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つながりの強いひと
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カール14世ヨハン
夫 先祖
ベルナドッテ王朝初代のスウェーデン国王およびノルウェー国王(在位:1818年-1844年)。ノルウェー国王としての名はカール3世ヨハン。フランス革命・ナポレ... |
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ナポレオン・ボナパルト
革命期フランスの軍人・政治家、そしてフランス第一帝政の皇帝ナポレオン1世(、在位:1804年-1814年、1815年)。フランス革命後の混乱を収拾して軍事独裁政... |
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オスカル1世
ベルナドッテ王朝第2代のスウェーデン国王およびノルウェー国王(在位:1844年-1859年)。 |
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ジョゼフ・ボナパルト
ナポレオン・ボナパルトの兄である。ナポリ王としてはジュゼッペ・ボナパルテ(GiuseppeBonaparte,在位:1806年-1808年)、スペイン王としてはホセ1世(JoséI... |
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ジュリー・クラリー
ジョゼフ・ボナパルトの妻である。妹はスウェーデン王カール14世ヨハン(ジャン=バティスト・ベルナドット)の妃デジレ・クラリー。マルセイユの裕福な絹商... |
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カール13世
ホルシュタイン=ゴットルプ朝最後のスウェーデン王(在位:1809年-1818年)。ノルウェー王としてはカール2世(在位:1814年-1818年)。アドルフ・フレドリク... |
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ライト兄弟
アメリカ出身の飛行機の発明者で世界初の飛行機パイロット。世界最先端のグライダーパイロットでもあった。自転車屋をしながら兄弟で研究を続け、1903年に飛... |
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ルイ16世
ブルボン朝第5代のフランス国王およびナバラ国王(在位:1774年5月10日-1792年8月10日)。ルイ15世の孫。王妃は神聖ローマ皇帝フランツ1世と皇后マリア・テレ... |
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チャールズ・ディケンズ
イギリスのヴィクトリア朝を代表する小説家。ポーツマスの郊外に生まれた。年少時より働きに出され、新聞記者を勤めるかたわらに、作品集『ボズのスケッチ集... |
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藤江れいな
日本のアイドルであり、女性アイドルグループAKB48チームKのメンバーである。千葉県出身。イトーカンパニー所属。 |
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ルイ14世
ブルボン朝第3代のフランス国王(在位:1643年5月14日-1715年9月1日)。ルイ13世の長子。妃はスペイン国王フェリペ4世の娘マリー・テレーズ(マリア・テレサ... |
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アンヌ・ドートリッシュ
4歳で即位したルイ14世の摂政となり、ジュール・マザラン枢機卿とともに息子の代わりに政治を執った。マザランとは極秘結婚をしたと言われるほどに親密であっ... |
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井伊直弼
幕末の大名。近江彦根藩の第15代藩主。幕末期の江戸幕府にて大老を務め、日米修好通商条約に調印し、日本の開国近代化を断行した。また、強権をもって国内の... |
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ナポレオン2世
ナポレオン・ボナパルトの長男。ローマ王、ライヒシュタット公。 |
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ジェローム・ボナパルト
ナポレオン・ボナパルトの3番目の弟(末弟)。フランスの傀儡国家ヴェストファーレン王国の国王(在位:1807年-1813年)。コルシカ島で生まれ、他の家族と違... |
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アレクサンドル1世
