| その苦学時代の体験が、長じて教育活動に目を向けることとなり1846年にはニューヨーク市の教育局長となり、1847年に高等教育機関「フリーアカデミー」を創設。 |
| みずからフランス語、イタリア語、スペイン語を教えるなど、貧困家庭の子女の教育向上に尽くした。 |
| そのほか、医療や消防などの公共事業に携わる。 |
| 家業の経営が悪化したため、ハリスは1849年にはサンフランシスコで貨物船の権利を購入し、貿易業を開始する。 |
| 清国、ニュージーランド、インド、マニラなど太平洋を中心に各地を航行して、以前から興味を抱いていた東洋に腰を落ち着ける。 |
| 1853年には日本への第1次遠征を行っていたマシュー・ペリー率いるアメリカ東インド艦隊が清国に滞在しており、上海にいたハリスはペリーに対して日本への同乗を望むが、軍人でないために許可を得られなかった。 |
| ハリスは国務長官など政界人の縁を頼って政府に運動し、1854年3月、台湾に関するレポート「台湾事情申言書」を提出。 |
| 4月には寧波の領事に任命される。 |
| アメリカへ帰国したハリスは、1854年に日本とアメリカとの間で調印された日米和親条約の11条に記された駐在領事への就任を望み、政界人の推薦状を得るなどして、1855年に大統領フランクリン・ピアースから初代駐日領事に任命される。 |
| ハリスは日本を平和的に開国させ、諸外国の専制的介入を防いでアメリカの東洋における貿易権益を確保を目的に、日本との通商条約締結のための全権委任を与えられる。 |
| また、シャムとの通商条約締結も命じられた。 |
| ハリスは通訳兼書記官でオランダ語に通じたヘンリー・ヒュースケンを雇い、1856年に出発。 |
| ヨーロッパからインド経由で4月にはシャムへ到着、バンコクにおいて通商条約の締結に尽力する。 |
| さらに香港経由で8月21日に日本へ到着し、伊豆の下田へ入港する。 |
| 日本では通訳の不備などから、対応にあたった下田奉行・井上清直に入港を拒否されるなどのトラブルもあったが、折衝の末に正式許可を受け、下田玉泉寺に領事館を構える。 |
| ハリスは大統領親書の提出のために江戸出府を望むが、幕閣では水戸藩の徳川斉昭ら攘夷論者が反対し、江戸出府は留保された。 |
| 下田においては薪水給与や回比率などの問題を巡り和親条約改訂のための交渉が行われ、1857年(安政4年)5月には下田協定が調印される。 |
| ハリスはたび重ねて江戸出府を要請し続けていたが、同年7月にアメリカの砲艦が下田へ入港すると、幕府は江戸へ直接回航されることを恐れてハリスの江戸出府、江戸城への登城、将軍との謁見を許可する。 |
| ハリス、ヒュースケンらの一行は1857年10月に下田を出発し、江戸に入る。 |
| 江戸では蕃書調所に滞在して登城の日取りが決められ、21日に登城し、13代将軍の徳川家定に謁見して親書を読み上げている。 |
| 1856年には下田御用所において日本貨幣と米国貨幣との交換比率について幕府側と交渉を行った。 |
| ハリスは金貨も銀貨も同質同量の原則すなわち、1ドル銀貨は同じ質量に相当する一分銀3枚と交換すべきと主張し、一方幕府側は1ドル銀貨の地金価値は双替方式により銀16匁に相当するから一分銀1枚であると主張し対立した。 |
| 最終的にハリスの主張が通され、このことにより短期間のうちに多額に上る小判が日本国外へ流失した。 |
| 1858年には同年に大老となった井伊直弼が京都の朝廷の勅許無しでの通商条約締結に踏み切り、日米修好通商条約が締結されたため、初代駐日公使となり、下田の領事館を閉鎖して江戸の元麻布善福寺に公使館を置く。 |
| 1862年には病気を理由に辞任の意向を示し、幕府は留任を望むものの、アメリカ政府の許可を得て4月に5年9か月の滞在を終えて帰国、後任はロバート・プルイン。 |
| 辞任の理由に関しては、ハリスの日記に日本滞在中に体調が優れなかった健康上の事情が記されており、また本国において共和党のエイブラハム・リンカーンが大統領となっていたことや、南北戦争の故郷への影響を心配していたとも指摘されている。 |
| 帰国後は業績を表彰され、1867年には議会はハリスに対する生活補助金の支給を可決している。 |
| 特に公職には就かず、動物愛護団体の会員などになった。 |
| 1876年には保養地のフロリダ州に移住し、74歳で死去。 |
| ハリスは生涯独身であったため、姪が法定相続人となった。 |
| 墓所はニューヨーク市ブルックリン区のグリーンウッド墓地。 |