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クチュルク
モンゴル高原東部の遊牧集団ナイマン部の王族。西遼の第4代皇帝(在位:1211年-1218年)。モンゴル帝国軍に敗れて殺害された。クチュルクの名は『遼史』では... |
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末主
末主(まっしゅ)は西夏の第10代の皇帝。廟号は無し。西夏最後の皇帝であるため末帝とも称される。 |
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耶律大石
西遼(カラ・キタイ)の創始者。太祖耶律阿保機の末子(第4子)である耶律牙里果の7世の孫に当たる。『集史』においては、تاشيطايفوTāshīṬāīfūと記される。遼... |
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耶律夷列
西遼の第2代の皇帝(在位:1150年-1163年)。第3代皇帝の末主・耶律直魯古(チルク)の父に当たる。 |
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アラーウッディーン・ムハンマド
ホラズム・シャー朝の第7代スルターン。第6代テキシュとテュルク系遊牧民カンクリ人の母との間に生まれ、1200年に没した父の後を継いで即位した。父の代に急... |
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徳宗
徳宗時代の失敗の教訓が活かされた結果とも言われる。 |
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宮尾すすむ
日本のタレント。本名は山口進(やまぐちすすむ)。 |
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サマルカンド
サマルカンド(;(Samarqand);(Samarqand))は中央アジア、ウズベキスタンの古都。アムダリヤ川の支流であるザラフシャン川河岸にあり、機械・化学・綿花・絹... |
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契丹
4世紀から14世紀にかけて、満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧の民族。10世紀初頭に現在の中国の北部に帝国を建国し、国号を遼と号した。しかし12世... |
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ジェベ
モンゴル帝国の初代皇帝(大ハーン)であるチンギス・カンの家臣。『元朝秘史』『元史』などの漢語表記では者別、哲別など、『集史』などのペルシア語資料で... |
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畠山重慶
鎌倉時代前期の僧。大夫阿闍梨重慶(たいふあじゃりちょうけい)。平姓畠山氏の一族。鎌倉幕府の御家人であった畠山重忠の末子。父重忠と兄重秀・重保ら一族... |
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ペドロ2世
ペドロ2世はブラジル帝国の第2代にして最後の皇帝ですw 初代ブラジル皇帝 ペドロ1世 と神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世の次女の 皇后 マリア・レオポルディー... |
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チンギス・カン
モンゴル帝国の初代皇帝(在位:1206年-1227年)。大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国北部・中央アジ... |
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ムハンマド
アッラーの決めたルールを人間に教えるために、たくさんの預言者が送られてきました。 最初の預言者は「アダム」です。そして、最後の預言者は「ムハンマド ... |
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平時実
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。桓武平氏高棟王流、権大納言・平時忠の長男。室の吉田経房女との間に時秀と一女がある。官位は従三位・左中将... |
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貞慶
鎌倉時代前期京都に生まれた法相宗の僧である。祖父は藤原通憲(信西)、父は藤原貞憲。号は解脱房。勅謚号は解脱上人。笠置寺上人とよばれた。 |
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横山時兼
平安時代末期、鎌倉時代前期の横山氏の武将。横山氏は横山庄に移る前は小野姓だったため、小野時兼とも言う。 |
