| 1994年6月13日、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)の名古屋グランパスエイトと年俸(7ヶ月分)5000万円で契約し、マルセイユには移籍金9000万円が支払われた記者グループ2001、12頁。 |
| 大物外国人として騒がれたゲーリー・リネカーが十分に活躍できなかったこともあってか、ファンやマスコミはストイコビッチを懐疑的な目で見る者も多かった木村2001、321頁。 |
| 7月16日の浦和レッドダイヤモンズとのプレシーズンマッチでチームデビューし木村2001、80頁、8月10日のセカンドステージ開幕戦のサンフレッチェ広島戦でリーグ戦デビューしたが、試合開始18分で2枚のイエローカードを提示され、散々なデビュー戦となった木村1998、101頁。 |
| 豪雨の中での試合となった9月17日のジェフユナイテッド市原戦ではリフティングドリブルで観客の度肝を抜き、さらに移籍後初得点となる直接フリーキックを決めてマン・オブ・ザ・マッチに輝いた木村1998、104-106頁。 |
| 9月23日にゴードン・ミルンが監督を辞任し、三浦哲郎が暫定監督に就き指揮を執ったが、セカンドステージは最下位に終わった木村1998、110頁。 |
| かねてより後任監督に推薦していたアーセン・ベンゲルが1994年11月に新監督として就任したため、半年間だけの在籍という予定を変更し、年俸5500万円で契約を更改した木村1998、115頁。 |
| 12月にはユーゴスラビア代表への制裁措置が一部解除されたため、代表の新キャプテンとして1994年12月23日に行われたブラジルとの親善試合に出場した。 |
| 1995年も開幕からしばらくは下位に低迷した。 |
| ストイコビッチ自身も判定に対する苛立ちから審判に食ってかかり、出場停止が明けては退場処分を繰り返し、負けが続いたチームの足を引っ張った木村2001、40頁。 |
| しかし、5月の中断期間の間に行ったキャンプでベンゲルの戦術が再確認され、ファーストステージは15勝11敗(中断期間後は9勝1敗)の4位に躍進した。 |
| ベストイレブン投票ではミッドフィールダー部門最多の得票を集めて選出された木村1998、129頁。 |
| セカンドステージ開幕戦のジュビロ磐田戦では1得点3アシストの活躍でマン・オブ・ザ・マッチに選ばれた木村1998、130頁。 |
| ファンは彼のプレーに魅了され、応援団のコールで叫ばれる名前は「ストイコビッチ」から「ピクシー」に変わった。 |
| ヴェルディ川崎との直接対決に敗れて優勝は果たせなかったが、17得点29アシストと獅子奮迅の活躍を見せ、得点王の福田正博に大差をつけてリーグ最優秀選手に選ばれた木村1998、144頁。 |
| 天皇杯ではヴィッセル神戸や鹿島アントラーズを退けて決勝に進出し、決勝ではサンフレッチェ広島に3-0で快勝して優勝を果たした。 |
| 1996年初の公式戦となったゼロックス・スーパーカップでは横浜マリノスと対戦し、2-0で快勝してタイトルを獲得した記者グループ2001、103頁。 |
| 彼自身は3ステージ連続でリーグ開幕戦に得点し、チームは開幕から7勝1敗と絶好調だったが、急に失速してファーストステージを10勝5敗の6位で終えた。 |
| 5月26日にはキリンカップサッカーにユーゴスラビア代表として出場し、キャプテンとして臨んだ日本戦で代表50キャップ目を記録した記者グループ2001、110頁。 |
| アトレティコ・マドリードなどからオファーがあったが、9月12日にはクラブとの契約を2年延長して1998年いっぱいまで名古屋でプレーすることになった。 |
| セカンドステージ途中、9月28日の柏レイソル戦をもってベンゲルが監督を退任したが、最終的には21勝9敗で2位という好結果を残した木村2001、208頁。 |
| 10月30日のV川崎戦では中村忠に頭突きを見舞い、3試合の出場停止処分を言い渡された。 |
| Jリーグチャンピオン・ファイナルで優勝し、MVPに選ばれた。 |
| 11月にはアジアカップウィナーズカップに出場して準優勝した。 |
| 1997年3月2日、サンワバンクカップのD.C.ユナイテッド戦では1得点2アシストの活躍でMLS王者を下した記者グループ2001、126-127頁。 |
| しかし、リーグ戦では前年の快進撃が嘘のように歯車が噛み合わず、7月9日の横浜マリノス戦では提示されたイエローカードを逆に主審に突きつけ、審判を侮辱する行為だとして4試合の出場停止処分を受けた中日スポーツ、1995年9月10日。 |
| ヤマザキナビスコカップでは準決勝に進出したが、リーグ戦のファーストステージは12位、セカンドステージは5位、天皇杯は東京ガスサッカー部に敗れて初戦敗退と振るわず、実りの少ないシーズンであった木村2001、208頁。 |
| 1998FIFAワールドカップ欧州予選には毎回日本から駆け付け、1位通過はスペインに許したが、プレーオフではハンガリー相手に2試合合計12-1で大勝して本大会出場を決めた。 |
| 1998年のファーストステージは試合ごとの浮き沈みが激しかったが、終盤の追い上げで3位に順位を上げて幕を閉じた。 |
| 制裁措置解除後初の国際大会出場となった1998FIFAワールドカップグループリーグのドイツ戦は2-2の引き分けに終わったが、ストイコビッチを中心とした華麗なパス回しでピッチを支配し、一時は2-0と優勢に試合を進めた木村2001、47頁。 |
