| イタリア系のアメリカ人で、出生時の名前はDinoPaulCrocettiである。 |
| イタリア系移民の子であったので幼少のときは英語が話せずイタリア語を話していた。 |
| 高校を中退し、ヤミ酒場(禁酒法時代1920~1933当時:ディノ15歳の時で密輸酒などの運び役などをしながら棍棒セールスマンとして製鉄所に勤めていた。 |
| さらに少年時代から酒場に出入りしていたことから15歳よりウェルター級ボクサーとして懸賞試合でボクシングをしていた。 |
| その時のリングネームは『キッド・クロセッティ』である。 |
| そのボクシングの試合で鼻を負傷しボクサーを引退する。 |
| その後、バーの用心棒や違法ルーレットカジノのディーラーや元締めなどをして勤めていた。 |
| ショウ・ビジネスへの活動の始まりとしては、1940年代初頭にクラブまわりをしていたサミー・アトキンス率いるバンドと知り合い専属歌手となる。 |
| 当初の歌い出としては当時の流行歌手ビング・クロスビーやミルス・ブラザーズの歌唱スタイルを真似たものであった。 |
| その時に名前を本名ディノ・クロセッティ(DinoCrocetti)から最初の名前ディノ・マルティーニ(DinoMartini)と変えている。 |
| その後バンド活動中にサミー・アトキンスからイタリア風の名前から英語風のものに変えることをすすめられ名前をディーン・マーティンと改名する。 |
| そしてクラブ歌手として活動中の1946年、アトランティック・シティのクラブで解雇寸前の窮地に立たされた時、偶然ナイトクラブで歌っていたニューヨークで出会った9歳下の無名コメディアン、ジェリー・ルイスと即興でコンビ(MartinandLewis日本での名称は「底抜けコンビ」)を組み人気が沸騰、それがハル・B・ウォリスの目に止まりコンビで映画「底抜けシリーズ」(パラマウント映画、1949年-1956年)に出演して、世界的スターになった。 |
| 1952年にはおなじパラマウント社の人気シリーズ「珍道中シリーズ」(主演ビング・クロスビー、ボブ・ホープ、ドロシー・ラムーア)にも、同コンビでゲストで乱入している(『バリ島珍道中』(''RoadtoBali''、監督ハル・ウォーカー)。 |
| 1956年にコンビを解消してからは、シナトラ一家、いわゆるラット・パックの主要メンバーとして、フランク・シナトラ、サミー・デイヴィス・ジュニア、ピーター・ローフォード、ジョーイ・ビショップとともに活動した。 |
| 映画では主に西部劇、自身の歌もまじえたロマンチック・コメディーなど娯楽映画を中心に多数出演し、1950年代~60年代を代表するマネーメーキングスターの地位を築いた。 |
| 主な代表作にエドワード・ドミトリク監督の『若き獅子たち』(1958年)、ハワード・ホークス監督の『リオ・ブラボー』(1959年、ヴィンセント・ミネリ監督の『走り来る人々』(1958年、『ベルは鳴っている』(1960年、ビリー・ワイルダー監督の『ねえ!キスしてよ』(1964年などがある。 |
| そして1964年からはドナルド・ハミルトン(DonaldHamilton)原作のスパイ小説を基にした映画『サイレンサー』シリーズの全4作に主演、原作のハードボイルドでシリアスな展開とは違いプレイボーイでユーモア溢れるスパイ、マット・ヘルムを演じ、また折からの60年代スパイ映画ブームに乗り同時期に人気絶頂だった『007』シリーズの亜流作品としても話題となった。 |
| 後年は『大空港』の副操縦士役など演技派としても知られた。 |
| 歌手としても有名で、レコーディングキャリアの本格的な始まりは1948年『マーティン&ルイス』として『底抜け』シリーズ(パラマウント映画の主題歌(''TheCertainParty'')をキャピトル・レーベルで吹き込んだのを皮切りに、同年キャピトル・レコードと契約し1961年まで在籍、その後フランク・シナトラがリプリーズ・レコードを設立するにともない彼の誘いで1962年にリプリーズに移籍し1980年までにスイング、ラテン、カントリー、R&B、ポップスなどあらゆるジャンルの曲を歌いこなし、多数のアルバム、シングルを残している。 |
| 主な代表曲に『誰かが誰かを愛してる』(''EverybodyLovesSomebody'')、『ザッツ・アモーレ』(''That'sAmore'')、『イナモラータ』(''Innamorata)''、『ヴォラーレ』(''Volare'')、『思い出はかくのごとし』(''MemoriesAreMadeofThis'')、『キング・オブ・ザ・ロード』(''KingoftheRoad''、グラミー賞受賞曲)などのヒット曲がある。 |
| NBCのテレビ番組『ディーン・マーティン・ショー』''TheDeanMartinShow''、1965~1978)のホストとしても活躍した。 |
| またラスベガスでのショーやステージ活動も1987年まで精力的に行っていた。 |
| 私生活では、最初の妻ベティ・マクドナルドとの間に4人(1男3女)、2番目の妻ジーン・ビーガーとの間に3人(2男1女)の子供をもうけた。 |
| 3番目の妻キャサリン・メイホーンとは結婚後わずか3年で離婚している。 |
| 晩年は、息子で俳優のディーン・ポール・マーティン(DeanPaulMartin)が飛行機事故死したり(1987年3月21日、没年35歳)、長年の不摂生がたたり体調を崩すなどが原因で、キャリアに対する意欲を失うなど波乱が多かった。 |
| 1988年には盟友フランク・シナトラからサミー・デイヴィス・ジュニアとの巡業に誘われたものの、リハーサルに遅れてきたり途中で帰ってしまったことから、シナトラが激怒、結局、巡業先のシカゴでリタイヤ、けんか別れしてしまう(その後、ディーンの代役はライザ・ミネリがつとめた)。 |
| 30年に渡って共に仕事をしてきたシナトラとディーンは、その後再び同じステージに立つことはなかったという。 |
| 1995年12月25日、カリフォルニア州ロサンゼルス郡ビヴァリーヒルズで、肺癌に併発した肺気腫により死去 |
| 彼の死は、盟友フランク・シナトラにも大きな衝撃を与えた。 |
| シナトラはマスコミに以下のコメントを発表している。 |
| 「友が逝ってしまった。 |
| 長い年月共に仕事をしてきた親友が、彼とは血はつながっていないが兄弟だった。 |
| ディーンはいつまでも私の心の奥深くに生き続ける。 |