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ダライ・ラマ14世
第14代のダライ・ラマ。インドのダラムシャーラーに拠点を置くチベット亡命政府ガンデンポタンの長である。法名はテンジン・ギャツォ()。またチベット民族... |
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ツォンカパ
ツォンカパ(、1357年-1419年)はチベット仏教最大の学僧であり、代々のダライ・ラマの所属する宗派ゲルク派(黄帽派)の開祖。本名はロサン・タクパ(blobza... |
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ポタラ
東京ヤクルトスワローズのファン。大学生活、自転車、プロ野球や私生活など、毎日書いていこうと思います。趣味が同じ方など、お気軽に訪問してください。 ... |
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アルタン・ハーン
モンゴルを支配したハーン。ダヤン・ハーンの孫(在位:1551年-1582年)。「アルタン」は「黄金」を意味する。 |
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ダライ・ラマ3世
第3代のダライ・ラマ。略名はスーナム・ギャツォ(ソナムギャムツォ)。モンゴルのアルタン・ハーンは、青海へ遠征した際にチベット仏教に感銘を受けた。そし... |
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ダライ・ラマ1世
初代のダライ・ラマ。略名はゲンドゥン・ドゥプパ。チベット仏教ゲルク派の開祖ツォンカパ大師の直弟子であった。後、ゲルク派の高僧スーナム・ギャツォ(154... |
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観音菩薩
仏教の菩薩の一尊であり、特に日本において古代より広く信仰を集めている尊格である。「観世音菩薩」または「観自在菩薩」ともいう。「救世菩薩」(くせぼさ... |
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ユンテン・ギャツォ
ユンテン・ギャツォは チベット暦 丑の年12月31日 [1] に生まれた(丑の年1月1日とする説明もある [2] 。1月1日なら西暦 1589年 、12月31日なら 1590年 )。... |
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ホンタイジ
清の第2代皇帝(在位:1626年10月20日-1643年9月21日)。君主としての称号は満州語で「スレ・ハン」、モンゴル語で「セチェン・ハーン」。皇太極は皇太子、黄... |
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グーシ・ハーン
17世紀中頃のオイラト八部のひとつホシュート部の部族長。チベットに遠征し、ダライ・ラマの権威の下にグシ・ハン王朝を樹立した。資料によってはグシ・ハン... |
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ダライ・ラマ2世
ダライ・ラマ2世(、ワイリー方式:Dge-'dunRgya-mtsho、1475年-1542年)は2代目のダライ・ラマである。略名をゲンドゥン・ギャツォ()。ただ、生前にはダラ... |
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林寺
林寺小学校 講堂前の桜 くすのき
校長 松本 行弘 郵便番号 544-0023 住所 生野区林寺2-14-3 電話番号 教育目標 明るくたくまし... |
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パンチェン・ラマ10世
チベット仏教ゲルク派の最高位の化身ラマのひとりで、第10代のパンチェン・ラマである。中華民国青海省循化県で生まれた。 |
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アティーシャ
アティーシャ(梵語:Atiśa、ベンガル語:Ôtish、982年-1054年)は主にチベットで活躍したインド・ヴィクラマシーラ大学(超岩寺)出身の仏教僧。本名は月蔵... |
