| 無名時代から『ビートたけしのオールナイトニッポン』の放送を録音し、膨大な数の録音テープを所有していたと言われる。 |
| また、何回か投稿したこともあるというナンシー関『何はさておき』116頁(世界文化社)。 |
| 本人は絵を描いたり、文章を書いたりすることが特に好きであったわけでもなかった。 |
| 青森生まれであるのと、視力が良くないことから棟方志功を連想させるなどと言われていたが、本人は全く意識をしておらず、「こんな仕事が長く続くわけない」と家族に話していたという。 |
| 消しゴムを彫り始めたのは高校時代のこと。 |
| 当時は似顔絵ではなく、当時流行していた世良公則&ツイストやゴダイゴ、YMOといったバンドのロゴマークだった。 |
| 出来がよく、クラス中から注文が舞い込んだ。 |
| 名づけ親のいとうせいこうによると、ナンシー関と付けた理由は「なんかさ、そういうほうが、ぽいじゃん」とのこと。 |
| 1993年1月から週刊朝日で「小耳にはさもう」の連載が始まる。 |
| 当時の編集長によると、1992年いっぱいで連載が終わる松尾貴史に「誰かおもしろい人いないか?」と聞いたところ、関の名前が返ってきたという。 |
| 合わせて山藤章二からも「あの絵はよい」と推薦を受けた。 |
| 最初の打ち合わせは荻窪のレストランに自転車で現れた。 |
| 企画、コンセプトからタイトルまでテキパキ固め実際の作風とは全く異なり、話し方は極めて素朴でほんわかとしていたという。 |
| 原稿を書く時には行替えを行うのを嫌った。 |
| 書く以上は不用意にマスを空けたくないという意志があり、普通ならばいい加減に書き飛ばすテーマでも、生真面目に考え抜いたとのこと。 |
| 書くテーマは必ず自分で決めていた。 |
| 本当の締め切りが何曜日の何時なのかも見抜いて、その上でギリギリに間に合わせていた。 |
| 編集者泣かせではあったが、それでも休載は一度もなく、質も全く落ちなかった。 |
| 「小耳にはさもう」の第1回のテーマは貴花田光司、最終回は辻仁成。 |
| 結果的に足かけ10年462回の長期連載となった。 |
| 常にシニカルな目線でテレビ番組の批評をおこなっていたことで、「怒られたい」という目的で1993年から1994年までフジテレビで生放送されていた『殿様のフェロモン』の放送中にナンシー本人の元に電話がかかってきたこともある。 |
| 1993年10月から週刊文春でも「テレビ消灯時間」の連載がスタートする。 |
| 彼女は同じ週刊誌の連載ということで「小耳にはさもう」の担当編集者に相談した。 |
| 「別にいいけど絵はうちより小さくしてくれ」という返答に対して、彼女は律儀にこの約束を守ったという。 |
| 1996年に掲載された文春の対談で、これまでで最もたくさん彫った人物が内藤陳であることを明かした。 |
| 2008年の『タモリ倶楽部』(テレビ朝日)での安斎肇の発言によると一位が内藤陳、二位がタモリ、三位がもたいまさこになるという。 |
| 一人暮らしのマンションには、4、5台のビデオデッキを備え、テレビを観察し続ける。 |
| 朝は8時ごろに起き、夜は午前1時ごろ就寝、というライフスタイルだった。 |
| 2、3時間歌うのはザラで、夜10時から朝5時まで歌い続けたこともあるという。 |
| 十八番は彼女が大ファンだった矢沢永吉。 |
| ザ・ピーナッツから最新の曲まで幅広く歌いこなしたという。 |
| 聴くのは学生時代バンドでベースを弾いていたのも影響して、ジャニス・ジョプリンが好きと周囲に話している。 |
| 小島も贔屓にしていた。 |
| 「また、リリー・フランキーとは松田優作の『ヨコハマ・ホンキー・トンク・ブルース』の話で盛り上がったことがある。 |
| お気に入りの店は中目黒の「ビッグママ」 |
| いつもカウンターの隅に座り、シャイでかわいらしく時折ボソッと呟いていたしかし、ある年の週刊文春の編集者との忘年会の席上では泥酔して「ヒクソンの嫁になりてえ」と叫び、同席者を仰天させたこともあるという(週刊文春の記事より)。 |
| 最後に訪れた時は「今は締め切りに追われているけど、旅行がしたい」と話していたという。 |
| 2001年に出版された著書内で「田村亮子(現:谷亮子)は選挙に出る」と予想していたが、実際に田村は2010年に行われる参議院選挙に民主党から出馬することが発表され、9年越しの予想が当たったこととなった。 |
| {{要出典範囲|アンチサザンオールスターズで、彼らの音楽を「邪道」とまで言い切っている。 |