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つながりの強いひと
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ローマ皇帝
紀元前27年に元老院よりアウグストゥス(Augustus)の尊称を授与されたアウグストゥス本人と、この尊称を帯びた彼の後継者をさす。ローマ皇帝というひとつの職... |
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パルティア
カスピ海南東部、イラン高原東北部に興った王国である。ダーハ氏族の支流であるパルニ氏族を中心とした遊牧民の長、アルシャク(古典ギリシア語形:アルサケ... |
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フォロ・ロマーノ
ローマにある古代ローマ時代の遺跡。観光地として有名である。フォロ・ロマーノは、ラテン語の古名フォルム・ロマヌム(ForumRomanum)のイタリア語読みであ... |
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コンモドゥス
第17代ローマ皇帝。ネルウァ=アントニヌス朝としては最後の皇帝である。たびたび改名を重ねたことから全名は一定しないが、公文書などでは「ルキウス・アウ... |
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ユリア・ドムナ
結婚
セウェルス朝の開祖であるセプティミウス・セウェルスの妻。カラカラ、プブリウス・セプティミウス・ゲタの母親でもある。セウェルス死後の皇帝家の陰の実力... |
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ペスケンニウス・ニゲル
ローマ帝国の軍人・政治家で、コンモドゥス殺害後の内戦において頭角を表した人物。「ニゲル」という名はラテン語で「黒」を意味し、敵対者だったクロディウ... |
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ディディウス・ユリアヌス
第19代ローマ皇帝(在位:193年3月28日-193年6月1日)で、五皇帝の年における二番目の帝位請求者。自由民階層の出身であった先帝ペルティナクスと違い高貴な... |
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クロディウス・アルビヌス
ローマ帝国の軍人・政治家であり、内戦時期にブリタンニアとヒスパニアの軍団の支持により皇帝を僭称(インペラトル・カエサル・デキムス・クロディウス・セ... |
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トラヤヌス
マルクス・ウルピウス・ネルウァ・トラヤヌス・アウグストゥス(;53年9月18日-117年8月9日)は第13代ローマ皇帝で、ネルウァ=アントニヌス朝の第2代君主。イタ... |
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ティトゥス
ローマ帝国の皇帝(在位:79年-81年)である。一般的にはティトゥスとして知られる。フラウィウス朝第2代の皇帝である。先帝ウェスパシアヌスの長男、母はフ... |
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アウグストゥス
ローマ帝国の初代皇帝(在位:紀元前27年-紀元14年)。志半ばにして倒れた養父カエサルの後を継いで内乱を勝ち抜き、帝政(元首政)を創始、パクス・ロマーナ... |
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ハドリアヌス
第14代ローマ皇帝(在位:117年-138年)。五賢帝の3人目。帝国各地をあまねく視察して帝国の現状把握に努める一方、トラヤヌス帝による帝国拡大路線を放棄し... |
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サトゥルヌス
サトゥルヌスさんのページ 復刊リクエスト投票 コレが読みたくて買ってました。(苦笑 (2006/10/16) ウラワザえもん 【著者】林・F・正之 名曲揃いのこのゲ... |
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ヘリオガバルス
