| チェリビダッケは初めパリに留学したが、1936年にドイツのベルリンに移り、ベルリン大学やベルリン芸術大学で哲学、数学、作曲、指揮などを専攻した。 |
| 彼は戦時中もベルリンに留まり、同地で終戦を迎えた。 |
| ベルリン滞在中にフルトヴェングラーの演奏会をチケットが手に入ろうが入るまいが聴き逃した覚えはない、と後年に回想している。 |
| 戦後、ベルリン・フィルの常任指揮者だったフルトヴェングラーをはじめとする有名指揮者たちはナチスとの関係をとがめられて謹慎生活に入り、ロシア生まれの指揮者レオ・ボルヒャルトがベルリン・フィルを率いることになるが、わずか3ヶ月後の8月に米軍の誤射でボルヒャルトは帰らぬ人となった。 |
| このため、後継指揮者を探すコンクールが開かれた。 |
| 受けるように勧めたのは師のハインツ・ティーセンだったという。 |
| この大事なチャンスに、チェリビダッケは遅刻したらしい。 |
| 課題曲はブラームスの交響曲第4番第1楽章(一説によると交響曲第1番)。 |
| 審査員全員一致で優勝。 |
| ボルヒャルト死去のわずか6日後にベルリン・フィルの野外コンサートで指揮者デビューを飾る。 |
| 曲はロッシーニのセビリアの理髪師序曲とウェーバーのバスーン協奏曲、そしてドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」だった。 |
| 連合軍がドイツ文化の非ナチ化を目指したことから抜擢されたチェリビダッケだったが、その2回目のコンサートにしてメンデルスゾーンの「イタリア」と、なんとナチスの旗印とも言えるワーグナーの「タンホイザー」序曲を組み合わせたプログラムでコンサートを開いている。 |
| 当時としては最も早い時期でのワーグナー解禁だったが、連合軍のおとがめはなかったようである。 |
| 若い楽団員とファーストネームで呼び合い、わずかな食料を分かち合いながら戦後の混乱期を乗り切る(コントラバスのツェペリッツあたりがその最後の世代)。 |
| 有名ソリストを海外から呼ぶこともできなかった時期に、フランス・ロシアものなどの新しいレパートリーを開拓することにも尽力した。 |
| 活動初期は評論家の受けもよく、ベルリン・フィルを多く指揮し次期首席指揮者と謳われるが、フルトヴェングラーを深く尊敬していた彼は、フルトヴェングラーの非ナチ化裁判に協力するため奔走。 |
| 2年後の1947年にフルトヴェングラーがベルリン・フィルに復帰した。 |
| チェリビダッケは時にはフルトヴェングラーの「下振り」を嬉々として行いながら多くの事を吸収したが、早くフルトヴェングラーに常任に復帰して欲しいベルリン・フィルにとって、チェリビダッケの存在価値は次第に変質していった。 |
| 原因の一つは、チェリビダッケの求める演奏技術レベルがフルトヴェングラーの要求よりも厳しく、自分の要求に答えられないベテランの団員を入れ換えたがっていたことである(事実彼は自分が「フルトヴェングラーより耳がよい」ことを自認していた上、晩年のフルトヴェングラーは薬の副作用による難聴に苦しんでいた)。 |
| その他には、彼の派手なアクションや指揮台上での足踏み、唸り声や渋面がスタンドプレーと受け取られ始め、ベルリンの演奏会批評でも叩かれたこともあった。 |
| こうした雰囲気に嫌気がさしたチェリビダッケはベルリン・フィルの指揮回数を減らし、まずロンドンでの客演活動を始め、そしてヨーロッパ全域から中南米にいたるまで客演の範囲を拡大し、ベルリン・フィルと距離を置き始めた。 |
| そして、フルトヴェングラーが死の病に伏しているちょうどその時、チェリビダッケはベルリン・フィルとの「ドイツ・レクイエム」のリハーサルで大衝突を起こして決別し、38年後の1992年3月31日に最初で最後の復帰を果たすまでベルリン・フィルを指揮する事はなかった。 |
| フルトヴェングラー没後、ベルリン・フィルの首席の座はカラヤンが継ぎ、チェリビダッケはその後、イタリアの公共放送局RAI(RadiotelevisioneItaliana)に所属する複数のオーケストラ(トリノ、ローマ、ミラノ他)や、スウェーデンやデンマークのオーケストラに転々と客演を重ねた。 |
| 1971年に、後のシュトゥットガルト放送交響楽団となる南ドイツ放送交響楽団の創立25周年コンサートを指揮し、そのブルックナーの交響曲第7番の演奏は評判を呼んだ。 |
| オーケストラもチェリビダッケの能力を高く評価し、以後およそ10年にわたり、チェリビダッケが望むだけのリハーサルを行い、そのかわり演奏を収録/放送することをチェリビダッケが「黙認」する形で両者の緊密な関係は続いた。 |
| 南ドイツ放送局に残された映像素材からは、「シェヘラザード」などの放送用演奏は複数回行われたことが確認できる。 |
| そういう意味で、録音・録画を一切しない、という当時の触れ込みは必ずしも正確ではなかったといえる。 |
| 1979年からは、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を務め、シュトゥットガルト放送交響楽団とは放送用の録画が本人の意に染まない「編集」を行われた、という理由で1982年を最後に決別。 |
| また晩年にはミュンヘン市の芸術監督に就任した。 |
| 日本には1977年秋と1978年春に読売日本交響楽団に客演、1980年にはロンドン交響楽団と来日。 |
| 手兵ミュンヘン・フィルとは1986年以降1990年、1992年、1993年と頻繁に訪れた。 |
| 1986年の公演でのブルックナーの交響曲第5番以降、ブルックナーは来日公演の主要なレパートリーとなり、1990年10月にミュンヘン・フィルとともに来日した時は、ブルックナーの交響曲第4番、第7番、第8番を指揮して、7番、8番はハイビジョンによる録画も行われている。 |
| 相当な毒舌家で知られていて、ミュンヘン市当局は金で他の指揮者への批判を黙らせたとされる(クラウス・ウムバッハ)。 |
| また、カール・ベームが晩年にミュンヘン・フィルに客演しようとした際、チェリビダッケの毒舌(チェリビダッケはベームを「''芋袋''」「ドンゴロス野郎」と呼んでいた)を耳にし、それを演奏契約解除の通告と見做して出演を取りやめた、という逸話も残っている。 |
| 反面、ベームが病気のため指揮できなくなったロンドン交響楽団の演奏会をわずか1日のリハーサルで引き受けるなど、その本音はよく分からない。 |
| かつてチェリビダッケの毒舌(カラヤンを批判)が新聞の紙面を賑わせた際には、見かねたカルロス・クライバーがトスカニーニに成り済まして反論(''天国でもカラヤンは人気者です'')のテレックスを打った、ということもあった。 |