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つながりの強いひと
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オゴデイ
夫 引き継ぐ者
哈罕皇帝/合罕皇帝(カアン皇帝)とも書かれる(後述)。モンゴル帝国時代のウイグル文字モンゴル語文や前近代の古典モンゴル語文では'WYK'D'YQ'Q'N/ÖgedeiQa... |
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グユク
モンゴル帝国の第3代皇帝(在位1246年8月24日-1248年4月)。漢語資料の表記では貴由、谷由皇帝。ペルシア語資料での表記ではكيكخانkuyukkhānないしگيوكخانGuy... |
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モンケ
モンゴル帝国の第4代皇帝(カアン、大ハーン)(在位1251年7月1日-1259年8月11日)。漢字表記は蒙哥、蒙哥皇帝で、ペルシア語表記ではمنگوقاآنmankūqā'ānまた... |
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トルイ
チンギス・カンの四男。中国語表記は<spanlang="ch">&25302;雷で、ペルシア語表記ではتولىخانtūluykhānまたはتولوىخانtūlūykhān、モンゴル語ではТулуй,Tului... |
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バトゥ
ジョチ家の第2代当主(ハン:在位1225年-1256年)で、キプチャック・ハン国(ジョチ・ウルス)の実質的な創設者。チンギス・ハーンの長男・ジョチの次男であ... |
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チャガタイ
モンゴル帝国の皇族の一人で、チンギス・ハーンの次男。ジョチの弟、オゴデイとトルイの兄に当たる。漢語表記では察合台など。ペルシア語表記ではچغتاىخانCha... |
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耶律楚材
初期のモンゴル帝国に仕えた官僚。字は晋卿。禅に深く帰依し、湛然居士と号した。モンゴル名はウルツサハリ(「髭の長い人」の意)。 |
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チンギス・カン
モンゴル帝国の初代皇帝(在位:1206年-1227年)。大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国北部・中央アジ... |
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テムゲ・オッチギン
チンギス・カンの末弟で、モンゴル帝国の皇族である。イェスゲイ・バアトルとコンギラト部族オルクヌウト氏族出身のホエルンとの三男で、他の同母兄にはジョ... |
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定宗
李氏朝鮮の第2代国王(在位:1398年-1400年)、権知高麗国事。本名を李芳果という。世子になる前は永安君。 |
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チンカイ
初期モンゴル帝国に仕えた官僚。『集史』『世界征服者の歴史』などのペルシア語資料ではچينكقاىبيتكچىChīnkqāīBītikchī、چينقاىبيتكچىChīnqāīBītkchīと書かれ... |
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マスウード・ベク
モンゴル帝国に仕えたムスリム系の財務官僚。諸資料における漢字表記は『元朝秘史』では馬思忽惕(別乞)Masqud、『元史』では麻速忽。『世界征服者の歴史』... |
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アブドゥッラフマーン
モンゴル帝国 の官人。 アブドゥルラフマーン などとも表記される。 西域 の 色目人 で商家の出身であった。経済の才能に長けていたことから、モンゴル帝国... |
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クビライ
モンゴル帝国の第5代皇帝(大ハーン)。在位は1260年5月5日-1294年2月18日。同時代のパスパ文字モンゴル語およびモンゴル文字などの中期モンゴル語のラテン文... |
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菅原為長
菅原為長(すがわらのためなが、保元3年(1158年)-寛元4年3月28日(1246年4月15日))は平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿。初名は忠親。高辻為長とも記さ... |
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北条経時
鎌倉時代前期の北条氏得宗家の一門。鎌倉幕府の4代執権(1242年-1246年)である。北条時氏の長男で、3代執権北条泰時の嫡孫にあたる。 |
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イザベラ・オブ・アングレーム
アングレームを身内に抱き込むことで、フランスと甥のブルターニュ公アルテュール1世(アーサー・オブ・ブリタニー)支持のアンジュー、メーヌ、トゥルネー、... |
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後深草天皇
鎌倉時代の第89代天皇(在位:寛元4年1月29日(1246年2月16日)-正元元年11月26日(1259年1月9日))。諱は久仁(ひさひと)。 |