第23代ローマ皇帝で、セウェルス朝の第3代当主。ヘリオガバルス(Heliogabalus)という渾名で呼ばれる事が多く、これはオリエントにおけるヘーリオス信仰の派... |
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ウェスパシアヌス
ローマ帝国の皇帝。ユリウス・クラウディウス朝断絶後の4皇帝内乱の時代(68年6月-69年12月)に終止符を打ち、自らの血統に基づくフラウィウス朝を創始した。 |
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ティベリウス
ローマ帝国の第2代皇帝(在位:紀元14年-37年)。初代皇帝アウグストゥスの養子。養子となる以前の名前は実父と同じティベリウス・クラウディウス・ネロ。な... |
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エラガバルス
エラガバルスの☆夢 更新はだいぶ気まぐれ。 エラガバルスの☆夢 August 05 [Fri], 2011, 22:00 x3x4480ngのブログです。
プロフィールは こちら
※この記事は... |
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アントニヌス・ピウス
ティトゥス・アウレリウス・フルウィウス・ボイオニウス・アリウス・アントニヌス(;86年9月19日?161年3月7日)は第15代ローマ皇帝で、ネルウァ=アントニヌス... |
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メドゥーサ
ギリシャ神話に登場する怪物。ゴルゴーン三姉妹の一人である。姉に当たる「力」のステンノー、「広い海」のエウリュアレーと共に「女王」メドゥーサと呼ばれ... |
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百済
古代の朝鮮半島南西部にあったツングース系扶余族による国家(346年-660年)。朝鮮史の枠組みでは、半島北部から満州地方にかけての高句麗、半島南東部の新羅... |
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プロフィール
- セプティミウス・セウェルスとは
- 概要
- 生い立ち
- 公職時代
- 結婚と跡継ぎ
- 皇帝即位
- 軍事政策
- 国内統治
- 病没
- 評価
ルキウス・セプティミウス・セウェルス(、146年4月11日-211年2月4日)は、ローマ帝国の皇帝(在位:193年4月9日-211年2月4日)である。セウェルス朝の 創始者であり、アフリカ属州生まれ(属州民ではない)の皇帝となった。
概要
| セウェルスはアウレリウス帝とコンモドゥス帝の親子二代に仕え、ローマの貴族階級における典型的な経歴を歩んだ。 |
| ネルウァ=アントニヌス朝断絶後の騒乱(五皇帝の年)で頭角を現して有力な皇帝候補となり、ペルティナクス帝の死後に実権を掌握した。 |
| 彼は存命中の皇帝であったディディウス・ユリアヌスを失脚させて自らが皇帝に即位した。 |
| 皇帝となった後、クロディウス・アルビヌスとペスケンニウス・ニゲルという二人の僭称帝との戦いが始まると、セウェルスはイッススの戦いでまずペスケンニウスを破りBirley(2000),p113、続いてクロディウスをルグドゥヌムの戦いで打ち破ったBirley(2000),p125。 |
| また合わせてオスロエネ王国に対する外征にも勝利して、ローマ領を東方へ拡大したBirley(2000),p.115。 |
| 体制を固めたセウェルスはより大胆な外征を計画、パルティア戦争で敵国の首都クテシフォンを占領するなど大勝を得て、ティグリス川沿いまで領土を拡張したBirley(2000),p.130。 |
| 同時に属州アラビア・ペトラエアに建設されていた城壁「リーメス・アラビクス」の補強を進め、東方属州の拡大と強化に熱意を注いだBirley(2000),p.137。 |
| 自らの故郷である属州アフリカでも外征を行い、ガラマンテス族を破って「リメス・トリポリタヌス」を南の砂漠地帯にまで広げたBirley(2000),p.153。 |
| 治世後半も戦いに明け暮れる日々を過ごし、北方はブリタンニアでピクト族との戦争に従事しつつハドリアヌスの長城を補修したBirley(2000),p.170-187。 |
| セウェルスの死もそうした戦いの最中で起き、ブリタニア遠征中にエボラクムで病没したBirley(2000),p.187。 |
