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ニコライ二世
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アレクサンドル3世
ロマノフ朝第13代ロシア皇帝(在位:1881年3月14日-1894年11月1日)。アレクサンドル2世と皇后マリア・アレクサンドロヴナの第2皇子。兄ニコライが22歳で早世... |
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アレクサンドラ・フョードロヴナ
配偶者
ロシア皇帝ニコライ2世の皇后。アレクセイ皇太子、オリガ皇女、タチアナ皇女、マリア皇女、アナスタシア皇女の母。ラスプーチンの熱心な信者でパトロンでもあ... |
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アレクサンドラ
配偶者
ニュージーランドのオタゴ地方南部にある小さな田舎町で、ダニーデンから約190km内陸に位置する。周辺の農業地帯を含めた町は人口4,827人(2006年度ニュージ... |
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アレクセイ
モスクワ・ロシアのツァーリ(在位1645年-1676年)。ミハイル・ロマノフの長男、母はエヴドキヤ・ストレシニョヴァ。その治世にはツァーリ専制体制が確立され... |
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マリア・ニコラエヴナ
マリア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ(/MariaNikolaievnaRomanova,1899年6月26日-1918年7月17日)はロマノフ朝最後の皇帝ニコライ2世とアレクサンドラ皇后の第... |
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津田三蔵
明治時代の日本の警察官(滋賀県警察部巡査)、軍人(大日本帝国陸軍軍曹)。ロシア帝国皇太子ニコライ暗殺未遂(大津事件)の犯人。 |
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マリア・フョードロヴナ
デンマーク王クリスチャン9世と王妃ルイーゼの次女で、ロシア皇帝アレクサンドル3世の皇后。デンマーク名はマリー・ソフィー・フレデリケ・ダウマー(MarieSo... |
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アレクサンドル2世
ロマノフ朝第12代ロシア皇帝(在位:1855年3月2日-1881年3月13日)。ニコライ1世の第一皇子、母は皇后でプロイセン王女のアレクサンドラ・フョードロヴナ。 |
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ニコライ2世
雪かき手伝っていただきありがとうお疲れ様でした! 創麻くんはホンマ博学で、いつもビビります笑 あの子を前にすると、ほとんどの大人が 「ありゃりゃな大人... |
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児島惟謙
明治時代の司法官。後述する大津事件の際には、大審院長として司法権の政治部門からの独立を守り抜き、「護法の神様」などと高く評価された。後に貴族院議員... |
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鈴木清順
映画監督、俳優。本名は鈴木清太郎。元NHKアナウンサーの鈴木健二の兄。日活の専属監督として名を馳せ、小林旭、高橋英樹、宍戸錠らを主演に迎えた。『殺しの... |
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クリスチャン9世
リュクスボー朝(グリュックスブルク家)初代のデンマーク国王(在位:1863年11月15日-1906年1月29日)。グリュックスブルク公フリードリヒ・ヴィルヘルムの... |
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瀧本美織
日本の女優、タレント。鳥取県鳥取市出身。スターダストプロモーション所属。鳥取敬愛高等学校卒業。亜細亜大学経営学部在学中。 |
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黒谷友香
日本の女優。所属事務所はスペースクラフト。 |
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有栖川宮威仁親王
