| ミドルトンはロンドンの生まれ。 |
| 父親は煉瓦積み職人から一代でジェントルマンに昇進した人物。 |
| 興味深いことに、ショアディッチ(Shoreditch)の所有地はカーテン座に隣接していた。 |
| 5歳の時、父親が亡くなって、母親は再婚するのだが、その結婚の解消はミドルトンと妹の相続をめぐって15年間もの法廷闘争にもつれた。 |
| ミドルトンが繰り返して描く法律家への風刺は、おそらくその時の経験から生まれたものに違いない。 |
| 1598年、オックスフォード大学ザ・クイーンズ・カレッジに入学するが卒業はしなかった。 |
| しかし、大学を去る前に(1600年か1601年MarkEccles,"ThomasMiddletonaPoett',"StudiesinPhilology"54(1957):516-36(p.525))、エリザベス朝時代に人気のあったスタイルの長詩を書き、出版した。 |
| とくに成功したようでもなく、またそのうちの1冊(風刺詩)が英国国教会と衝突して発売禁止になってしまった。 |
| ともかくも、ミドルトンの文学歴はそこからスタートした。 |
| 1600年代のはじめ、ミドルトンは生計を立てるため、時事問題のパンフレットを書いた。 |
| その1つ『PennilessParliamentofThreadbarePoets』は何度も刷られ、議会質疑の対象にもなった。 |
| フィリップ・ヘンズロー(PhilipHenslowe)の日記によると、同じ頃、ミドルトンは海軍大臣一座のための戯曲も書いていた。 |
| 劇作家として駆け出しだったこの時代、ミドルトンは論争好きで名を知られた。 |
| 「劇場戦争(WaroftheTheatres)」で、トマス・デッカーとの友情からベン・ジョンソン、ジョージ・チャップマンと戦ったのだ。 |
| ジョンソンとの遺恨は1626年まで続いた。 |
| ジョンソンは戯曲『TheStapleofNews』でミドルトンの大ヒット作『チェスゲーム』をやりたい放題に中傷した。 |
| ミドルトンの仮面劇『TheMasqueofHeroes,or,TheInnerTempleMasque』(1619年)はジョンソン(ちょうどスコットランドを旅していた頃)「黙った煉瓦積み職人」と冷笑したと言われているJerzeyLimon,"ASilenc'stBricklayer,"''NotesandQueries''41(1994),p.512.。 |
| 同年、ペストの流行でロンドンの劇場は閉鎖され、ジェームズ1世がイングランド王に即位した。 |
| この時期をミドルトンは散文のパンフレットを書いて過ごした。 |
| 劇場が再開されると、ミドルトンは劇作家として本格的に活動を始めた。 |
| いくつもの劇団のために様々なジャンルの作品(特に都市喜劇と復讐悲劇)を量産した。 |
| シェイクスピアと違って、ミドルトンは雇ってくれる劇団ならどこにでも書いて良いフリーランスの劇作家だった。 |
| トマス・デッカーとは、同時代の盗賊メアリ・フリス(MaryFrith)を題材にした『女番長またの名女怪盗モル』などいくつかの合作をした。 |
| 1613年、ミドルトンは代表作となる『チープサイドの貞淑な乙女』を書いた。 |
| この時期(1610年代)のミドルトンの戯曲にはいくぶん穏やかな気分が見える。 |
| 以前書いていた『ミクルマス開廷期』のような風刺性を持つ喜劇や、流血場面の多い悲劇がこの時期はないのである。 |
| 1620年にはシティ・オブ・ロンドンの年代学者に任命された。 |
| この職は亡くなるまで続け、その後はベン・ジョンソンに受け継がれた。 |
| しかし、公務についても劇作は続け、ウィリアム・ローリー(WilliamRowley)との合作悲劇『チェンジリング』やいくつかの悲喜劇を書いた。 |
| 1624年、風刺喜劇『チェスゲーム』がグローブ座で国王一座によって初演されたが、この作品はミドルトンの悪名をいっきに高める結果になった。 |
| チェスを比喩に使って「スペインとの縁組(SpanishMatch)」(後にチャールズ1世なる皇太子とマリア・アナ・デ・アウストリアとの縁談。 |
| しかし結婚にはいたらなかったにまつわる策略を風刺した作品だったからである。 |
| ミドルトンの姿勢は愛国的だったが、スペイン大使の抗議で枢密院は9日目にこの芝居を上演禁止にした。 |
| この作品以降、ミドルトンの戯曲の記録がないことから、劇作禁止を含む処罰があったものと推測されている。 |
| 1627年、ミドルトンはニューイングトン・バッツ(NewingtonButts)の自宅で亡くなった。 |