| 死後は二人の息子カラカラとゲタが継承した為、新たな王朝としてセウェルス朝が成立した。 |
生い立ち
| ルキウス・セプティミウス・セウェルスは父プブリウス・セプティミウスと母フルウィア・ピーアの子としてレプティス・マグナに生まれたBirley(2000),p.1プブリウス・セプティミウスは騎士であり、ポエニ戦争時代に軍功を上げて領地を与えられた歴史を持つ、騎士達の中でも名門に属していた一族の出身であった。 |
| 父プブリウスは政治的な地位を持たず、本国の上流貴族からすればただの田舎貴族でしかなかった。 |
| しかし親族にあたるプブリウス・セプティミウス・アペルとガイウス・セプティミウス・セウェルスという二人の人物がアントニウス・ピウス帝の治世下で臣下に迎えられ、総督などの重職を務めていた。 |
| 母フルウィアはイタリア本土出身の由緒正しい血筋であったBirley(2000),pp.216?217。 |
| 恐らく彼女はローマの古参氏族で、帝政時代にはプレブス階級に没落していたフルウィウス氏族の末裔であると見られており、親類に近衛隊長や執政官を務めたガイウス・フルウィウス・プラウティアヌスがいるBirley(2000),p.216-217。 |
| セウェルスは上流文化の本場である本土で育てられず、一貫して故郷のレプティス・マグナで幼少期を過ごした。 |
| 彼の両親がセウェルスに何を望み、どのような教育や訓練を施したのかは殆ど記録が残っていない。 |
| 後世に伝えられている事の一つに、母国語であるラテン語や教養とされたギリシャ語だけでなく、地元に残る在来住民(カルタゴ人)の話すポエニ語を流暢に話したという逸話である。 |
| そしてそれは彼のラテン語のアクセントにすら影響を残し、「カルタゴ訛り」と揶揄される要因となった。 |
| 他にはカッシウス・ディオによると弁論学を学んでおり、17歳の時に公の場で演説を初めて行ったというBirley(2000),pp.34?35。 |
公職時代
| 162年頃、セウェルスは次第に宮廷での仕官を望むようになり、故郷から遠く離れた帝都ローマに向かう決意を固めた。 |
| ローマでは親族であるガイウス・セプティミウス・セウェルスの推薦もあり、マルクス・アウレリウス時代の元老院に出入りするようになった。 |
| しかし青年期のセウェルスは歴史の表舞台に立つ機会を中々得られなかった。 |
| 官職の入り口である二十六人官を務めた後Birley(2000)p.40、希望していた護民官職は選ばれず、更に財務官についても最低年齢の25歳まで見合わせなければならなかった。 |
| 更に間の悪い事に166年に「アントニヌスの疫病」とも呼ばれる天然痘の流行がローマを襲い、暫くの間はセウェルスは故郷で静養を余儀なくされたBirley(2000),p.45。 |
| 信憑性の薄い「ローマ皇帝群像」は実際には不倫疑惑から逃れるためであると主張している。 |
| だが諦めずに169年になって再びローマに戻ると必要年齢を満たした財務官選挙に名乗りを上げ、見事に当選を果たした。 |
| 12月5日、同職の就任によってセウェルスは元老院の名簿に記載されたBirley(2000),p.46。 |
| 170年から180年にかけて矢継ぎ早に多くの役職を歴任した事実にも関わらず、セウェルスの元老院時代の記録は殆ど残っていない。 |
| 「アントニヌスの疫病」は大勢の犠牲者を出し、元老院議員もかなりの議員が病死していた。 |
| セウェルスの異例の出世はこうした深刻な人材難による部分が大きかったと見られている。 |
| セウェルスは一度目の財務官を終えると今度はヒスパニア・バエティカで職務を継続するように命じられたBirley(2000),p.49。 |
| 父の急死によりレプティス・マグナへ帰省している間にバエティカで動乱が起きて一時的に元老院から皇帝に同地の監督権が移ってしまい、セウェルスは任地に赴けないままに時間を費やしたBirley(2000),p.50。 |
| 173年、ガイウス・セプティミウス・セウェルスが属州アフリカの総督に赴任した際、縁者であるセウェルスを自らのレガトゥス・プロ・プラエトル(属州代理官)に指名したBirley(2000),p.51。 |
| 帰国後、セウェルスは護民官の職務を経て元老院での地位を確かなものとしたBirley(2000),p.52。 |
結婚と跡継ぎ
| セウェルスが結婚したのは当時の慣習より遅い三十台半ばになってからで、175年にパッシア・マルシアナという同郷の女性と結婚したが、彼女はセウェルスとの子を生む事無く亡くなった。 |
| パッシアがいかなる人物であったかは今日全く不明であり、人名から恐らくはポエニ系の一族出身だったのではないかと推測されている程度である。 |
