| 1924年にベルリン大学神学部に入学。 |
| 1927年(21歳)、学位論文「聖徒の交わり」(CommunioSanctorum)により最優等の成績でベルリン大学より神学博士号取得。 |
| 翌1928年には、バルセロナで副牧師(牧師補)となる。 |
| 1929年には、ベルリン大学助手。 |
| 1930年から1931年にかけてアメリカ合衆国に留学し、ニューヨークのユニオン神学校のラインホルド・ニーバーの元で学んだ。 |
| このアメリカ滞在中に、ハーレムのアフリカン・メソジスト・エピスコパル教会の共同体と接触する機会があり、アフリカ系アメリカ人に対する差別の問題に直面する。 |
| マハトマ・ガンディーの思想からの影響と共に、アメリカでの経験が福音の社会的側面に対してボンヘッファーの眼を開かせ、神学者として出発した彼が、その後キリスト者として、やがて同時代人として生きることを選ぶ一つの契機となったと考えられる。 |
| 1931年に帰国後、ベルリン大学講師となる。 |
| 1933年1月30日にヒトラーが宰相に就任。 |
| ナチスの政権取得直後、ボンヘッファーはラジオ放送でナチスの「指導者原理」を露骨に批判したが、放送は突然中断された。 |
| 同年7月には、ユダヤ人の公職からの追放を目的とした「アーリア条項」が制定される。 |
| その後、秋までには「ドイツ的キリスト者」(DeutschenChristen)と呼ばれるナチスの追随者がドイツのプロテスタント教会で支配的になるが、こうした動きに対抗し、9月21日、ボンヘッファーはマルティン・ニーメラーらと牧師緊急同盟を結成。 |
| これが後の告白教会(BekennendeKirche)に繋がる。 |
| ただし、アーリア条項に反対した当時の他の教会指導者たちとボンヘッファーが全く同一の考えを持っていたわけではない。 |
| 他の指導者たちにとって、反対すべき主要な理由は、教会の自由が侵害されるという点であったが、ボンヘッファーは問題の重大性をはるかに深く認識していた。 |
| 同年、ロンドンのドイツ人教会の牧師に着任し、教会闘争において最も親しい友人となる世界教会会議議長チチェスターの主教ジョージ・ベルに出会う。 |
| 1934年4月22日告白教会結成。 |
| 5月末には第1回全国告白教会総会が開かれ、6月にはカール・バルト起草による「バルメン宣言」が全会一致で可決された。 |
| 同年4月、ロンドンから戻り、告白教会による非合法の牧師養成所(後にフィンケンヴァルデに移る)の所長となる。 |
| ただし、ナチズムとの妥協を図ろうとする穏健派が告白教会内でも多数派であり、こうした思想的相違から、告白教会内でのボンヘッファーの影響は大きくなかった。 |
| この頃、後の婚約者マリア・フォン・ヴェーデマイヤーと知り合っている。 |
| 1936年8月に、ナチスに対する反対により、ベルリン大学から解任される。 |
| 1937年7月1日、マルティン・ニーメラー逮捕。 |
| 同年9月、フィンケンヴァルデの牧師養成所がゲシュタポにより閉鎖される。 |
| 1939年6月2日にニューヨークに向けて出発。 |
| アメリカではニーバーらがボンヘッファー亡命のための準備を整えていた。 |
| しかし、わずか1か月後にはドイツに帰国することを決断する。 |
| 1939年、ドイツ軍諜報部内のヒトラー暗殺計画に参加。 |
| ボンヘッファーの役割は、グループの精神的支柱となることのほかに、各国のエキュメニズムとの連絡、連合国側への情報提供、及び和平交渉であった。 |
| 1943年1月に、マリア・フォン・ヴェーデマイヤーと婚約。 |
| しかし、数か月後の4月5日に、ユダヤ人の亡命を援助したことにより逮捕。 |
| 1944年7月20日、ヒトラー暗殺は失敗に終わり、暗殺計画の首謀者の一人クラウス・フォン・シュタウフェンベルクは処刑、暗殺グループに関わっていた兄クラウス、義兄リューディガー・シュライヒャーも逮捕される。 |
| 1945年4月にヒトラー暗殺計画の一員であったヴィルヘルム・フランツ・カナリス提督の日記からボンヘッファーの関与が発覚。 |
| わずか数日後の4月8日、ボンヘッファーはフロッセンビュルク強制収容所へ移送されて死刑判決を受け、翌日絞首刑に処された。 |
| 同日には、義兄ハンス・フォン・ドホナーニも処刑されたとされる。 |
| 兄クラウス、義兄リューディガー・シュライヒャーも4月23日にベルリンで銃殺された。 |
| ボンヘッファーが刑死したわずか3週間後にヒトラーは自殺した。 |