| 1892年に、南フランスプロヴァンス地方のエクス=アン=プロヴァンスにおいて、アーモンド取引で財をなした富裕なユダヤ人の家庭に生れる。 |
| 父は商館をとりしきるかたわら地元の音楽協会の中心人物を務め、母はかつてパリで声楽を学んでいたダリウス・ミヨー、別宮貞雄訳『幸福だった私の一生』音楽之友社、1993年、14ページ。 |
| このような環境の中、7歳で地元の音楽家レオ・ブルギエにヴァイオリンを学び、1904年からはブルギエの四重奏団で第2ヴァイオリン奏者となるミヨー、前掲書、19-20ページ。 |
| この頃にクロード・ドビュッシーの弦楽四重奏曲を勉強し、1902年に初演されたばかりの『ペレアスとメリザンド』の楽譜を入手する。 |
| また同じ頃、地元の軍楽隊の音楽隊長から和声法を学びつつ作曲を始めるが、学んだ和声法は生かされず、独自の和声進行によるヴァイオリンソナタを書いたミヨー、前掲書、22ページ。 |
| 1909年にパリ音楽院に入学。 |
| パリでは頻繁に演奏会に通い、モーリス・ラヴェルの『夜のガスパール』初演や、発足まもないバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)の公演などに刺激を受け、ドビュッシー、モデスト・ムソルグスキーに傾倒する。 |
| その一方でリヒャルト・ワーグナーの作品には嫌悪感を覚え、生涯「反ワーグナー」の姿勢をとることになる1919年から21年にかけて『音楽通信』で批評を担当した際に「打倒ワーグナー」を表明し、抗議が殺到した。 |
| 本来はヴァイオリンを学ぶための入学であったが、次第に作曲を本格的に学ぶようになる。 |
| 音楽院ではポール・デュカスに管弦楽、ザビエル・ルルーに和声を師事するが、ミヨーは和声の成績がすこぶる悪かった。 |
| ある日ミヨーがルルーに自作のヴァイオリンソナタを見せたところ、ルルーは最初「和声が出来ない生徒がどうして作曲が出来るのか」と相手にしなかったが、ミヨーが自分の曲を弾き始めたところ、一小節目でルルーの顔色が変わった。 |
| そしてルルーはヴァイオリンの旋律を歌ったりピアノの高音部でなぞったりしながら最後まで曲を見て、そして一言-->「君は私のクラスで何をしているのかね?君は既に自分の和声語法を持っているのに、さらに因習的な和声を習おうとしているのか。 |
| クラスを去りたまえ」と言ったミヨー、前掲書、33-34ページ。 |
| ルルーのクラスを去った後、アンドレ・ジェダルジュに対位法、シャルル=マリー・ヴィドルに作曲を師事。 |
| ジェダルジュのクラスでは、ジャック・イベール、アルチュール・オネゲルと同期であり、ヴィドルのクラスではジェルメーヌ・タイユフェール、ジョルジュ・オーリックと知り合う。 |
| この頃、音楽を学ぶ一方でフランシス・ジャム、ポール・クローデルら文学者と親交を深め、彼らの作品をテキストとした歌劇や歌曲を作曲した。 |
| 特に外交官でもあった詩人クローデルとの友情は生涯を通じて続いた。 |
| 1914年に第一次世界大戦が始まると、健康上の理由で従軍は免れたが、戦争に関わる仕事を求めて「フランス・ベルキー親善協会」亡命者の受け入れや援助などを行うための組織。 |
| アンドレ・ジードも関わっていた。 |
| に勤務する。 |
| 同協会に務めていたミシア・ゴデブスキを通じて、ラヴェルの他、リカルド・ビニェス、エリック・サティ、レオン=ポール・ファルグなどが出入りしていたシーパ・ゴデブスキのサロンに顔を出すようになる。 |
| 1915年、バッハの小さな二重奏のカノンに異なる2つの調が同時に存在することを見出し、これをきっかけに複調性や多調性について根本的な研究にとりくむミヨー、前掲書、65ページ。 |
| この成果は「和声の変奏曲」の副題を持つ『コエフォール』となって現れた。 |
| 以後、複調性、多調性に基づくポリフォニーはミヨーの作風において重要な要素の一つとなる。 |
