| 1915年3月20日、ウクライナのジトームィルでピアニストの両親のもとに生まれた。 |
| 幼い頃に一家はオデッサに移住した。 |
| 父親は同地の音楽学校で教師を務め、息子にも音楽の手ほどきをしたが音楽家にしようという気はなかった。 |
| しかしリヒテルは独学でピアノを始め、1931年に15歳にしてオデッサ歌劇場のコレペティートルに採用された岡俊雄「詩的幻想とピアニズムの調和、不朽のソフィア・ライヴ」、アルバム『ソフィア・リサイタル』(PHILIPSUCCP-9507)ライナーノート。 |
| 1934年、19歳の時にショパンのみのプログラムによる初リサイタルを開き、成功を収めた『ピアノとピアニスト2003』音楽之友社、2003年ISBN978-4276961357。 |
| 1937年、22歳でモスクワ音楽院に入学し、ゲンリフ・ネイガウスに師事した。 |
| 彼はその時点ですでに完成されたピアニストだったといわれ、ネイガウスは「何も教えることはなかった」という言葉を残している。 |
| 同門のエミール・ギレリスは1歳年下だがモスクワ音楽院では2年先輩にあたる。 |
| リヒテルはネイガウスの紹介によりセルゲイ・プロコフィエフと親交を持つようになり、1943年1月18日にはモスクワでプロコフィエフのピアノソナタ第7番を初演し成功を収めた。 |
| 翌1944年にはプロコフィエフの3曲の戦争ソナタによるリサイタルを行った。 |
| 以後ソ連国内で活発な演奏活動を行うようになり、1945年には30歳で全ソビエト音楽コンクールピアノ部門で第1位を受賞した。 |
| 1950年に初めて国外に出て演奏し、それ以後は東ヨーロッパ各国での公演も行うようになった。 |
| しかし冷戦で対立していた西側諸国への演奏旅行はなかなか当局から許可が下りなかった{{#tag:ref|リヒテルは1941年に父親をソ連当局によって銃殺されており |
| このため当局は西側への旅行を認めた場合に彼が亡命することを警戒していたともいわれる。 |
| ソ連の演奏家としては最も早い時期から国際的に活躍していた一人であるギレリスが、演奏後に最大の賛辞を贈ろうとしたユージン・オーマンディを「リヒテルを聴くまで待って下さい」と制したことも、この幻のピアニストへの期待をかき立てたグレゴール・ヴィルメス「力強い詩人」(橋本ゆかり訳)、アルバム『モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番/ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番ほか」(UCCG-3086)ライナーノート。 |
| 1958年にはこの年の2月25日にブルガリアのソフィアで行ったリサイタルの録音が西側でもレコードとして発売された。 |
| ムソルグスキーの展覧会の絵などを含むこの録音は不朽の名演奏と称えられ、リヒテルの当代一のピアニストとしての真価を知らしめた。 |
| 同年に第1回チャイコフスキー国際コンクールが開催され、この大会を制したヴァン・クライバーンが滞在中に聴いたリヒテルの演奏について帰国後に熱っぽく語ったことで、このピアニストの評判はさらに高まることとなったUweKraemer:VITALITÄTUNDPOESIE-DerPianistSvjatoslavRichterアルバム『MOUSSORGSKY・PICTURESATANEXGIBITION』(PHILIPS420774-2)ライナーノート{{#tag:ref|リヒテルはこの第1回チャイコフスキー国際コンクールで審査員を務め、クライバーンに満点の25点をつけ、他の全てのピアニストに0点をつけた |
| 翌1959年にはドイツ・グラモフォンのスタッフがワルシャワに乗り込んで録音が行われ、数枚のレコードが発売された。 |
| その中でも特にスタニスワフ・ヴィスウォツキ指揮のワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団と共演したラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の録音はこの作品の決定的名演と称えられ、その評価は現在に至るまで揺るいでいない『レコード芸術』音楽之友社、2007年5月号。 |
| 1960年5月にようやく西側での演奏を許可され、ヘルシンキでのコンサートに「伴奏者」として派遣された。 |
| 同年中にはアメリカへもツアーしてセンセーショナルな成功を収めた。 |
| この時に録音されたブラームスのピアノ協奏曲第2番やベートーヴェンのピアノソナタ第23番のレコードも評判となり、いよいよ西側でも本格的にその実像を知られるようになった。 |
| その後は名実共に20世紀を代表するヴィルトゥオーソとして世界を舞台に精力的に活動した。 |
| 同時代にアメリカを拠点に活動したウラディミール・ホロヴィッツと並び称されることもあった。 |
| 日本へは飛行機嫌いのためなかなか訪れることがなかったが、1970年の日本万国博覧会の際に初の訪日が実現した。 |
| それ以降は度々来日してリサイタルを開き、日本の音楽ファンにもなじみ深い存在となった。 |
| オレグ・カガンをはじめとする他の演奏家との共演も活発に行い、西側を含む各地で音楽祭を主催した。 |
| 特に1981年から毎年冬にプーシキン美術館で開催した音楽祭「12月の夕べ」は絵画の展示とテーマを共有するユニークなスタイルのものだった。 |
| 晩年に至っても技巧の衰えを豊かなタッチで補いつつ意欲的な活動を続けた。 |
| 1997年8月1日、モスクワで82年の生涯を閉じた。 |