| 9歳のとき父と共にヨーロッパを旅行し、このことがきっかけでフランス語など外国語の習得に強い興味を抱くようになる。 |
| 両親の離婚により母子家庭に育ち、経済的困難に遭遇したが、奨学金を受けつつ飛び級を繰り返し、1938年、16歳でコロンビア大学文学部に入学。 |
| 同校でマーク・ヴァン・ドーレンやライオネル・トリリングの薫陶を受ける。 |
| 同じ頃、ヴァン・ドーレンの講義で中国人学生と親しくなり、そのことがきっかけで中国語特に漢字の学習に惹かれるに至る。 |
| 1940年、厚さに比して安価だったというだけの理由で49セントで購入したアーサー・ウェイリー訳『源氏物語』に感動。 |
| 漢字への興味の延長線上で日本語を学び始めると共に、角田柳作のもとで日本思想史を学び、日本研究の道に入る。 |
| コロンビア大学にて、1942年に学士号を取得。 |
| 日米開戦に伴って米海軍日本語学校に入学し、日本語の訓練を積んだのち情報士官として海軍に勤務し、太平洋戦線で日本語の通訳官を務めた。 |
| 通訳時代の友人にオーティス・ケーリ(のち同志社大学名誉教授)がいる。 |
| 復員後コロンビア大学に戻り、角田柳作のもとで1947年に修士号を取得。 |
| 同年、ハーヴァード大学に転じ、セルゲイ・エリセーエフの講義を受ける。 |
| 1948年から5年間ケンブリッジ大学に学び、同時に講師を務める。 |
| 同校ではバートランド・ラッセルに気に入られ、飲み友達として交際した。 |
| このころ、E・M・フォースターやアーサー・ウェイリーとも交際。 |
| この間、1949年にコロンビア大学大学院東洋研究科博士課程を修了。 |
| 1953年京都大学大学院に留学。 |
| 京都市東山区今熊野の下宿にて永井道雄と知り合い、生涯の友となり、その後は永井の紹介で嶋中鵬二とも生涯の友となった。 |
| 1955年からコロンビア大学助教授、のちに教授を経て、同大学名誉教授となった。 |
| 1982年から1992年まで朝日新聞社客員編集委員。 |
| 1986年には「ドナルド・キーン日本文化センター」を設立した。 |
| 1999年から「ドナルド・キーン財団」理事長。 |
| 2006年11月1日源氏物語千年紀のよびかけ人となる。 |
| 日本に関する著作は、日本語のものが30点、英語のものもおよそ25点ほど出版されている。 |
| 近松門左衛門、松尾芭蕉、三島由紀夫など古典から現代文学まで研究対象の幅は広く、主に英語圏への日本文化の紹介・解説者として果たした役割も大きい。 |
| 英語版の万葉集や19世紀日本文学、中国文学のアンソロジーの編纂にも関わった。 |
| 1976年には、日本語版、英語版それぞれの『日本文学史』の刊行が開始された。 |
| 近世、近代・現代、古代・中世の三部に大きく分かれる。 |
| 2011年3月11日発生の東北地方太平洋沖地震を契機に、コロンビア大学を退職した後、日本国籍を取得し日本に永住する意思を表明した{{Citenews。 |
| クラシック音楽、特にオペラの熱心な愛好家であり、関連する著書にエッセイ集『音盤風刺花伝』『音楽の出会いとよろこび』(音楽之友社刊)がある。 |
| 友人であった安部公房は、キーンが明治天皇について書くことを告げると、書けば右翼から脅迫に遭うだろうと忠告した。 |
| 何年後かに実際書いてみるとどこからも脅迫されず、キーンは逆に意気消沈したという。 |
| 主に交流のある作家は三島由紀夫、谷崎潤一郎、川端康成、吉田健一、石川淳、安部公房など。 |
| かつて大江健三郎とも親しかったが、大江の態度の変化によって疎遠になった。 |
| 大江から避けられるようになったことについて『私と20世紀のクロニクル』p.223-224では原因不明としている。 |
| ただ、大江の縁があって、安部と終生の親友になれた。 |
| 井上靖文化賞授賞式の際にキーンが出席出来なかった代わりに大江がスピーチに参加した。 |