| 同年、フランス・ベルギー親善協会をやめ「新聞の家」で働き、新聞会館で再会したクローデルに誘われて外交官秘書となる。 |
| その後、ブラジル大使となったクローデルに随行し、1917年から1918年末までブラジルで生活する。 |
| クローデルとミヨーは1917年2月、カーニヴァル只中のリオデジャネイロに到着し、ミヨーはブラジル民謡特有のシンコペーションのリズムに強く惹きつけられた。 |
| ブラジル音楽の影響は、滞在中に作曲された『男とその欲望』や、帰国後の『ブラジルへの郷愁』、『屋根の上の牛』に現れている。 |
| 1918年末、連合国経済使節団のフランス代表となったクローデルに従ってアメリカまで同行し、そのままニューヨークを経由して1919年にフランスに帰国。 |
| 途中立ち寄ったプエルト・リコではギロを購入。 |
| 後の『屋根の上の牛』などで活用した。 |
| ミヨーがブラジルに滞在していた間、パリではバレエ・リュスの『パラード』の初演(1917年5月)がスキャンダルを引き起こし、ミヨーと既知のオネゲル、タイユフェール、オーリックなど若手作曲家は、エリック・サティ、ジャン・コクトーを中心として結集しつつあった。 |
| ブラジルから帰国したミヨーもその一員となり、彼らは毎週土曜日にミヨーの自宅に集まって友情を育んでいった。 |
| 彼らの作品には共通の作風は見られなかったが、歌手ジャーヌ・バトリが主宰するヴィユ・コロンビエ劇場や、モンパルナスの画家のアトリエを改造した「ユイガンス・ホール」(サル・ユイガンス)などで連続的に取り上げられ、1920年1月26日の『コメディア』紙におけるアンリ・コレの記事「ロシア5人組、フランス6人組、そしてエリック・サティ」をきっかけに、デュレ、オネゲル、ミヨー、タイユフェール、プーランク、オーリックは「フランス6人組」として知られるようになった。 |
| 1919年、ブラジルの思い出から『屋根の上の牛』を作曲するが、ジャン・コクトーによる前衛的な演出を加えて上演(1920年2月)されたため、ミヨーは聴衆や批評家から「滑稽な作品を書く作曲者」というレッテルを貼られた。 |
| 同年10月24日、12種類の調性が同時に鳴る部分を含む『交響組曲第2番』(付随音楽『プロテー』に基づく)がガブリエル・ピエルネ指揮コンセール・コロンヌによって初演されるが、聴衆の猛反発を招き、混乱した会場に警察や市警備隊が介入、新聞に「コンセール・コロンヌのスキャンダル」として報じられる事態となった。 |
| しかし、ミヨーは「熱狂でなくても強い抗議は作品によって刺激されている証拠ミヨー、前掲書、101ページ」であるとして自信を深めた。 |
| ミヨーの音楽は当時一世を風靡していたバレエ・リュスの主催者セルゲイ・ディアギレフには好まれず、『男とその欲望』もディアギレフの食指を動かすには至らなかったこの後、バレエ・リュスでは1924年に『青列車』で音楽を担当する。 |
| 翌年、バレエ・スエドワは、デュレを除くフランス6人組の合作によるバレエ『エッフェル塔の花嫁花婿』を上演した。 |
| 1920年に『屋根の上の牛』を指揮するためにロンドンに渡ったミヨーは、ここでビリー・アーノルド楽団が演奏する、「ダンス音楽」にとどまらない本格的なジャズに触れ、その魅力に目覚めたミヨー、前掲書、112ページ。 |
| 1922年に自作の曲の公演の為にアメリカ合衆国を訪問した際にはハーレムのジャズや黒人音楽を研究し、そのリズムや音色を活かした室内楽曲を作ろうと考えた。 |
| その成果が、アルト・サクソフォンを含む17人の奏者による『世界の創造』(1923年、バレエ・スエドワによって初演)であり、ジャズのイディオムを用いた作品としてはジョージ・ガーシュウィンの『ラプソディー・イン・ブルー』(1924年)よりも早いものであり、このジャンルの成功例となったただし、後にミヨーは1926年頃にはジャズへの関心を失う(ミヨー、前掲書、176ページ)。 |
