| ;4つの異なる州選手権制覇。 |
| 引退後は現役時代に開業したアイスクリーム屋で働いていたが、1967年にフルミネンセFCのジュブナイル(16歳以下のカテゴリー)チームの監督に就任し、リオデジャネイロ州大会で優勝を果たしたサンタナ1998、129頁。 |
| 1968年にはジュニアチーム(16~20歳のカテゴリー)の監督として州大会優勝を決めた。 |
| 1969年にはトップチームの監督に昇格し、プロチームの監督として初めて臨んだリオデジャネイロ州選手権優勝を果たした。 |
| 1970年にアトレチコ・ミネイロ監督に就任すると、5年間優勝から見放されていたミナスジェライス州選手権のタイトルを獲得し、翌年には全国選手権・セリエA(1部)優勝を成し遂げた。 |
| その後サンパウロFCで短期間監督を務めた後、アトレチコ・ミネイロ監督に復帰し、1976年にはグレミオ監督に就任してリオ・グランデ・ド・スル州選手権優勝を果たした。 |
| 1979年にはパルメイラスでサンパウロ州選手権を制し、パルメイラスには1980年末まで在籍した。 |
| ;2度のブラジル代表監督就任。 |
| 1980年末にブラジル代表監督就任を打診され、これを引き受けた。 |
| マラカナン・スタジアム創立30周年記念のソビエト連邦戦には敗れたが、ムンディアリート(FIFAワールドカップ50周年記念国際親善試合)ではアルゼンチンと西ドイツから勝ち点4を奪うまずまずの結果を残した。 |
| 1982FIFAワールドカップ本大会前のブラジル代表は黄金のカルテット(ジーコ、トニーニョ・セレーゾ、ファルカン、ソクラテス)やレアンドロなどのスター選手を抱え、優勝候補の呼び名も高かったサンタナ1998、29頁。 |
| グループリーグ初戦ではやはり優勝候補の一角に挙げられていたソビエト連邦に2-1で勝利し、スコットランドとニュージーランドにはそれぞれ4得点ずつを奪って快勝したサンタナ1998、36頁。 |
| 2次リーグでは前回大会優勝のアルゼンチンに3-1で勝利したが、イタリア戦ではFWパオロ・ロッシやGKディノ・ゾフの活躍を許して勝利を逃したサンタナ1998、38頁。 |
| スポーツ史においてもっとも記憶に残る試合のひとつとなったイタリア戦に敗れて決勝進出はならなかったが、1970FIFAワールドカップのブラジル代表に匹敵すると言われるほどの西部謙司『ワールドクラスサッカー戦術の軌跡』、大和書房、2010年、34頁スペクタクルなサッカーを見せたブラジル代表は世界中から称賛され、FIFAから第1回フェアプレー賞を贈られサンタナ1998、39頁、メンバーの多くは大会後にヨーロッパのクラブへと羽ばたいた。 |
| 1983年にはサウジアラビアのアル・アハリ監督に就任し、サウジ・プレミアリーグ優勝、キングス・カップ優勝、ガルフ・クラブ・チャンピオンズカップ優勝(いずれもクラブにとって初タイトル)を果たしたサンタナ1998、132頁。 |
| 1985年にブラジル代表のエヴァリスト・デ・マセド監督が辞任し、サンターナが急遽代表監督に就任したサンタナ1998、40頁。 |
| ジーコやトニーニョ・セレーゾの負傷、レナト・ガウショらの合宿所抜け出し騒動など問題が山積していたが矢持善和『サッカー「王国」ブラジル–ペレ、ジーコからロナウジーニョまで』、東洋書店、2006年、118頁、衰えの色が見えたファルカンをメンバーから外し、A代表歴のなかったジョジマールなどの若手を何人か加えて大会に臨んだサンタナ1998、42頁。 |
| グループリーグ1戦目のスペイン戦と2戦目のアルジェリア戦はともに1-0の辛勝だったが、3戦目の北アイルランド戦はジョジマールの代表初得点などで快勝し、決勝トーナメントに進んだ。 |
| ベスト8を決定するポーランド戦には4-0で勝利したが、準決勝のフランス戦では試合中にジーコがPKを外し、1-1の引き分けの末にもつれ込んだPK戦で敗退が決まった。 |
| ブラジル代表では2期合わせて53試合を指揮し、38勝10分5敗の成績を残した。 |
| 南米勢とは22戦して15勝6分1敗、ヨーロッパ勢とは28戦して20勝4分4敗と、両者から等しく勝ち星を挙げた。 |
| 1988年にアトレチコ・ミネイロ監督に復帰すると、再び全国選手権優勝を果たした。 |
| 1989年から2年間はパルメイラスの監督を務めたが、1990年秋に辞任した。 |
| ;サンパウロFCの全盛期創成。 |
| 1990年にサンパウロFC監督に3カ月の短期契約で就任すると、低迷していた名門に黄金期をもたらしたサンタナ1998、133頁。 |
| 就任当初のサンパウロFCはセリエB(2部)の中位をさまよっていたが、すぐにセリエA(1部)に引き上げて契約延長を果たした。 |
| 評価の低かったライーを急成長させ、デニウソンなど下部組織出身の若手を多数トップチームに抜擢してチーム強化を図った。 |
| 1991年にはサンパウロ州選手権で優勝し、セリエAとの2冠を達成した。 |
| 1992年のコパ・リベルタドーレス決勝ではアルゼンチンのニューウェルス・オールドボーイズをPK戦の末に破り、ブラジル勢として5クラブ目・ブラジル勢として10年ぶりとなる優勝を果たした。 |
| 初出場同士の対戦となったトヨタカップ・FCバルセロナ戦では0-1と先制されたが、チームの精神的な支柱であるライーの2得点で逆転勝利した。 |
| 1993年のコパ・リベルタドーレスでは38歳のトニーニョ・セレーゾが中盤に君臨してウルグアイのウニベルシダ・カトリカを倒して大会2連覇を果たし、トヨタカップでは同大会で負けたことがなかったACミランを倒して2年連続で世界王者の称号を手にした。 |
| サンパウロFCではセリエAや州選手権、コパ・リベルタドーレス、トヨタカップのタイトルのほかに、コパCONMEBOL、スーペルコパ・スダメリカーナ、レコパ・スダメリカーナ、ラモン・デ・カランサ杯、テレサ・エレーラ杯などで優勝し、コパ・ド・ブラジル以外の主要タイトルを総なめにした。 |
| サンパウロFC在籍時には日本代表監督就任のオファーを受けたが、サンパウロFCが最高の時期にあったことなどからオファーを断ったサンタナ1998、154頁。 |
| ヘビースモーカーであり糖尿病を患っていたが、1996年に脳梗塞を患い、指導者生活を断念した。 |