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御家人
鎌倉幕府御家人制の展開 この本を 1 2 3 4 5 6 7 8 9 冊買う 10冊以上買う お困りの方 在庫切れ等により、手配できない場合がございます 七海 雅人著... |
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アレクサンドル・ネフスキー
ノヴゴロド公国の公を経てウラジーミル大公国の大公(在位は1252年-1263年)となる。中世ロシアの英雄として讃えられている人物。父はヤロスラフ2世(ウラジ... |
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プロフィール
ドレゲネ(Döregene,?-1246年)は、モンゴル帝国の第2代大ハーン・オゴデイの第6夫人で、第3代大ハーン・グユクの生母。漢字表記では脱列哥那、禿納吉納。ペルシア語表記ではتوراكنهخاتون(TūrākinaKhātūn)などと綴られる。諡号は昭慈皇后。史料によっては、トゥラキナ、トレゲネと書かれることもある。
人物
| ナイマン部の出身で、『集史』によれば最初はチンギス・ハーンの第2皇后となったクラン・ハトゥンの父、ウハズ・メルキト族の族長ダイル・ウスンの妃であったが、チンギス・ハーンのメルキト討伐によって捕らえられ、オゴデイの夫人となった。 |
| 夫のオゴデイは自分の後継者を指名することなく、1241年12月に過度の酒色がたたって死去する。 |
| オゴデイは生前、三男でコンギラト部族の出身であった第1皇后ボラグチン・ハトゥンとの子であるクチュを後継者に指名していたが、1236年11月にクチュが南宋遠征中、徳安府(現湖北省安陸県付近)の戦線で陣没したため、クチュの長子であったシレムンを改めて後継者に推していた。 |
| あるいはトルイ家の当主で甥に当たるモンケの後継を考えていたらしく、少なくともグユクを後継者にしようとは考えていなかったらしい。 |
| しかしドレゲネはオゴデイの死後、自分の息子を大ハーンにしようと狂奔する。 |
| オゴデイの死に前後して筆頭皇后ボラグチン・ハトゥンをはじめ主だった皇后が相次いで没し、またオゴデイの皇后としては最年長であったため、本来長子グユクの母后であること以上にはあまり権力を持っていなかった第6皇后ドレゲネが、突如として大ハーン没後のモンゴル帝国において摂政・監国としてこれを総攬することとなった。 |
| ややもするとその施政において拙策の謗りを免れぬドレゲネだが、これは彼女自身トルイ家やジョチ家はもちろんのこと、オゴデイ家内部でも後援する勢力が絶無に近かったためだと思われる。 |
| オゴデイが没した直後に、チンギス・ハーンの末弟であったテムゲ・オッチギンがカラコルムに上京して帝位を狙う構えを見せたが、ドレゲネはこれを叛乱に当たると非難して牽制した。 |
| ほどなくグユクが西方からオゴデイ家の封土があったイミル湖畔に到着したとの知らせが有り、テムゲ・オッチギンはオゴデイの弔問に訪れたのだと弁明したため、ドレゲネは他勢力によるカラコルム制圧を回避した。 |
| ドレゲネはまず、夫に重用されていた功臣の耶律楚材やチンカイ、ヤラワチらを政治の場から遠ざけて、オゴデイの治世晩年に中国地域の歳入監査で頭角を表したイスラム商人出身のアブドゥッラフマーンを重用し、帝国の財政運営を彼に委ねた。 |
| 民衆に対しては重税を課したため、東方でも西方でもアブドゥッラフマーンの登用は甚だ恨まれたようである。 |
| そして自身は監国となり、帝国の実権を掌握したのである。 |
| さらにオゴデイによって後継者に指名されていたはずのシレムンを、成人に達していないという理由で後継候補から除外させ、オゴデイ家の年長者であるという理由で自らの実子であるグユクを後継者に推した。 |
| 西方の遠征諸軍を率いていたバトゥは、これに反対してドレゲネのクリルタイ召集に応じず、以後約5年間モンゴル帝国は大ハーン位が空位のまま、ドレゲネの監国時代が続いた。 |
| しかし、結局1246年6月にクリルタイが招集され、ドレゲナの巧みな政治工作によって、東方諸王家の統括者テムゲ・オッチギンとその一族、トルイ家からはソルコクタニ・ベキとその息子たち、チャガタイ家からは第2代当主となったカラ・フレグ、イェス・モンケ、ブリ、バイダルらモンゴル王族の大部分を参加させることに成功した。 |
| さらにマーワラーアンナフル総督のマスウード・ベク、イラン・ホラーサーン総督アルグン・アカとそれに随行したルーム・セルジューク朝のクルチ・アルスラーン4世、ウラジーミル大公国のヤロスラフ2世、グルジア王国のダヴィド兄弟、その他アッバース朝、アラムートのニザール派などの使節が参加したため、帝国規模のクリルタイが実現できた。 |
| バトゥも自ら参加することはなかったが異母兄のオルダを始めシバン、ベルケ、トカ・テムルらを派遣している。 |
| このようにしてドレゲネは当初の目的通り、1246年8月、息子のグユクを大ハーンに即けることに成功したのである。 |
| そして、息子の即位に安心したかのように、2ヵ月後の1246年10月、病のために没した。 |
| ドレゲネの政治工作による強行的なグユク擁立は、特に東欧遠征中に反目を起こしていたバトゥやモンケなど、多くの人物から不満があがり、その後のモンゴル帝国分裂の一因になってしまった。 |
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1241年
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過度の酒色がたたって死去する |
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1246年
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クリルタイが招集され、ドレゲナの巧みな政治... |
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