| ハイスクール時代はIQは平均以上だったが、成績は平均以下だった。 |
| 1946年ニューヨーク市立大学シティカレッジに入学するがすぐに中退。 |
| 一時はジャズバンドのドラマーを目指していたが、当時の大統領フランクリン・ルーズベルトの死を報じる一連の写真が写真雑誌『ルック』誌に売れ、見習いカメラマンとして在籍するようになる。 |
| この頃に数多くの映画を観て過ごし、マックス・オフュルス、オーソン・ウェルズ、セルゲイ・ミハイロヴィチ・エイゼンシュテイン、チャールズ・チャップリン等から影響を受ける。 |
| 特に後者二人の影響は大きいが、キューブリック自身は「どちらかを選ばなければならないとしたら、チャップリンだ」とコメントしている。 |
| 写真雑誌『ルック』に載った自身のフォト・ストーリーを元に短編ドキュメンタリー『拳闘試合の日』を製作し、映画の道を歩み始める。 |
| この映画は3900ドルかかったが4000ドルで売れ、この成功をきっかけに『ルック』誌を退社する。 |
| 親類から借金をして初の長編劇映画『恐怖と欲望』を製作するも、この映画は赤字になる。 |
| しかし、映画製作に自信を持ったキューブリックは次回作『非情の罠』を製作する。 |
| ただし、この映画も製作費を回収することは出来なかった。 |
| 映画監督を目指した理由として「今の奴ら(現役の監督たち)よりは上手く撮れる自信があったからだ」と発言している。 |
| 26歳の時、同い年のジェームス・B・ハリスと組み、ハリス=キューブリック・プロダクションズを設立。 |
| SF三部作と呼ばれる『博士の異常な愛情または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』、『2001年宇宙の旅』、『時計じかけのオレンジ』の成功で世界の批評家から映像作家としての才能を認知される(正確に言えば、キューブリックはこの三作を『SF三部作』と呼んでいない上に三部作としての資料なども残っていないため、これは第三者の勝手な呼び方と考えられる)。 |
| よく動くカメラ、大画面で深い奥行きの出る広角レンズの使用、『時計じかけのオレンジ』以降のカラー作品では自然光を利用した、あるいは自然光を模した照明も特徴で、自身並みの映画撮影者より遥かに安定した手持ち撮影が出来た。 |
| 『ロリータ』以降の脚本、編集、選曲のいずれも独特なセンスと切れがあり、自作の公開に関して上映の劇場の地理的状況から上映システムに至るまでコントロールしようと努めている。 |
| 日本での公開では字幕の翻訳も再英訳を校閲する方法で監修した。 |
| また作品中の恐怖演出として陰影を強く演出した上で、上目遣いで画面を睨み付けるという演技を役者に要求する事が多い。 |
| この手法はロジャー・エバートら評論家からは「キューブリックの凝視(Kubrickstare)」と呼ばれ、『時計じかけのオレンジ』『フルメタル・ジャケット』『シャイニング』などで使用されている。 |
| 12年ぶりの監督作品となった『アイズ・ワイド・シャット』の完成後、公開を待たずに心臓発作で死去。 |
| 70歳であった。 |
| キューブリックは「『アイズ・ワイド・シャット』は、クルーズとキッドマンが滅茶苦茶にした完全な駄作だ」と、亡くなる2週間前に友人で俳優のリー・アーメイに電話で語っていたとされるが、一方で「自身の最高傑作である」とも述べている。 |
| この作品のDVD-Videoはキューブリックの意志で、4:3の画面比率で収録されている。 |
| 『アイズ・ワイド・シャット』(原作はシュニッツラーの『夢小説』)と同時期から企画を温めていた『A.I.』は2001年にスティーヴン・スピルバーグがキューブリックの残したトリートメントを基に未完成だった脚本を完成、実現された。 |
| キューブリックが最も拘っていた企画が『ナポレオン』で、『2001年宇宙の旅』の次回作として製作も決定していて、脚本も完成し、撮影を残すのみとなっていた。 |
| ところが先に公開された『ワーテルロー』が興行的に失敗し、『ナポレオン』の出資者が引き揚げたために製作中止に追い込まれた。 |
| 他にホロコーストをテーマにした『アーリアン・ペーパーズ』(原作は『五十年間の嘘』)という企画も、脚本の執筆中にスピルバーグの『シンドラーのリスト』が公開され、キューブリックの前作『フルメタル・ジャケット』が『プラトーン』(『フルメタル』の前に公開)と何かと比較され、大ヒットとオスカー受賞のチャンスを逸した経験から、製作中止を決めた。 |
| 自身は飛行機の免許を持ち操縦経験もあったが、操縦中に事故を起こしかけた経験と、墜落事故に巻き込まれた知人のカメラマンの焼け焦げたカメラを見て以来、ジェット機の旅行を極度に嫌ったため、プロモーションなどでの来日経験はなく、カンヌなどの映画祭に出席したという記録もない。 |
| さらにロケが必要な映画なども、スペインロケの『スパルタカス』やアイルランドロケの『バリー・リンドン』以外はあまり遠くでロケをすることはなく、ベトナム戦争映画『フルメタル・ジャケット』のフエのシーンもロンドン近辺の工場跡を使い、輸入してきたヤシを植えて撮影し、ニューヨークが舞台の『アイズ・ワイド・シャット』もその多くを大規模なスタジオ撮影でこなしている。 |
| 「仕事以外では自宅を一歩も出ない引篭もり人生」というのは多少誇張された表現だが、執筆を依頼した脚本家(殆どは作家を本業にしている)や脚本を読んで欲しい映画会社の重役、デニス・ミューレン、ジェームズ・キャメロンなど視覚効果についてのアドバイスを求めた映画人を、わざわざロンドン郊外の邸宅に招いたのは事実である。 |
| スティーブン・スピルバーグとは特に親交が深く、『A.I.』についての打ち合わせの為にスピルバーグが自家用機で向かい、キューブリック邸のキッチンで話し合った事があり、それ以外は電話かファックスでやり取りをしていた。 |
| その度にスピルバーグが支払った電話代は「記録破り」だったという。 |