメント・オブ・グローリー~-''MomentofGlory''-』を発売。 |
| 2001年2月9日に、ポルトガル・リスボンでアンプラグド・ライブを行い、7月に『アコースティック・ライヴ-''Acoustica''-』として発売。 |
| 2004年『反撃の蠍団-''Unbreakable''-』を発売。 |
| 2007年『蠍団の警鐘-''HUMANITYHOUR1''-』を発売。 |
| 2010年1月24日に、制作中である次回作アルバム『StingintheTail』がバンドの最後のアルバムになり、アルバムに伴うツアーが最後のツアーになるだろうと公式サイトで発表された。 |