| 知的な雰囲気の家庭で育ったブハーリンは、少年時代は、父親の影響で蝶や鳥類に熱中した。 |
| 中学校在学中にマルクス主義の影響を受け、革命運動に関係し、1905年ロシア社会民主労働党に入党し、党の分裂の際は、ボリシェヴィキに参加する。 |
| 1907年モスクワ大学法学部に入学する。 |
| 1908年に党モスクワ委員会のメンバーとなる。 |
| 委員会の中でブハーリンは次第に頭角を現す。 |
| 1909年当局によって二回逮捕されるものの、保釈された。 |
| 1911年に逮捕、投獄され、大学を放校処分となる。 |
| ブハーリンは、アルハンゲリスク県のオネガに3年間流刑となるが、脱走し、モスクワ経由でドイツに亡命した。 |
| ハノーファーを経て、1912年秋にウィーンに移る。 |
| ウィーン大学で経済学を学ぶ。 |
| 1914年まで経済学と社会学を学び、新聞・雑誌に寄稿する中で亡命していたボリシェヴィキの中で理論家として一頭地を現すようになる。 |
| 1915年「帝国主義と世界経済」、1916年「帝国主義国家の理論によせて」をそれぞれ発表し、両論文は、レーニンの帝国主義論と国家観に影響を与えている。 |
| これと前後して、1914年オーストリア当局によってスパイの嫌疑をかけられ逮捕される。 |
| その後、オーストリアを追われたブハーリンはスイスに亡命し、ローザンヌに住んだ。 |
| 1915年に北欧、アメリカ・ニューヨークに移る。 |
| この時期は、レーニンと理論や革命戦術をめぐり対立していた一方で、新聞「ノーヴィ・ミール」の編集に携わり、その過程でトロツキーやアレクサンドラ・コロンタイと親しい関係を築く。 |
| 1917年ロシア革命(二月革命)が起こると、5月にアメリカから横浜を経由して、ロシアに帰国する。 |
| 帰国後、ブハーリンは、党モスクワ委員会とモスクワ・ソビエトで活躍し、モスクワ市議会議員にも選出される。 |
| 第6回党大会で中央委員に選出される。 |
| 十月革命後、党機関紙「プラウダ」の編集長となる。 |
| しかし、1918年ブレスト・リトフスク条約調印をめぐり、ブハーリンは、「左翼共産主義者」グループを率いて、対独講和を主張するレーニンに反対した。 |
| ブハーリンは、ドイツ革命を目論見、ドイツを訪問。 |
| スパルタクス団に影響を与えるが、国外追放処分を受ける。 |
| ドイツ革命には失敗したものの、ブハーリンは内戦中、理論家として赫々たる成果を上げる。 |
| クートヴェで共産主義に関する講義を主催し、若手の研究者の養成に尽力すると同時に、1919年には、エフゲニー・プレオプラジェンスキーと共同で「共産主義のABC」、1920年「過渡期の経済学」、1921年「史的唯物論」を次々に著し、レーニンから激賞された。 |
| 1919年ロシア共産党(ボリシェヴィキ)政治局員候補に選出される。 |
| 1921年戦時共産主義政策が緩和され、ネップ(新経済政策)が採択されるとブハーリンは、スターリンとともに一国社会主義論の立場を取り、農民との協力体制の下、斬新的な社会主義国家建設を主張していった。 |
| 1924年レーニンの死後、政治局員に昇格する。 |
| また、コミンテルンでも要職を占め、1926年ジノヴィエフの跡を襲い、コミンテルン執行委員会議長に就任した。 |
| ブハーリンは、スターリンと組んで党内主流派の一角を占めるが、それも長くは続かなかった。 |
| トロツキーとの権力闘争自体では、トロツキーを厳しく批判したが、トロツキーの党からの除名には反対した。 |
| スターリンとは、工業化と農業の集団化をめぐり、対立するようになり、ブハーリンは、アレクセイ・ルイコフ、ミハイル・トムスキーと共に、政治局内で反スターリン派を形成するものの、逆にスターリン派から「右翼」として批判されブハーリンは、党、政治局員、プラウダ編集長、コミンテルン議長を解任された。 |
| 一度は失脚したもののブハーリンは、ファシズムの台頭を危惧し、自己批判してスターリン支持を表明した。 |
| 1934年には、党中央委員候補、「イズヴェスチヤ」誌編集長として復帰し、1935年新憲法(いわゆる「スターリン憲法」)起草にも参加する。 |
| しかし、1936年大粛清が開始されると、イズベスチヤ編集長を解任され、党中央委員会に喚問され、スターリンによって捏造された資料が提示され批判を受ける。 |
| 1937年には、ブハーリンとルイコフは党中央委員候補を解任され党から除名される。 |
| 同年2月にブハーリンは逮捕され、その前夜、夫人のアンナ・ラーリナに名誉回復の上申書「来るべき世代の次期指導者に」を記憶させた。 |
| 1938年3月のモスクワ裁判でブハーリンは、スターリンに自らの罪を認めればブハーリン自身を死刑にしないことと、妻子を助けるという約束で有罪を認める。 |
| しかし、約束は守られること無く、ブハーリンは日独などファシストの手先として、1938年3月15日銃殺された。 |
| 妻子は、ラーゲリで長期間過酷な生活を送るが生きのびて、スターリンの死後、釈放される。 |
| フルシチョフはスターリン批判をしたが、ブハーリンの公式な名誉回復はしなかった。 |
| しかしブハーリンの遺言は、ペレストロイカの開始に伴い、出版され、ブハーリンの路線はネップ再評価と共に、再定義がなされることになる。 |
| そしてついに1988年にカール・ラデックらとともに党籍および名誉が回復された。 |
| 1989年アンナ・ラーリナ未亡人(1914-96、26歳年下であった)は回想録「夫ブハーリンの思い出」を出版した。 |
| ブハーリンは前述の「来るべき世代の次期指導者に」の中で自らの逮捕直前の心境をこう述べた。 |