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ガンデンポタン
ダライ・ラマを長とし、ラサを本拠として1642年に成立したチベットの政府。1959年、チベット動乱の際、ダライ・ラマとともにインドに脱出、現在はチベット亡... |
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パンチェン・ラマ
チベット仏教ゲルク派においてダライ・ラマに次ぐ高位の化身ラマの称号である。無量光仏(阿弥陀如来に相当)の化身とされ、転生(生まれ変わり)によって後継... |
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乾隆帝
清の第6代皇帝(在位1735年10月8日-1796年2月9日)。諱は弘暦(こうれき)、廟号は高宗(こうそう)。在世時の元号の乾隆を取って乾隆帝と呼ばれる。 |
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順治帝
対立
中国清王朝の第3代皇帝(在位1643年10月8日-1661年2月5日)。姓名は愛新覚羅福臨(アイシンギョロ・フリン)、廟号は世祖。在世時の元号順治を取って順治帝と... |
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プロフィール
- ダライ・ラマ5世とは
- 関連人物・組織
- 生誕当時の状況
- 誕生と認定
- チベット統一
- 支配体制の確立
- 中国との国交
- 権力の行使
- 死後
ダライ・ラマ5世(1617年-1682年)は、第5代のダライ・ラマで、略名をロサン・ギャツォ(LozangGyatso)という。 ダライ・ラマ5世は、1645年に、 ポタラ宮の建設をはじめた。その後、50年あまりを要して彼の死後の1695年に完成した。現在の ポタラ宮では、観世音菩薩の化身として、 ダライ・ラマ5世が祀られている。 ダライ・ラマ5世は1642年に権力を掌握してから40年にわたってチベットの行政と宗教を 支え、「偉大なる5世(ガパ・チェンポ)」と呼ばれた。
関連人物・組織
| ゲルク派/チベットの一宗派。 |
| 首座はガンデン・ティパと呼ばれる。 |
| ダライ・ラマ、パンチェン・ラマなどの名跡もゲルク派に属する。 |
| ダライ・ラマ3世の時にモンゴルの支援を取り付けて力を付ける。 |
| 1642年、ダライ・ラマ5世の時にチベットの政権を掌握。 |
| サキャ派政権/サキャ派はチベットの一宗派。 |
| 1260年に元のクビライがサキャ派の長を宗教指導者に指名したことから、チベットの政権を掌握。 |
| 元が明に敗れると、政権としての力を失う。 |
| 宗派としては現代まで継続。 |
| カギュ派/チベットの一宗派。 |
| 多くの支派がある。 |
| パクモドゥ派政権/パクモドゥ派はラン氏を主体としたカギュ派の支派。 |
| サキャ派がモンゴル帝国の庇護を失ってから、チベットの政権を掌握。 |
| 後に外戚であったリンプン氏に乗っ取られ、リンプン氏がパクモドゥ派僧正位を空位にしたことからパクモドゥ派本流は宗派としては滅ぶ。 |
| 政治派閥としてはしばらく継続。 |
| 支派のいくつかが現代まで継続。 |
| カルマ派/カルマ派はカギュ派の支派。 |
| リンプン派政権、ツァン派政権の支援を受けたため宗派として栄えたが、ツァン派政権と対立したゲルク派と対立。 |
| ゲルク派のダライ・ラマ5世が政権を取ると東チベットに逃走するが、30年後に中央チベットに戻って和解。 |
| リンプン派政権/貴族のリンプン氏がパクモドゥ派政権を乗っ取り、成立。 |
| 支援宗派はカルマ派。 |
| ツァン派政権/リンプン氏の重臣が内乱の末にシガツェを中心に作った王国。 |
| チベットの政権をある程度掌握。 |
| 支援宗派はカルマ派。 |
| ダライ・ラマ5世を支援した遊牧民族オイラトのグーシ・ハーンに滅ぼされる。 |
| モンゴル高原モンゴル帝国が滅びた後もしばらくはモンゴル民族の力が強かった。 |
| 後にオイラトなどの別民族も力を付ける。 |
| モンゴル帝国/チンギス・カンが始め、子孫が発展させた帝国。 |
| 元朝の頃、チベットのサキャ派政権を事実上支配下に置く。 |
| 元が明に敗れて本拠地を北部に移し、北元となってからはチベットに対する影響が衰える。 |
| ダヤン・ハーン/チンギス・カンの末裔を称するモンゴルの中興の祖。 |