| 決勝トーナメント1回戦のオランダ戦ではスロボダン・コムリエノビッチの同点弾をアシストする絶妙なフリーキックを蹴ったが、ロスタイムに決勝点を決められて敗れた木村2001、48頁。 |
| FIFAワールドカップ期間中には欧州のクラブへの復帰が噂された。 |
| 8月16日に行われたJリーグオールスターサッカーでは同点となる得点を決めたほか2点目と3点目の起点にもなり、2年連続でMVPを受賞した記者グループ2001、157頁。 |
| 天皇杯は準決勝で清水エスパルスに敗れた。 |
| 1999年には呂比須ワグナー(ベルマーレ平塚より)、山口素弘、楢崎正剛(いずれも横浜フリューゲルスより)の3人の日本代表クラスの選手が加入し、リーグ戦初優勝が期待された記者グループ2001、176頁。 |
| 3月6日、アビスパ福岡との開幕戦では3年ぶりにヘディングで得点を決め、幸先の良いスタートを切ったが、3月24日には北大西洋条約機構(NATO)による母国ユーゴスラビアへの空爆が開始され、それが6月10日まで続いた。 |
| それまではできる限り政治的な発言は控えて来たストイコビッチであったが、3月27日の神戸戦後に「NATOSTOPSTRIKES」(NATOはユーゴスラビアへの空爆を止めよ)というアンダーシャツを見せて空爆への抗議行動をとり、Jリーグより注意を受けた記者グループ、180頁。 |
| 優勝候補筆頭に挙げられたファーストステージは7勝7敗の8位に終わったが、セカンドステージ途中にジョアン・カルロスが監督に就任するとチームは息を吹き返し、クラブ記録を更新する10連勝でセカンドステージは11勝3敗の2位と巻き返した記者グループ2001、189-194頁。 |
| フランスやオーストリアのクラブからのオファーもあったが、約3割の減額を飲んだ年俸1億3000万円で契約を1年間延長した記者グループ2001、192頁。 |
| 天皇杯決勝のサンフレッチェ広島戦では1得点1アシストの活躍を見せ、2度目のタイトルを手にした「監督1年目から結果を残したピッチ上の妖精(上)」『月刊グラン』、2009年2月号。 |
| UEFA欧州選手権2000予選は政治的理由からユーゴスラビア代表に不利なスケジュールを余儀なくされ、最終節までユーゴスラビア、アイルランド、チェコの3ヶ国が首位を争ったが、最終戦でクロアチアに引き分けて本大会出場を決めた。 |
| 2000年3月4日、ジュビロ磐田と対戦したゼロックス・スーパーカップはPK戦の末に敗れた記者グループ2001、198頁。 |
| UEFA欧州選手権2000では世代交代を進めたい監督のヴヤディン・ボシュコヴに冷遇され、控え選手の立場で大会に臨んだが、グループリーグ初戦のスロベニア戦では0-3の場面で途中出場して3-3の引き分けに持ち込み、チームに欠かせない存在であることをアピールした木村2001、49頁。 |
| ノルウェー戦では先制点の起点となるフリーキックを放ってマン・オブ・ザ・マッチに選ばれ、スペイン戦は試合終了間際に逆転負けを喫したものの、グループリーグを2位で辛くも勝ち抜いた記者グループ2001、208頁。 |
| 8月26日に行われたたらみオールスターサッカーでは直接フリーキックを決め、1996年・1998年に続く3度目のMVPを受賞した記者グループ2001、217頁。 |
| セカンドステージ途中には大岩剛、望月重良、平野孝の3選手に突然の戦力外通告が告げられたため、ストイコビッチを含め選手たちには動揺が走り、優勝争いには全く絡まずにシーズンを終えた記者グループ2001、218頁。 |
| 7月21日の東京V戦で名古屋のユニフォームを脱ぎ、キリンカップサッカーの日本との親善試合でユーゴスラビア代表のユニフォームを脱いだ記者グループ2001、226頁。 |
| 木村元彦によればアシスト数は95を数えJリーグは公式記録にアシスト数を含めていない、アシストした回数が最も多いのは岡山哲也である。 |
| 7年間の間にもらったイエローカードは69枚、退場処分回数は13回(そのうち一発退場回数は3回)に上ったなお、記者グループ2001、62頁によればイエローカードの枚数は71枚である。 |
| その後もチームは順調に勝ち点を積み上げ、また名古屋にとってチーム創設以来未だかつて勝利がなかったカシマスタジアムでの鹿島アントラーズ戦に勝利、同スタジアムで初勝利を挙げた監督となった。 |
| その後故障者などが出るなどしたが、鹿島、川崎フロンターレと最終節まで優勝争いを繰り広げるなど名古屋の躍進に貢献し、最終的には3位で終了してAFCチャンピオンズリーグへの出場権も獲得した。 |
| AFCチャンピオンズリーグに出場し、準々決勝では川崎を破ったが、準決勝でアル・イテハドに敗れてベスト4に終わった。 |
| 10月17日、横浜FM戦で相手GK榎本哲也がタッチラインへボールを蹴り出した際にベンチから駆け寄り、革靴を履いた右足でダイレクトシュートを放った |
| 2010年1月27日、ジーコやイビチャ・オシムらとともに2022FIFAワールドカップ招致大使に就任した |
| 田中マルクス闘莉王(浦和から)、金崎夢生(大分トリニータから)、ダニルソン(コンサドーレ札幌から)などを獲得し、選手層の充実に努めた。 |
| 開幕直後に発生した東日本大震災被災者に対するチャリティーマッチにおいて、Jリーグ選抜「TEAMASONE」の監督としてチームの指揮を執った |