| 1922年には合衆国への演奏旅行に引き続き、第一次世界大戦で途絶えていたオーストリアの音楽家たちとの交流を目的として、プーランクとともにウィーンのアルマ・マーラー宅を訪問。 |
| ここでアルノルト・シェーンベルク、アントン・ウェーベルン、アルバン・ベルクらと会う。 |
| アルマ・マーラー夫人の提案によりシェーンベルクとミヨーがそれぞれ『月に憑かれたピエロ』を指揮し、2通りの演奏の聴き比べが行われたミヨー、前掲書、130ページ。 |
| 1920年代後半から1930年代にはリウマチの進行に苦しみながらも創作が続けられた。 |
| この時期には劇音楽に加えて映画音楽も担当オネゲル、デゾルミエールと合作による『愛の騎士旅行』(1939年、邦題『第三の接吻』)の映画音楽は木管五重奏曲『ルネ王の暖炉』として再編され、このジャンルの主要レパートリーの一つとなっている、また、イダ・ジャンケレヴィッチとマルセル・メイエールのために作曲した『スカラムーシュ』(1937年)は人気作品となり、その楽譜は異例の売れ行きを示したミヨー、前掲書、235ページ。 |
| 1940年、ユダヤ人であったミヨーは、前年に始まった第二次世界大戦を避けるためにアメリカ合衆国に逃れる。 |
| 合衆国では、カリフォルニア州のミルス・カレッジで作曲を教えつつ対位法の技術を教えることの難しかった当時のアメリカの教育事情を考慮して、アンドレ・ジェダルジュのフーガの教程の英語版の出版に協力し、英語版序文を書いた訳出者は別。 |
| 現在はこの英語版は絶版。 |
| 、サンフランシスコ交響楽団、シカゴ交響楽団、ニューヨーク・フィルハーモニック、ボストン交響楽団などで客演指揮を行った。 |
| この中には、シカゴ交響楽団創立50周年のための委嘱作品『交響曲第1番』(1940年)や、クーセヴィツキー夫人ナタリーを追悼するためクーセヴィツキー財団による委嘱作品『交響曲第2番』(1944年)の初演が含まれる。 |
| また、楽譜出版社からの依頼により、吹奏楽のための『フランス組曲』(1945年)が作曲された。 |
| 1945年には歌劇『ボリヴァール』(シュペルヴィエル台本)を作曲。 |
| これまでに作曲していた歌劇『クリストフ・コロンブ』(1928年、クローデル台本)、歌劇『マクシミリアン』(1930年、ヴェルフェル他)と合わせ、「中南米三部作」と呼ばれる。 |
| 戦後、フランスに戻り、アンリ・ビュッセルの後任としてパリ音楽院の作曲家教授に任命されるが、ミルス・カレッジには1971年まで在職し、1年おきにフランスとアメリカを頻繁に行き来する生活を送った。 |
| 戦後の作品には、同時に演奏すると弦楽8重奏になる「弦楽四重奏曲第14番」と「第15番」(1948年-49年、ブダペスト弦楽四重奏団は同時録音を使って8重奏を初演した)、ミュージック・コンクレートによる『詩的練習曲』(1954年)、合唱、管弦楽に雑音を用いたカンタータ『紙とステロ板との結婚』(1956年)、奏者の自由な演奏による偶然性を狙った朗読と7つの楽器のための『4行詩の組曲』(1962年)などの新たな試みが見られる。 |
| 1956年、長年の友人であったオネゲルの死にショックを受け、追悼のために「弦楽五重奏曲第4番」(1.「死を悼む」2.「若き日の思い出」3.「長い友情の甘さ」4.「称賛の歌」)を作曲。 |
| また、オネゲルが務めていたフランス・ディスク・アカデミーの会長の後任となるミヨー、前掲書、294ページ。 |
| 1971年にミルス・カレッジを辞し(後任はルチアーノ・ベリオ)、あらたな創作の場としてジュネーブに暮らす。 |
| 80歳を超えても創作意欲は衰えなかったが、1974年6月22日、ジュネーヴで没する。 |
| 前年に作曲された木管五重奏曲が最後の作品となり、その作品番号は443であった。 |