| セウェルス自身も後に皇帝となった後、パッシアとの婚暦を公に認めつつも隠すような行動を取った。 |
| ローマ皇帝群像はセウェルスにはバッシアとの間に二人の娘がいたと主張しているが、史学上の根拠はない。 |
| 186年に結婚から11年目でパッシアが病死するとBirley(2000),p.75、より有力な人物となっていたセウェルスは跡継ぎを欲してすぐに再婚相手を探し始めた(ローマ皇帝群像によればセウェルスは「占いで花嫁を探した」と主張されているBirley(2000),p.71)。 |
| セウェルスは属州シリアにあるエメサ市で、土着信仰である太陽神ヘリオガバルスを奉じていた神官ユリウス・バッシアヌスの娘ユリア・ドムナと結婚したBirley(2000),p.72。 |
| 後にセウェルス朝で暗躍するこの一族は地元シリアではかなりの資金と地位を持つ豪族でもあったが、ローマ本国では「ただのプレブスでしかなかった」とカッシウス・ディオは伝えている。 |
| バッシアヌスは187年にセウェルスの婚姻提案を受け入れ、翌年の夏に両者は正式に結婚したBirley(2000),p.76?77。 |
| 以前の妻より恐らくはより博識で野心高いこの妻にセウェルスは常に一目置き、政治的な議題を相談する事もしばしばであったという。 |
| 跡継ぎについては、結婚から程なくマルクス・アウレリウス・セウェルス・アントニヌス(カラカラ)とプブリウス・セプティミウス・ゲタという二人の息子を授かった。 |
皇帝即位
| セウェルスは順調に元老院での出世を重ね、アウレリウス帝死後のコンモドゥス帝からは要地である属州パンノニアの総督に任命されていた。 |
| 従ってネルウァ=アントニヌス朝断絶後の五皇帝の年では重要な役割を担う事ができた。 |
| セウェルスはコンモドゥス暗殺によって帝位を得たペルティナクスが内紛で処刑され、更に後続のディディウス・ユリアヌスが民心を得れていない事を目の当たりにすると、遂に自らも帝位請求に向けて動き出した。 |
| ユリアヌス軍を破ったセウェルスは元老院からの支持を取り付け、内乱勃発から三人目の皇帝となった。 |
| これに対してセウェルスと平行して帝位を請求していたシリア総督ペスケンニウス・ニゲルと、ブリタニア総督クロディウス・アルビヌスが抵抗の意図を見せた。 |
| セウェルスは地理的に近いアルビヌスと手を結んで彼を副帝に指名して懐柔すると、東方属州へ遠征を開始した。 |
| イッススの戦いでニゲル軍を破ると、一年間を費やして東方属州からニゲル派の勢力を駆逐し、また後ろ盾であったパルティア帝国を押さえ込む事に集中した。 |
| そして東方の動乱を鎮めると、約束を反故にする形で息子のカラカラを新たな副帝に指名すると宣言、激怒したアルビヌスは再び軍を起こして抵抗した。 |
| ルグドゥヌムの戦いはダキア・モエシア・イリュリアの軍勢を中核にしたセウェルス軍の前にアルビヌス軍が大敗を喫して、アルビヌスは戦死した。 |
| 一連の戦闘でセウェルスの支配は確実なものとなり、またその息子に帝位が継がれた事で内乱は終結してセウェルス朝が成立した。 |
軍事政策
| 197年の初めにセウェルスはローマの宮殿を立ってブリンディジへ向かうと海路でキリキアに進みHasebroek(1921),p.111、そこから陸路で属州シリアへ入った。 |
| そしてシリアに辿り着くと軍勢を集め、ユーフラテス川の渡河を開始した"LifeofSeptimusSeverus"in''HistoriaAugusta'',16.1。 |
| セウェルス軍の前にオスロエネ王国の王アバガル9世はセウェルスに王子達を人質として差し出し、また弓兵隊を援軍に派遣して恭順の意思を示したBirley(2000),p.129。 |
| またアルメニア王ティリダス2世も人質を送り、貢物を送って協力を示したHerodian,3:9:2。 |
| セウェルス軍はニシビスへ行軍、配下の将軍ユリウス・ラエトゥスの活躍で攻撃を受けていた同地を防衛した''ProsopographiaImperiiRomani''L69。 |
| セウェルスは再びシリアに戻って補給を得た後、ペスケンニウス・ニゲルを支援していた東方の大国パルティアへの直接戦争を開始した。 |
| 戦いはパルティアの首都クテシフォンを陥落させるなどセウェルス軍の圧勝に終わり、講和条約でティグリス川沿いまで領土を拡張した。 |
| またセウェルスは元老院や近衛兵隊に対する粛清を加えつつ、やはり自らの権力基盤として軍を優遇した。 |