| /ダヤン・ハーンの子孫の一系統。 |
| ダヤン・ハーンの孫アルタン・ハーンがダライ・ラマ3世を支援。 |
| アルタン・ハーンの孫がダライ・ラマ4世となる。 |
| ダライ・ラマ4世が死ぬと、チベットでの力を失う。 |
| (現在は主に中国内モンゴル自治区に住む)。 |
| 七旗ハルハ/ダヤン・ハーンの子孫の一系統。 |
| の時、ツァン王テンキョンワンボと同盟。 |
| 間もなく内紛が生じ、さらにオイラトのグーシ・ハーンに敗れて力を失う。 |
| (現在は主にモンゴル国に住む)。 |
| オイラト/モンゴル族の西に居住していた遊牧民。 |
| チンギス・カンの時代にモンゴルの支配下となる。 |
| モンゴル帝国崩壊後、力を増す。 |
| (現在はロシア連邦カルムイク共和国、モンゴル国などに住む)。 |
| ホシュート/オイラトの有力部族の一つ。 |
| グーシ・ハーンの時に、モンゴル七旗ハルハのチョクトゥ・ハンを破ってモンゴル高原の覇者となる。 |
| ダライ・ラマ5世に協力してチベットも制圧。 |
| グーシ・ハーンの死後は分裂。 |
| ダライ・ラマ5世の死後、ホシュートの一派がダライ・ラマ6世を廃位することになる。 |
生誕当時の状況
| モンゴル帝国の崩壊後、モンゴル帝国の庇護を受けていたチベットのサキャ派政権は間もなく崩壊し、チベットの各宗派はそれぞれ独自にモンゴル高原の諸勢力の庇護を受けるなどして、権力争いが続いた。 |
| 1358年にパクモドゥ派政権、1433年にリンプン派政権、1565年にツァン派政権へと支配者が代わっていったが、どの政権も支配力はサキャ派政権ほどには無く、チベットは分裂状態にあるといってよかった。 |
| 後にダライラマを生み出すゲルク派は、当初はパクモドゥ派政権の支援を受けていたが、パクモドゥ派がリンプン派に押されて勢力を弱めると、逆にゲルク派がパクモドゥ派を保護する格好となっていた。 |
| ツァン派政権ができる少し前の1556年、モンゴルはチベットを攻撃してゲルク派の僧侶を捕虜とした。 |
| モンゴルの長アルタン・ハーンは彼らの教えに惹かれ、1577年にゲルク派デプン寺の座主スーナム・ギャツォを招き、ゲルク派に帰依した。 |
| そして、スーナム・ギャツォにダライ・ラマ(知恵の海)の称号を与えたペマ・ギャルポ:1998。 |
| なお、スーナム・ギャツォはダライ・ラマの称号を得る前から高僧の転生者と見なされていたので、彼の転生前の人物が1世と2世とされ、スーナム・ギャツォはダライ・ラマ3世となった。 |
| この時点でダライ・ラマはゲルク派の活仏の1人にすぎず、まだゲルク派の代表格にはなっていない。 |
| アルタン・ハーンの死後もモンゴルはゲルク派を信仰した。 |
| 1588年にダライ・ラマ3世が死ぬと、アルタン・ハーンの一族は間もなく生まれたアルタン・ハーンの孫がその生まれ変わりだと主張し、その子が1601年にデプン寺でダライ・ラマ4世として即位したロラン・デエ:2005。 |
| ところがゲルク派は、対立宗派カルマ派を支援するツァン派政権の王テンスンワンボと対立し1605年に敗北したことから、勢力が非常に弱まった。 |
| 1617年にダライ・ラマ4世が死ぬとゲルク派はさらに弱まり、翌年にはツァン王プンツォーナムギャルに要所のラサとデプン寺、セラ寺を奪われた。 |
| なお、ツァン王がゲルク派を攻撃したのは、ゲルク派が外国勢力であるモンゴルをチベットに入れようとすることに対する危機感からとも言われている。 |
誕生と認定
| ダライ・ラマ5世が生まれたのはダライ・ラマ4世が死んだ1617年、チベット暦の9月23日である。 |
| 生誕地はラサから南東に100キロメートルほどのヤルルン渓谷にあるチョンギェーで、この地には古代吐蕃王国の墓所があった。 |
| また、彼は高位の貴族、ルカン族の長の家の生まれであり。 |
| デプン寺は神託に基づき、ダライ・ラマがチョンギェーに転生したと考え、1619年、このルカン族の子をダライ・ラマ5世の候補者の一人と見なした。 |
| 一方1620年、ゲルク派を支援するモンゴルがラサに軍を進め、ツァン王の軍と対峙した。 |
| 結局、。 |
| 候補は3人であったが、パンチェン・ラマ4世ともう一人の僧が占いにより、このルカン族の長の子に決定した。 |
| ダライ・ラマ5世は後に自著の中で、自分がこのテストで何一つ当てられず、選ばれたのは母がツァン王に関係していた政治的な理由だったと教えられたとのエピソードを披露している。 |
チベット統一
| ツァン王はモンゴルの七旗ハルハに属すると同盟し、勢力の挽回を図ろうとした。 |
