| 1710年代にはアフシャール部族連合を率いてこの地域に勢力を伸ばすようになる。 |
| 1719年からサファヴィー朝中心部へと勢力を伸ばしていたアフガーン族は1723年、ついにイスファハーンを陥落させ、スルターン・フサイン・シャーは降伏・退位して事実上サファヴィー朝は滅亡した。 |
| あとをついでガズヴィーンで即位したシャー・タフマースブ2世にイスファハーンの奪還はかなわず各地を放浪したのちホラーサーンに落ち延びた。 |
| このころまでにナーディル・コリー・ベグを名乗っていたナーディルはタフマースプに仕え、タフマースブ・クリーを名乗るようになる。 |
| タフマースブのもとナーディルは勢力を拡大、1726年のマシュハド掌握、1729年にダムガーン会戦でアフガーンを破り、翌年にはアフガーンを駆逐。 |
| 絶大な権力を掌中にして破竹の進撃を開始し、タフマースブはイスファハーンで即位式を挙げた。 |
| 1732年、ナーディルがホラーサーン方面へ出動中、タフマースブ2世がオスマン帝国との戦いに敗れると、ナーディル・クリーはアルメニア、グルジアを割譲してオスマン朝と和睦する一方、タフマースブをホラーサーンへ追放。 |
| タフマースブの8ヵ月の子・アッバース3世を擁立してその摂政となった。 |
| 1736年、シャー・アッバース3世が死ぬと、自らがシャーとして即位。 |
| ナーディル・シャーを名乗り、アフシャール朝を開いた。 |
| その後、ナーディル・シャーは勢力拡大を目指して、1733年のバグダード攻囲以降、西方で活動してオスマン朝に奪われた領域をほぼ確保する。 |
| 1738年には東方に転じ、カンダハール、ガズニ、カーボル、ラーホールと進撃を続け、翌年にはムガル朝の大軍を破ってデリーを占領した。 |
| この過程でアフガーンのアブダーリー族の武力とインドの巨大な富を得て、翌々年にはイラン方面に転じ、まず北方でマーワラーアンナフルのウズベクを撃破、さらに海軍の整備に着手して1742年、バフライン、1743年オマーンを占領した。 |
| 再び西方に転じ、1743年から対オスマン戦を再開するが目立った戦果は挙がらずに和睦しナジャフを割譲させたのみである。 |
| ナーディル・シャーには粗暴・冷酷な面があったとされる。 |
| デリーでの3万人におよぶとされる虐殺や1740年に主君タフマースブとその二人の子を処刑していること、さらに1741年、暗殺未遂事件を受けてホラーサーン太守とした長子リダー・クリー・ミールザーを盲目にし、さらにそれを知った人々を処刑したことなどがある。 |
| またナーディル・シャーはスンナ派であり、サファヴィー朝期にシーア化した住民をスンナ派に立ち戻らせようとし、強制改宗があったとする史料もあるが、一方でシーア派をジャアファル法学派シーア派の法学を確立した6代イマーム、ジャアファル・アッ=サーディクの名による。 |
| シーア派法学でもジャアファル法学派という言葉は用いるとしてスンナ派四大法学派に加えて五大法学派にして統合しようとしたとする史料もある。 |
| ナーディル・シャーの活動で軍事以外に特記すべきは都市マシュハドの整備など土木建築分野である。 |
| ナーディルは当時のテュルク系武官の常として、また活発な活動により一つの都市に留まることはなかった。 |
| しかし、チグリスから中央アジア、インドにまたがる大帝国の中心点としてマシュハドはアフシャール朝の実質上の首都となっていた。 |
| これはアフシャール朝がナーディル没後ホラーサーン南部に収斂していくことからも読み取れる。 |
| ナーディルはマシュハドにある8代イマーム・アリー・アッ=リダー廟を修築し、ミナレットを加えるほか、バーザールの整備もしている。 |
| 今日のイラン第二の都市マシュハドはナーディル・シャー期に実質的に始まったものといえよう。 |
| さらにナーディルはホラーサーンからスィースターンにかけての河川池沼の堤防(バンダーブ)建設なども命じており、ガナートほか現在に続く伝統的インフラストラクチャーもナーディル・シャー期にはじまるものがおおい。 |
| 1745年前後、ナーディル・シャーはマシュハドの武官や有力者100人あまりを反乱あるいはそれに関わったとして処刑した。 |
| ナーディルに対する恐れは増大し、最終的には1747年、ホラーサーンのクルド反乱鎮圧のために遠征中、アフシャール族家臣の手によって暗殺された。 |
| この事件はガージャール朝のナーディル・シャー伝記が、当時ナーディル・シャーに従っていたドッラーニー朝の祖アフマド・ハーン・ドッラーニーの関与をほのめかすが、アフガン側の史料では必ずしもこの時期アフマド・ハーンがナーディル・シャー近辺のアブダーリー勢力を統率していなかったと思われ判然としない。 |
| いずれにしろ、この暗殺によってアフシャール勢力とアブダーリー勢力間に従来から存在した緊張は頂点に達することになり、ドッラーニー朝成立の前史となるのである。 |
| ナーディル・シャーの没後は甥アーディル・シャーが後を継ぐが、大帝国は解体しアフシャール朝は混乱の中で南ホラーサーンの地方勢力へと変容してゆく。 |
| ナーディル・シャーの大帝国は短命に終わったが、アフガニスタンを誕生させるドッラーニー朝やのちにイランを統一するガージャール朝もナーディル・シャーのもとで活動することで勢力を蓄えていった点でナーディル・シャーはこの地域の次の時代を用意した人物であったということができよう。 |