| 両親のほかにピアノの指導を受けてはいない。 |
| 少年時代から音楽の才能を表し、1950年8月まだ7歳のうちにブエノスアイレスで最初の公開演奏会を開いてピアニストとしてデビュー。 |
| 1952年に家族を挙げてイスラエルに移住。 |
| 2年後の1954年夏、両親に連れられ、ザルツブルクでイーゴリ・マルケヴィチの指揮法のマスタークラスに出席。 |
| 同年夏、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーを訪ねて、演奏を聞いてもらい、彼の白黒映画でフルトヴェングラーが「これは天才だ!」と紹介しているシーンは有名である。 |
| その他イタリアで当時無名で友人のクラウディオ・アバドと一緒にフランコ・フェラーラの指揮クラスにも出席している。 |
| 1955年にパリで和声と作曲をナディア・ブーランジェに師事。 |
| ピアニストとしてのヨーロッパ・デビューは、1952年にウィーンとローマにおいてである。 |
| 1955年にはパリ、1956年にはロンドンにデビューしており、1957年にはレオポルド・ストコフスキーの指揮で、ニューヨークにおいてオーケストラ・デビューを果たす。 |
| その後は、欧州、米国、南米、豪州、極東の各地で定期的に演奏会を行う。 |
| 最初の録音は1954年に行われた。 |
| その後、モーツァルトのピアノ・ソナタとピアノ協奏曲のいずれも全曲録音を完成させたほか、オットー・クレンペラー指揮によるベートーヴェンのピアノ協奏曲(全曲)、ジョン・バルビローリ指揮によるブラームスのピアノ協奏曲(全曲)、ピエール・ブーレーズ指揮によるバルトークのピアノ協奏曲(第1番・第3番のみ)を録音。 |
| ピアニストとしての名声を確固たるものとした後、1966年からイギリス室内管弦楽団とモーツァルトの交響曲録音を開始し指揮者デビューを果たす。 |
| 1970年代からは、欧米各地の交響楽団から指揮者として招かれる。 |
| 1975年から1989年までパリ管弦楽団音楽監督に就任しドイツ・オーストリア音楽や現代音楽を積極的にとり上げるが、同楽団の低迷を招いたとマスコミからも攻撃されるなど評価は必ずしも芳しくなかった。 |
| しかし、フランス物に偏らないプログラムを演奏したり、団員と積極的に室内楽を演奏するなど、良くも悪くもフランスのオーケストラだった同楽団をよりインターナショナルな団体へと脱皮させたのはバレンボイムの功績である。 |
| とりわけこの時期にドイツ・グラモフォンに同楽団と録音したラヴェルとドビュッシーは名演奏の一つに数えられている。 |
| 1991年よりショルティからシカゴ交響楽団音楽監督の座を受け継いでからは卓越した能力を発揮し、現在は世界でも最も有名な辣腕指揮者のひとりとして知られている。 |
| カラヤン、バーンスタインから近年のヴァントやジュリーニ、ベルティーニに至るまで、第二次大戦後に活躍してきた指揮界の巨星が相次いで他界した後の、次世代のカリスマ系指揮者の一人として世界的に注目と期待が集まっている。 |
| なお2005-2006年のシーズン終了後のシカゴ交響楽団音楽監督を退任。 |
| 2009年元日にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサートを指揮した。 |
| オペラ指揮者としては、1973年にエディンバラ音楽祭において、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」を指揮してデビュー。 |
| 1981年にはバイロイト音楽祭に初めて招かれた。 |
| その後も1999年まで('84、'85年を除き毎年バイロイトで指揮を続け、「指環」全曲、「マイスタージンガー」、及び二度の「トリスタン」の各々の新演出を任された。 |
| この間レヴァイン、シノポリらとともに音楽祭の中心的な指揮者として活躍した。 |
| 1990年より、新設されたパリ・バスティーユ・オペラの音楽監督に就任予定だったが、直前に解任されスキャンダルとなった。 |
| 1992年からはベルリン州立歌劇場の音楽監督に就任し、現在まで継続している。 |
| 更に2007年よりミラノ・スカラ座の「スカラ座のマエストロ」という、音楽監督不在の中の事実上の首席客演指揮者に就任。 |
| 2007年の開幕で指揮を執った。 |
| その国籍にもかかわらず、ワーグナーやリヒャルト・シュトラウスのようにイスラエル政府から「ナチス寄り」と認定された作曲家の解釈に本領を発揮しているが、これはバレンボイムがフルトヴェングラーに私淑し、その後継者たらんとしてきた姿勢によるだけでなく、ヤッシャ・ハイフェッツやロリン・マゼール、ジェームズ・レヴァインなどのアメリカのユダヤ系音楽家、あるいは同じくユダヤ人のショルティが、一般に新ドイツ楽派を得意のレパートリーとしている風潮とも合致している(当時オーストリア支配下にあり、新ドイツ楽派の創始者リストの生地でもあるハンガリーに生まれ、初老期までドイツ国籍だったショルティは少し事情が異なるが)。 |
| 一方で民族的出自であるロシア物のレパートリーは、同じく他国で生まれたユダヤ系ロシア人であるバーンスタインやプレヴィンに比べても、さほど比重が大きくない。 |
| バレンボイムは2度結婚している。 |
| 最初の相手はイギリスのチェリスト、ジャクリーヌ・デュ・プレであった。 |
| デュ・プレは才能に恵まれながらも、多発性硬化症の発病により、悲劇的にも突然に音楽家生命を断たれている。 |
| 二度目の相手は、ギドン・クレーメルの前妻で、ユダヤ系ロシア人ピアニストのエレーナ・バシュキロワである(エレーナの父親は高名なピアノ教授ディミトリー・バシュキロフで、フリードリヒ・グルダの息子リコが門人にいる)。 |
| 二人はデュ・プレの最晩年にはパリで同棲生活に入っており、二人の子をもうけていた。 |
| バレンボイムとエレーナ夫人の正式な結婚は1988年に行われた。 |