| まず1635年、チョクトゥ・ハンの息子アルスランが軍を率いてチベットに来たが、彼は父の意向に沿わずゲルク派の味方をした。 |
| (そのためアルスランは翌1636年に父チョクトゥ・ハンに暗殺された)この頃、モンゴルとは別の民族オイラトが力をつけており、その一部族ホシュートのトゥルバイフは1637年、チョクトゥ族の内紛を機会に青海のチョクトゥ軍3万を破り、ツァン王は軍事的に窮地に立った。 |
| File:GushiKhanFresco.jpg|thumb|220px|left|モンゴル高原のトゥルバイフ、後のグーシ・ハーンはダライ・ラマを軍事的に支援した。 |
| 軍事的に窮地に立ったツァン王テンキョンワンボは、ボン教徒であった『西蔵仏教宗義研究』第4巻ベリの王、トンユ(Donyod)と同盟した。 |
| これがかえってオイラトに口実を与えることになり、トゥルバイフは軍を動かし、まずベリ王国を制圧、さらに西に軍を進めてツァンの首都シガツェも落とし、1642年にツァン王テンキョンワンボを捕らえて処刑した。 |
| 1642年(ダライ・ラマ5世が25歳の頃)、トゥルバイフはツァン王国の旧首都シガツェにダライ・ラマ5世を呼び、そこにチベット中の僧侶を集めて、ダライ・ラマ5世にチベットでの権威を与えた。 |
| それまで、モンゴル高原でハーンを名乗れるのはほぼチンギス・ハーンの末裔だけだったが(チンギス統原理)、モンゴルの信奉が厚いダライラマの権威により、モンゴル民族以外に対するこの例外的なハーンの称号がモンゴル高原諸勢力の間で認められた。 |
| 特にチンギス・ハーンの直系を自称する七旗ハルハのトシェート・ハーン・ゴンボドルジや、ウバシ・ホンタイジ(ホンタイジは皇太子の音訳、この時代にはホンタイジという名の人が多いので注意)の子パドマ・エルデニ・ホンタイジらは、ゲルク派と直接対立したわけではないが、ゴンボドルジの息子がの活仏と認定されたり、パドマがカルマ派の反乱に際してカルマ派と手紙を交換していたりと、必ずしもゲルク派やグーシ・ハーンに協力的とは言えなかった。 |
支配体制の確立
| 軍権は当然グーシ・ハーンが握っていたし、グーシ・ハーンはダライ・ラマ5世の側近ので、以後10年ほどは両者の意向も重要であった。 |
| ダライ・ラマ5世は、ゲルク派の拠点の一つデプン寺があるラサをチベットの首都と定めた。 |
| 以後のダライ・ラマ政府はガンデンポタン(「ガンデンの宮殿」の意、ガンデン寺はゲルク派の総本山)と呼ばれることが多い。 |
| 1645年にデプン寺のやや東にポタラ宮の建設を命じ、1649年にそこに移った。 |
| ポタラ宮建設地はかつてのチベット帝国の王ソンツェン・ガンポの宮殿があったとされる場所であり、ポタラとは観音菩薩の聖地補陀落の音訳である。 |
| まず師である同じゲルク派タシルンポ寺の大僧正にパンチェン・ラマの称号を送った(ただしこの大僧正は4世とされ、1世から3世までは昔の僧に追贈された)。 |
| 先に述べたようにモンゴル七旗ハルハのトシェート・ハーン・ゴンボドルジの息子はジョナン派の化身仏と見なされていたが、1551年にゲルク派に改宗し、弥勒菩薩の化身ジェプツンダンバ・ホトクトに認定され、ゲルク派の強力な味方となった。 |
中国との国交
| ダライ・ラマ5世が幼い頃、中国では明が政権を握っていたが、その北方では満洲民族が力を付けていた。 |
| 満洲民族は西のモンゴル高原諸勢力を次々と従え、1636年に清を建国、1637年には李氏朝鮮を従え、1644年には中国を従えた。 |
死後
| サンギェ・ギャムツォは1696年になってようやくその死を発表し、翌1697年に自分が探してきた少年をダライ・ラマ6世として即位させたが、モンゴル高原諸勢力や清の同意を得られず、サンギェ・ギャムツォは1705年にオイラトホショートの軍に殺され、ダライ・ラマ6世は1706年に廃位された。 |
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1260年
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元のクビライがサキャ派の長を宗教指導者に指... |
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パクモドゥ派政権、1433年にリンプン派政権、... |
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