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和田義盛
平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の御家人で、初代侍所別当。三浦義明の孫にあたる。従兄弟に三浦義村がいる。子に朝比奈義秀ほか。三浦氏の一... |
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ニケタス・コニアテス
東ローマ帝国・ニカイア帝国の政治家・歴史家。中世ギリシャ語読みではニキタス・ホニアテス。 |
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プロフィール
チルク(直魯古、?-1213年)は、西遼の第3代(最後)の皇帝(在位:1177年-1211年)。諡号がないため、西遼の 末主と呼ばれる。
略歴
| 1163年、父の夷列が若くして死去した時はまだ幼かったため、その後は夷列の姉・プスヤン(普速完)が継いだ。 |
| 1177年、伯母プスヤンが夫を惨殺し(夫の弟との不倫が原因といわれる)、さらに舅の蕭斡里剌によってこの義弟と共に殺害される。 |
| 蕭斡里剌は既に成人していたチルクの長兄・蛮王(名は不詳)を擁立したが、反対派がチルクを擁立し、蛮王と蕭斡里剌を殺害した。 |
| こうしてチルクが即位した。 |
| しかし、チルクは長兄を殺害したこともあって人望がなく、暗愚な人物で、属国であったホラズム・シャー朝やサマルカンドの西カラハン朝、天山ウイグル王国などに独立されるなど、西遼は次第に衰退の傾向を見せた。 |
| 特に1200年に即位したホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・ムハンマドは、ホラーサーン以西以南のイラン・アフガニスタン諸地域へ盛んに遠征と地方支配を行って国力を増強し、西遼の支配から独立を目指して、マーワラーアンナフルの西カラハン朝のウスマーンと連合し、反抗を企てた。 |
| 1208年に西遼が中央アジアに派遣した官吏が殺され、ホラズム・シャー朝とカラハン朝連合軍がシルダリヤ川を渡って西遼本国へ侵攻したが、西遼軍はこれの撃退に成功した。 |
| 一時はアラーウッディーンを捕縛している。 |
| 1208年、チンギス・ハーンに敗れて追われたナイマン族の王子クチュルクを庇護し、自身の女婿として迎えるなど厚遇して、チンギスの西征に備えようとした。 |
| しかし、1211年に体勢を立て直したアラーウッディーンとカラハン朝のウスマーンに再び反乱を起こされ、チルクはこれを討伐するため将軍ターヤンクー率いる遠征軍にサマルカンドを包囲させたが、西遼軍の不在の隙を突いてクチュルクもまた西遼本国で反乱を起こした。 |
| クチュルクは事前にアラーウッディーンと内通し、マーワラーアンナフル以西の地とパミール高原以東の西遼本国をアラーウッディーンと自らで分割することを決めていたのである。 |
| クチュルクはオトラル下流のウーズカンドにあったという西遼皇帝の宝庫を略奪し、さらに首都ベラサグンを狙った。 |
| チルクは自ら軍を率いてクチュルクの反乱軍を撃退したが、今度は首都ベラサグンでも住人たちがアラーウッディーンを君主として迎えるため反乱を起こし、自らの都を陥落させねばならなくなった。 |
| チルクはベラサグンを16日間の包囲の後に陥落させ、住民を虐殺して取り戻したものの、クチュルクから奪還した宝庫の財宝の処遇を巡って幕僚たちと不和になり、軍を散会するよう命じた。 |
| これが災いしてクチュルクの反撃を許し、チルクはクチュルクの軍に捕縛された。 |
| このクーデターによってチルクは実権を奪われた。 |
| この年はクーデターに前後して、東方の属国であった天山ウイグル王国も西遼を見限ってチンギス・ハーンのモンゴル帝国に帰順しており、西遼は耶律大石直系の君主に加え、ホラズム・シャー朝、カラハン朝、天山ウイグル王国という主要な3つの属国を完全に失った。 |
| 1213年に死去するまで、クチュルクは岳父のチルク夫妻を傀儡としての皇帝として戴いていたが、西遼は実質的にはクチュルクの簒奪によって滅亡してしまったのである。 |
『遼史』の記述
| 『遼史』(巻三十本紀第三十)には、「仁宗次子直魯古即位,改元天禧,在位三十四年。 |
| 時秋出獵,乃蠻王屈出律以伏兵八千擒之,而據其位。 |
| 遂襲遼衣冠,尊直魯古為太上皇,皇后為皇太后,朝夕問起居,以侍終焉。 |
| 直魯古死,遼。 |
参考文献
| ドーソン著(佐口透訳注)『モンゴル帝国史1』(東洋文庫110)平凡社 1968年.pp.140-146,pp.156-159.。 |
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1163年
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父の夷列が若くして死去した時はまだ幼かった... |
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1200年
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即位したホラズム・シャー朝のアラーウッディ... |
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