| 1942年にはアヴェリーはMGMの従業員となっており、フレッド・クインビー(FredQuimby)指揮下のカートゥーン部門で働いた。 |
| シュレジンガーの下で窒息しそうな気分になっていたアヴェリーはMGM在籍時に創作力を爆発させた。 |
| 彼のカートゥーンはペースの早さと気の狂ったようなナンセンスなギャグ、およびアニメーションや映画という媒体自体を使った遊びや楽屋落ちなどで有名となった。 |
| MGMはアヴェリーにワーナー時代以上の予算を与えよりクオリティの高い映画を求めた。 |
| こうした環境の変化は彼のMGM時代最初の短編映画『TheBlitzWolf』(『うそつき狼』)に明らかである。 |
| アドルフ・ヒトラーに対する風刺であったこの映画は1942年のアカデミー賞の短編アニメーション部門にノミネートされた。 |
| アヴェリーのMGM時代におけるもっとも有名なキャラクター、ドルーピー(DroopyDog)は1943年の『Dumbhounded』(『つかまるのはごめん』)で登場した。 |
| 当時「ハッピー・ハウンド」と呼ばれていたこの犬は、アヴェリーの登場キャラクターには少ない、物静かでしゃべり方も歩き方ものっそりとしたキャラクターだった。 |
| またアヴェリーは同時にきわどいキャラクターも作り出している。 |
| 1943年の『RedHotRidingHood』(『「おかしな赤頭巾」』)には、赤ずきん(RedRidingHood)の代わりにピンナップガールのようにセクシーなナイトクラブの女性が登場し、当時の少年たち(未来のアニメーターたちも含む)の心に性的トラウマを残した。 |
| その他、凶暴な「人の悪いリス」(Screwball"Screwy"Squirrel)、『二十日鼠と人間』にインスパイアされた「デカ吉チビ助」(GeorgeandJunior)の二人組などのキャラクターが生まれている。 |
| アヴェリーがMGMで手がけた有名な作品には『BadLuckBlackie』(呪いの黒猫)、『MagicalMaestro』(へんてこなオペラ)、『LuckyDucky』(ウルトラ子がも)、『King-SizeCanary』(太りっこ競争)などがある。 |
| MGM在籍当初は豊かな色彩とリアルな背景を作品の特徴としていたアヴェリーは、しだいにこれらを捨ててリアリズムから離れたより狂的なスタイルをとるようになった。 |
| 彼の新しいスタイリッシュな映像は、後にリミテッド・アニメーションを生むユナイテッド・プロダクション・オブ・アメリカ(UPA、UnitedProductionsofAmerica)に影響を与えた。 |
| 動きや背景や色彩のリアルさがそぎ落とされていった背景には、カートゥーンの予算が高まるにつれコスト削減の必要も高まったことがあるほか、アヴェリー自身が実写映画のリアリティに基づかないアニメーション表現を求めていたこともある。 |
| 技術の進んだ未来を予測した当時の短編ニュース映画を風刺した「未来シリーズ」の諸作品、『TheHouseofTomorrow』(こんなお家は)、『CarofTomorrow』(ステキな自動車)、『TVofTomorrow』(うらやましいテレビ)はこの時期に作られた。 |
| またゆっくりしたしゃべり方をする狼のキャラクターは、MGM出身のハンナ・バーベラ・プロダクションのキャラクター「HuckleberryHound」(珍犬ハックル)の原型となった。 |
| アヴェリーは1950年に1年間の休暇年度をとったが、この間にウォルター・ランツ・スタジオから移ったディック・ランディー(DickLundy)がアヴェリーの制作班を引き継ぎドルーピーの短編を作った。 |
| アヴェリーは1951年秋のスタジオ復帰後、『DEPUTYDROOPY』(呼べど叫べど)、『CELLBOUND』(逃げてはみたけど)の二本を作り、1953年に完成させた(公開は1955年)。 |
| これらはのちの彼の作品同様、アヴェリーの班にいたアニメーター、マイケル・ラー(MichaelLah)との共同監督作品であった。 |
| ラーは以後、ドルーピーシリーズのシネマスコープ映画を多数監督する。 |
| 燃え尽きたアヴェリーは1953年にMGMを退社してウォルター・ランツ・スタジオに戻った。 |
| アヴェリーの元には有能なスタッフが集い、アヴェリー作品にとっては欠かせない存在であった。 |
| 1949年に公開された「呪いの黒猫」までの前期作品では主にプレストン・ブレアをはじめ、レイ・エイブラムズ、エド・ラブの「3人組」がアニメータとしてアヴェリーを補佐した。 |
| うちブレアはアヴェリーの片腕的な存在で、赤ずきんのパロディー的な作品に登場する美女などを生み出すのに貢献した。 |
| 1946年からは「3人組」にウォルター・クリントンが加わった。 |
| 1948年にブレアがハンナ=バーベラ側のアニメータであったマイケル・ラーとともに新ユニットを結成し、クマのバーニー作品の製作を指揮するようになると、エイブラムズもブレアとラーの班に配属替えとなり、ラブもMGMを退社したためにアヴェリーを支え続けた「3人組」は解散したが、アヴェリーの班には新たにグラント・シモンズが配属され、ウォルター・ランツとの掛け持ちであったロバート・ベントレーらが補佐する体勢となった。 |
| この頃、脚本を担当していたヘック・アレンもMGMを去り、リッチ・ホーガンらが後を担うことになる(アレンは後に復帰)。 |
| そんなブレアとラーの班が3作品という短命に終わると、エイブラムズはMGMを去るが、ブレアはそのままアヴェリーの班に復帰する。 |
| しかし、1949年に公開された「チャンピオン誕生」を最後にブレアもMGMを去ってしまうが、この作品からラーがアヴェリーの班に加わり、クリントンとシモンズともに再び「3人組」が結成される。 |
| その新「3人組」をベントレーとハンナ=バーベラ班との掛け持ちであったレイ・パターソンらで補佐する体制となる。 |
| トムとジェリーの真ん中で公開された作品の大半は「チャンピオン誕生」以降の後期作品であり、新「3人組」体勢以降は驚異的なペースで作品が量産され、前期作品を踏襲しつつもドルーピーをはじめブルドッグのスパイク、口笛を吹くオオカミなど個性的なキャラクター・作品が数多く生み出される。 |
| それらの作品のほか、アヴェリーが1950年に1年間MGMから離れている間にディック・ランディーにより再びクマのバーニー作品が製作されたが、それらも新「3人組」をはじめとするアヴェリーの班が担っていた。 |
| アヴェリーが1953年にMGMを去ると、シモンズとクリントンもMGMを退社し、数多くの傑作を世に送り出したアヴェリーのアニメーション製作班も解散となった。 |
| MGMの経費削減策により、以後はハンナ=バーベラの班に一本化された。 |
| なお、MGMに残ったラーがハンナ=バーベラのプロデュースの元でアヴェリーの流れを汲むドルーピー作品を手がけ、MGMがアニメーション製作部門を閉鎖する1957年までに6本製作された。 |