ロマノフ朝第10代ロシア皇帝(在位:1801年3月23日-1825年12月1日)、初代ポーランド立憲王国国王(在位:1815年6月9日-1825年12月1日)、初代フィンランド大... |
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ギヨーム1世
ノルマンディー公(在位:925年頃-942年)。剣術に秀で、ノルマン人風の短剣ではなくフランク人風の長剣を好んだことから「長剣公」(<spanlang="fr">Longue-... |
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マリア・ヴァレフスカ
ナポレオン1世の愛人として知られる人物。はじめはポーランドの名門貴族ヴァレフスキ伯爵の妻だった。 |
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ジョアシャン・ミュラ
フランスの軍人・元帥。後にナポレオン・ボナパルトの義弟となり皇族として遇され、ベルク大公位(在位1806年-1808年)、ナポリ王位に就いた(ジョアッキーノ... |
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プロフィール
- デジレ・クラリーとは
- ナポレオンの婚約者
- ベルナドットとの結婚
- スウェーデン王妃
- デジレ・クラリーを取り上げた作品
デジレ・クラリー(1777年11月8日-1860年12月17日)、全名ベルナルディーヌ・ウジェニー・デジレ・クラリー(BernardineEugénieDésiréeClary)、スウェーデン名デジデリア(DesideriaavSverige)は、ベルナドッテ王朝の始祖であるスウェーデン=ノルウェー王 カール14世ヨハンの王后、 オスカル1世の母、 ナポレオン・ボナパルトの元婚約者。フランス皇后になり損ねたがスウェーデン王妃になった女性、「ナポレオンの永遠の恋人」と言われている。
ナポレオンの婚約者
| デジレは1777年、マルセイユの裕福な商家であったクラリー家の末娘として生を受ける。 |
| 1792年、ボナパルト家がマルセイユにやってくると、ナポレオンの兄ジョゼフ・ボナパルトとデジレの姉マリー・ジュリーの間で縁談がまとまった。 |
| デジレとナポレオンはこの時知り合ったと見られる。 |
| 以来デジレはナポレオンの婚約者として振舞ったものの、ジョゼフとマリーの結婚ではクラリー家の持ち出しがかなり多かったらしく(ボナパルト家はコルシカ島を着の身着のまま追い出されたような形で、当時無一文に近かった)、これ以上ボナパルト家にくれてやるものは無いと、デジレの父親の反対は大きかったらしい。 |
| 1793年、ナポレオンはトゥーロン攻略戦で武名をあげる事に成功するも、デジレが若すぎた事もあり、この時の結婚は無かった。 |
| さらに翌1794年、テルミドールのクーデターでナポレオンが連座して逮捕されるが、1795年パリで王党派によるヴァンデミエールの反乱が起こると、総裁バラスの副官に抜擢されたナポレオンは、兵力の劣勢にもかかわらずこれをまたたく間に鎮圧。 |
| 一躍「ヴァンデミエール将軍」として祭り上げられる。 |
| ナポレオンと後のフランス皇后となるジョゼフィーヌ・ド・ボアルネとはこの頃知り合ったと思われる。 |
| デジレとナポレオンはマルセイユとパリの間で恋文を交換するが、ナポレオンからの返事は次第に途絶えがちとなり、翌1796年、デジレに対し何の報告も無いままナポレオンはジョゼフィーヌと結婚。 |
| デジレにとっては婚約を反故にされた形となった。 |
ベルナドットとの結婚
| その後、出会いは明らかではないが1798年、デジレはフランス陸軍の将軍でナポレオンのライバル、ジャン=バティスト・ジュール・ベルナドットと結婚する。 |
| この結婚により、ベルナドットはクラリー家を通してボナパルト家の間接的な姻戚となったわけである。 |
| この背景には、ナポレオンの兄弟たちが、有能で民衆の人気もあったベルナドットをなんとか味方に引き入れようと、密かにふたりが惹かれあうように演出したのではないかという説もあり、実際に翌1799年、ナポレオンがブリュメールのクーデタを起こして政権を奪取した際には、ベルナドットは中立の立場を取ってクーデタを静観している。 |
| ともあれ、ふたりは同じ1799年に一男オスカルを儲けている。 |
| しかし、姻戚関係になったからといってベルナドットのナポレオンに対するライバル意識は消えたわけではなく、またジャコバン派であるがゆえに彼はナポレオンの権力志向に対してあからさまな嫌悪感を抱き続けていた。 |
| それでもナポレオンにとっては、終生デジレに対して婚約を反故にしたという負い目が消えなかったらしく、ベルナドットが1800年に第二次イタリア遠征時のマレンゴの戦いの前後に新政権を狙った際も、事を穏便に済ました。 |