| 属州各地に展開する帝国正規軍の総数は少なければ25個軍団、多いときでも30個軍団だったのが、セウェルスの治世で33個軍団に固定された。 |
| その上、軍団兵の給与は年300デナリウスから年500デナリウスへと大幅に引き上げられた。 |
| また属州民からなるアウクシリア(補助軍)の増強にも着手し、多くの志願者が主に東方属州から召集された。 |
| 彼の軍制改革はローマを一種の軍事独裁政権へとその色合いを強めさせ、後の軍人皇帝時代への布石となった。 |
| しかし民衆は概ね内乱を鎮めて外征に勝利した皇帝に敬意を抱き、セウェルスもパルティア戦争の戦勝を祝ってセプティミウス・セウェルスの凱旋門を建設した。 |
| またコモドゥス時代に力を蓄えた汚職役人を粛清した事も人気に繋がっていった。 |
| 202年後半、セウェルスは属州アフリカに対する新たな対外戦争を計画した。 |
| 命令を受けた第3軍団「アウグスタ」の軍団長クィントゥス・アニシウス・ファウストゥスは「リーメス・トリポリタヌス」を巡ってガラマンテス族と戦い続け、レプティス・マグナから600km以上南へ蛮族を追い払ったBirley(2000),p.153。 |
| 203年までに、優れた将軍達の活躍で北アフリカにおける南部城壁はいずれも劇的に押し広げられ、砂漠地帯でローマを悩ませていた遊牧民はもはや容易に沿岸都市を攻撃できず、サハラ砂漠へと逃げることもできなくなった。 |
| そこでハドリアヌスの長城の補修を命じて、更にピクト人の領域(カレドニア)に北進した。 |
| セウェルス軍はピクト人を破り、カレドニアの北端であるマレー湾にまで到達した |
国内統治
| 外征での勝利を重ねる一方、国内では元老院との不和を抱えた皇帝の一人でもあった。 |
| 元々、軍事力で帝位を簒奪したセウェルスに対する反感は、近衛兵隊を使って元老院を恫喝したディディウス・ユリアヌスと比べてもそれほど差のあるものではなかった。 |
| そしてセウェルスの側も元老院を皇帝権に逆らう存在として、彼らを軽蔑する事を躊躇わなかった。 |
| セウェルスは元老院内に蔓延していた退廃や汚職・謀議の一掃を行い、何十人もの元老院議員を処刑台に送った。 |
| もっとも近衛兵隊という制度そのものを廃止した訳ではなく、単に元老院と同じく自らに従順な者で構成させたに過ぎない。 |
| 事実、粛清後にセウェルスは自らに従い続けてきた古参兵から新たな近衛兵を選んで、アルバノに拠点を移動させた上で身辺を守らせている。 |
| 同時代の歴史家カッシウス・ディオによるとCassiusDio,''RomanHistory'',Book76,Sections14an15.、初期の統治を終えた197年頃からセウェルスは古い友人でもある新しい近衛隊長ガイウス・フルウィウス・プラウティヌスに治世を任せて、自らは内政を省みないようになったという。 |
| セウェルスはプラウティヌスを寵愛し、彼の娘を帝位継承を約束されていた長男カラカラの后妃として迎えさせた。 |
| しかしながらセウェルスが直接統治を執り行う事は無く、アエミリウス・パピニアヌスという法律家に治世が一任された。 |
病没
| カッシウス・ディオによれば、遠征地で危篤に陥ったセウェルスは息子達に平穏に暮らすように言い残した上で、『兵士を優遇せよ。 |
| 211年、セウェルスが病没すると直ちに皇帝は神として神殿に祭られ、後にカラカラとゲタもこれに加わった"LifeofSeptimusSeverus"in''HistoriaAugusta'',Section19.。 |
| かのポートランドの壺はセウェルスの副葬品が16世紀に彼の墓から掘り出されたものと言い伝えられている。 |
評価
| 彼は幾多の戦いに勝利して、西方属州の国境(ゲルマニア地方)を除く全ての国境線を拡張して、それぞれの城壁(リーメス)を大幅に補強した。 |
| 同時に軍を厚遇する事でその精強さを高めた事も含め、セウェルス朝の断絶による軍人皇帝時代までローマ帝国が広大な領土を他国から守れた一つの要因を作り出した功績は疑うべくもない。 |
| しかし一方で軍に対する過剰な優遇はコモドゥス時代に減らされた軍事費を再び膨大な額へと引き上げる結果となり、既にネルウァ=アントニヌス朝に表面化しつつあった軍事費の増大を決定的なものとした。 |
| またセウェルスは露骨な身内贔屓でも知られており、彼の治世で立てられた建設物の殆どは故郷のレプティス・マグナに集中した。 |
| 数少ない例外はセプティミウス・セウェルスの凱旋門の凱旋門だが、セウェルスはレプティス・マグナにも同様の凱旋門を建設する事を忘れなかった。 |
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