| 1994年から男子テニス国別対抗戦・デビスカップのイギリス代表選手となり、ウィンブルドンにもデビューを果たす。 |
| 1994年4月に初来日し、東京・有明コロシアムの「ジャパン・オープン」3回戦でピート・サンプラスに挑戦し、2週間後に名古屋のトーナメントで日本の本村剛一に4-6,6-3,4-6で敗れたことがある。 |
| ティム・ヘンマンの名が広く知られるようになったのは、1996年のウィンブルドンからであった。 |
| この時ヘンマンは先の全仏オープンで優勝したばかりのエフゲニー・カフェルニコフ(ロシア)と1回戦で当たり、地元の声援の中でカフェルニコフを7-6,6-3,6-7,4-6,7-5で破った。 |
| その勢いに乗って初めての準々決勝に進んだが、アメリカのトッド・マーティンに6-7,6-7,4-6で敗れた。 |
| ウィンブルドン8強進出で一躍有名になった1996年は、アトランタ五輪でもイギリス代表選手として男子ダブルスの銀メダルを獲得し、全米オープンでもステファン・エドベリとの4回戦まで進出した。 |
| 翌1997年のウィンブルドンで、ヘンマンは4回戦で前年優勝者のリカルド・クライチェク(オランダ)を破って2年連続2度目のベスト8に入ったが、準々決勝で1991年の優勝者ミヒャエル・シュティヒ(ドイツ)に敗退した。 |
| この年はATPツアー大会でも、シングルスで4度決勝に進み、ツアー年間2勝を挙げた。 |
| その後、彼はウィンブルドンで4度の準決勝進出があったが、1998年と1999年は2年連続でピート・サンプラス、2001年はゴラン・イワニセビッチ、2002年はレイトン・ヒューイットに敗れ、いずれも決勝進出はならなかった。 |
| ティム・ヘンマンは従来サーブ・アンド・ボレー主体で、球足の速い芝生コートのスペシャリストの印象が強く、球足の遅いクレーコートや、ハードコートにおける戦績はいまひとつであった。 |
| しかし2004年、ヘンマンは30歳にして初めて全仏オープンと全米オープンの準決勝に進出した。 |
| 全仏準決勝ではアルゼンチンのギレルモ・コリアに6-3,4-6,0-6,5-7で、全米準決勝ではロジャー・フェデラーに3-6,4-6,4-6で敗れたが、両大会ではサーブ・アンド・ボレーのみに頼らない、オールマイティな力を示し、どんなサーフェスでも活躍できる実力を備えていることを証明した。 |
| ウィンブルドンでは、準々決勝でクロアチアのマリオ・アンチッチに敗れている。 |
| しかし、2005年以降はウィンブルドンでの成績も下降する。 |
| それまで彼は9年連続で4回戦以上に進出していたが、2005年のウィンブルドンでは2回戦でドミトリー・ツルスノフ(ロシア)に敗退してしまう。 |
| 2006年の大会では、2回戦で第1シードのロジャー・フェデラーと顔を合わせた。 |
| 2006年の「ジャパン・オープン」で、ヘンマンは2年半ぶりに男子ツアー大会の決勝に進んだが、フェデラーに3-6,3-6で完敗して準優勝に終わり、これが彼の最後の男子ツアー大会決勝戦になった。 |
| 2007年8月23日、ヘンマンはデビスカップ「ワールドグループ・プレーオフ」の対クロアチア戦(9月21日-23日)を最後に現役引退することを表明した。 |
| 現役最後の年、ウィンブルドンは2回戦でフェリシアーノ・ロペス(スペイン)に敗れ、全米オープン2回戦でジョー=ウィルフリード・ツォンガ(フランス)に6-7,6-2,5-7,4-6で敗れた試合が、ヘンマンの4大大会最後の試合になった。 |
| 現役最後の舞台に選んだデビスカップのクロアチア戦で、ヘンマンはシングルス第2試合と、ジェイミー・マレーと組んだダブルス戦の2試合に勝利を収め、イギリス・チームは2008年度の「ワールドグループ」復帰を決めた。 |
| 地元イギリスではフレッド・ペリーが1936年にウィンブルドンで優勝して以来のイギリス人男子シングルス優勝者を待ち望んでおり、ヘンマンに大きな期待を寄せてきた。 |
| そのため“ヘンマニア”と呼ばれる過激な地元ファンが登場し、ウィンブルドンの1番コート近くの大型モニター前は、彼の試合会場に入れなかった“ヘンマニア”たちが詰め掛けて応援することから“ヘンマン・ヒル”と呼ばれるようになるなど、ウィンブルドンでのヘンマンの活躍はイギリスのテニス界に大きなブームを生んだ。 |
| しかし、近年の男子テニス界ではサービス・リターンの技術が著しく向上し、もともとサービスがさほど強くないヘンマンにとっては、次第にファンの期待に沿える活躍が難しくなっていった。 |