| しばしば貴族名の定冠詞をつけたディ・ブオナパルテまたはド・ボナパルトとも名乗ったり、署名したりしていると母マリア・レティツィア・ラモリーノの間に、12人の子供(4人は夭折)のうち4番目として生まれた。 |
| 出生時の洗礼名はナブリオーネ・ブオナパルテコルシカ語:「NabulioneBuonaparte」。 |
| コルシカ語はイタリア語系の方言のなかでもかなり特殊で、「p」表記がbの発音に、「o」表記がuの発音に、なるなど独特の発音になるために表音表記ではこうなる。 |
| 当時、コルシカ島では文語はラテン語がまだ使われており、実際の表記は表音とさらに異なって書くときは「Nabulion」とラテン語風となり、家族の一般的呼び名は「ナブリオ」になる。 |
| 幼くしてフランス本土に渡ってフランス語を勉強するようになってからフランス語で書くイタリア語人名表記を使うように指導された「ナポレオン(ナブリオーネ)」との名が付けられた3番目の子供で、同名の夭折した長兄が一人いる。 |
| 一つ上の次兄もジョゼフ・ナポレオン(ジュゼッペ・ナブリオーネ)。 |
| またこのナポレオンという名前は伯父からとったもの。 |
| 島を追われてフランスで一生を暮らすと決めて出世しだした1794年ごろから、ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテというイタリア人名の綴りから、フランス風のナポレオン・ボナパルトへ改名し、署名も改めた。 |
| ブオナパルテ家の祖先は中部イタリアのトスカーナ州に起源を持つ古い血統貴族であった。 |
| それがジェノヴァ共和国の傭兵隊長としてコルシカ島に渡って16世紀頃に土着した。 |
| 判事をしていた父カルロは、1729年に始まっていたコルシカ独立闘争の指導者パスカル・パオリの副官を務めていたが、ナポレオンが生まれる直前にフランス側に転向し、戦争も終わったため、懐柔の見返りとしての報奨を受けてフランス貴族と同じ権利を得た。 |
| 旧ジェノヴァ共和国領であるコルシカ島には貴族制度がなかったが、新貴族としての身分を晴れて認められたことで特権を得て、フランス本土への足がかりを得た父カルロは、コルシカ総督とも懇意になり、その後援でナポレオンと兄ジュゼッペ(ジョゼフ)を教育を施すためにフランス本土に送った。 |
| ナポレオンは初め修道院付属学校に短期間だけ入っていたが、すぐに国費で貴族の子弟が学ぶブリエンヌ陸軍幼年学校に1779年に入学し、数学で抜群の成績をおさめたという。 |
| 1784年にパリの陸軍士官学校に入学。 |
| 士官学校には騎兵科、歩兵科、砲兵科の3つがあったが、彼が専門として選んだのは、伝統もあり花形で人気のあった騎兵科ではなく、砲兵科であった騎兵科は主に裕福な名門貴族の登竜門で出世の見込みがなかったため。 |
| 他にも後に友人となる同じ砲兵科のマルモンなども中産階級出身。 |
| 他の選択肢としては数学が得意だったことから前には海軍も考えていた。 |
| 大砲を使った戦術は、後の彼の命運を大きく左右することになる。 |
| 卒業試験の成績は58人中42位であったものの、通常の在籍期間が4年前後であるところを、わずか11ヶ月で必要な課程を修了したことを考えれば、むしろ非常に優秀な成績と言える。 |
| 実際、この11ヶ月での卒業は開校以来の最短記録であった。 |
| この時期のエピソードとして、クラスで雪合戦をした際にナポレオンの見事な指揮と陣地構築で快勝したという話が有名で、このころから指揮官としての才能があったとされるが、実話ではなく偉人伝を彩る後の作り話である。 |
| 幼年時のナポレオンは、節約をかねて読書に明け暮れ、特にプルタルコスの『英雄伝』やルソーの著作これはルソーが「社会契約論」のなかでコルシカ島を革命が起こり憲法が成立する余地があるとしたた。 |
| 若い頃のナポレオンはコルシカ民族主義者であったなどを精読し、無口で友達の少ない小柄な少年であった。 |
| 学校ではコルシカ訛りナポレオンのフランス語は青年期まで、イタリア語の一方言であるコルシカ訛りがかなりはっきりとあった。 |
| 前述のようにコルシカ語ではいくつかのアルファベットの表記が音と異なるため、特に固有名詞で言い間違いが多かったが、皇帝になってからは特にそれを誰も注意しなかったを馬鹿にされて、ナポレオーネという名前から「ラ=パイユ=オ=ネ「」。意味は「鼻の穴に突っ込んだ麦わら」である。 |
| ナポレオーネとほぼ同音のことから、訛りをからかってつけらえたあだ名」とあだ名され、裕福な貴族子弟とは折り合いが悪かったためである。 |
| 一方で、癇癪持ちでもあり、喧嘩っ早く短気な一面もあった。 |
| また十代の後半は小説家にも憧れ、その頃から断続的に文学活動もしていた。 |