| その後、フランス第一帝政下ではこれといった軍事的功績もないまま、ベルナドットを陸軍元帥に推挙し、ポンテコルヴォ大公に封じている。 |
| イエナ・アウエルシュタットの戦いの際にベルナドットが決定的な大失態を犯し、軍法会議にかけられそうになった際も、デジレの取り成しによってナポレオンは執行寸前の命令文書を破り捨てている。 |
| ナポレオンは、イエナの戦いの頃からベルナドットの背信が始まったと述懐しているが、これは失態と言うよりも戦術的に不可抗力であったから、軍法会議はナポレオンの一方的な策略であったと現在では捉えられている。 |
| ベルナドットを不審視するナポレオンは、イエナ・アウエルシュタット後のプロイセン追撃戦におけるブリュッヒャー将軍の捕縛に関しても戦功とは見なしていなかった。 |
| 一方デジレにとっては、元婚約者のナポレオンが第一統領、終身統領、フランス皇帝と出世し、ジョゼフィーヌがフランス皇后となるにつけ、心中穏やかではなかったし、ナポレオンの兄ジョゼフと結婚したデジレの実姉マリーはナポリ王后、スペイン王后になったので、大変な劣等感を抱いていたことは想像に難くない。 |
| この当時のデジレの称号は「ポンテコルヴォ大公妃」に過ぎなかった。 |
スウェーデン王妃
| 1809年に夫ベルナドットがスウェーデン王位継承候補者となったことは、デジレの、そしてフランスの運命を大きく転換する出来事であった。 |
| ナポレオンの玉座の前に進み出て「スウェーデンの要請を受け入れる旨許可してほしい」と願い出たベルナドット夫妻に対し、ナポレオンはデジレに対する贖罪の気持ちも込めて、ベルナドットがスウェーデン王位継承者となることを許諾した。 |
| ベルナドットはスウェーデン入りに際して、同国議会の要請に応えてスウェーデンの国教であるルター派に改宗したが、デジレは改宗を拒否している。 |
| ベルナドットは1810年に王太子・摂政となって執政を開始した。 |
| デジレが息子オスカルとともにパリからストックホルムに移ったのは翌1811年のことである。 |
| しかしデジレは、フランスとは気候も風土も文化も異なるスウェーデンになじめず、またこの時期のスウェーデンの冬が異常に寒かったこともあって、半年ほど後には夫と息子を後に単身パリへ戻った。 |
| 翌年、ベルナドットはフィンランドでロシア皇帝アレクサンドル1世と会談をしているが、その際アレクサンドルはベルナドットのことを殊の外気に入り、男やもめ同然の彼に自らの妹との縁談をもちかけたが、ベルナドットはやんわりとこれを断っている。 |
| 同年ロシアがフランスに対して反旗を翻すと、スウェーデンもこれに呼応。 |
| これがナポレオンの帝国を崩壊させるきっかけとなる。 |
| ナポレオン退位後はその縁者としてヨーロッパ各地の王位や大公位に即いていた者たちは、ベルナドット家を除いて全てその地位を失った。 |
| 一方スウェーデンは1814年のウィーン会議でノルウェーを獲得、これを同君連合とした。 |
| そして1818年、ベルナドットはスウェーデン=ノルウェー王カール14世ヨハンとして即位した。 |
| 1823年に王太子オスカルが元フランス皇后ジョゼフィーヌの孫娘にあたるジョゼフィーヌと結婚したのを機に、デジレは再びストックホルムに移り住んだ。 |
| デジレはスウェーデン国民から大歓迎を受け、その後も国母として敬愛された。 |
| 夫カール14世ヨハンは1844年に死去したが、王位を継承した息子オスカル1世も1859年にデジレに先立って死去し、すでに摂政を務めていた孫のカール15世が即位した。 |
| 翌1860年、デジレは83歳で死去した。 |
| デジレの最後の言葉は、「ナポレオン」であったとも言われている。 |
| カール14世ヨハンとデジレの子孫の血統は、現在でもスウェーデン王室(ベルナドッテ家)として続いている。 |
| デジレの死後、彼女の枕の下からかつてナポレオンに宛てて書き送った恋文の下書きが何枚も発見されたという。 |
| この事から解るように、デジレは生涯ナポレオンを敬愛し続け、一方でスウェーデン王妃という華やかな地位を敬遠し続けたという。 |
| デジレは温和ではあったが、父親の反対を押し切ってまでナポレオンと結婚するほどの意志の強さはなく、もしナポレオンがデジレと結婚していたら、彼は小成に甘んじていただろうともいわれる。 |
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1777年
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マルセイユの裕福な商家であったクラリー家の... |
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1792年
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ボナパルト家がマルセイユにやってくると、ナ... |
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