日本の皇族、軍人。官職は軍事参議官。勲等は大勲位功三級、称号・階級は元帥海軍大将。有栖川宮幟仁親王の第四王子(男女合わせた王子女の中では八人目、但... |
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大杉漣
日本の俳優。本名は大杉孝。徳島県小松島市出身。小松島市立千代小学校、小松島市立小松島中学校、徳島県立城北高等学校卒業。明治大学中退。身長178cm、体重... |
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ニコライ1世
ニコライ1世(、ニコライ・パヴロヴィチ・ロマノフ、、1796年7月6日-1855年3月2日)はロマノフ朝第11代ロシア皇帝(在位:1825年12月1日-1855年3月2日)。父... |
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島津忠義
日本の武士・薩摩藩の第12代(最後の)藩主で、島津氏第29代当主。官位は従一位参議。勲等は勲一等。初名は忠徳であったが、江戸幕府第14代将軍徳川家茂の偏... |
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ドミニコ
ドミニコ会の創設者、カトリックの修道士、聖人。本名はドミンゴ・デ・グスマン・ガルセス(DomingodeGuzmánGarcés)。 |
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プロフィール
- ニコライ2世とは
- 生い立ち、皇太子時代
- 大津事件
- 即位と結婚
- 日露戦争とロシア第一革命
- 血の日曜日事件
- 怪僧ラスプーチンの台頭
- 大戦と革命
- 帝国の崩壊
- 最期
- 人物
- 死後
ニコライ2世(、ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ、、1868年5月18日(ユリウス暦5月6日)-1918年7月17日(ユリウス暦7月4日))は、ロマノフ朝第14代にして最後のロシア皇帝(在位1894年11月1日-1917年3月15日)。皇后はヘッセン大公国の大公女 アレクサンドラ・フョードロヴナ(通称アリックス)。皇子女として オリガ皇女、タチアナ皇女、 マリア皇女、 アナスタシア皇女、 アレクセイ皇太子がいる。また、イギリス国王 ジョージ5世は従兄である。日露 ...
生い立ち、皇太子時代
| アレクサンドル3世とその皇后マリア・フョードロヴナ(デンマーク王クリスチャン9世の第2王女)の第一皇子として生まれる。 |
| 1881年に革命家によって暗殺された祖父・アレクサンドル2世の死に立ち会っている。 |
| 父・アレクサンドル3世に続き、聖務会院長にして法律家、また専制護持のイデオローグでもあったコンスタンチン・ポベドノスツェフの教育に多大な影響を受けた。 |
| ポベドノスツェフは、民主主義とは「下品な民衆の手に負えない独裁政治」であると見なし、議会とは多数による専制にすぎず、野心のある政治家にかき回されるだけだと説いた人物である。 |
| 皇太子時代のニコライは、このような保守的な教育のほか入念な軍人教育も受けており、好みも関心も、当時の普通の青年将校とほとんど変わらず、また、公的な宴会よりも軍隊の仲間たちの中にいることを生涯好んだ。 |
| 皇太子時代の1890年から1891年にかけて、地中海、スエズ運河、イギリス領インド帝国、イギリス領シンガポール、オランダ領東インド、フランス領インドシナ、イギリス領香港、日本などアジア各地を訪問した。 |
大津事件
| 日本には1891年4月27日、シベリア鉄道の起工式に参列する途中、ロシア帝国海軍の装甲フリゲート「パーミャチ・アゾーヴァ」(通称「アゾフ号」)で長崎に渡航した。 |
| 長崎への公式上陸は5月4日とされていたが、翌日より何度もお忍びで下船し、九州の長崎と鹿児島に立ち寄った後、神戸を経て京都などを観光した。 |
| 日本は政府を挙げて訪日したニコライを接待した。 |
| 公式の接待係には、イギリスへの留学経験があり当時の皇族中で随一の外国通であった有栖川宮威仁親王(海軍大佐)を任命、京都では季節外れの五山送り火まで行われた。 |
| 5月11日に琵琶湖遊覧から京都に戻る際、滋賀県大津において、警備の巡査・津田三蔵が、人力車に乗って通過するニコライを襲撃して傷を負わせた(大津事件、津田の動機についてははっきりしない)。 |
| 津田はその場でギリシャ王子ゲオルギオスや、人力車夫の働きにより取り押さえられた。 |
| 政府は事の重大さに驚き、松方正義首相はじめ政府首脳が次々に見舞い、明治天皇も京都の常盤ホテル(現在の京都ホテルオークラ)に滞在していたニコライを見舞っている。 |
| なお、負傷の際に着用していたシャツについた血痕が、後に、ニコライ皇帝一家処刑埋葬で、最後まで不明であった2人分の遺骨のDNA鑑定に使用された。 |
即位と結婚
| 1894年11月1日、父・アレクサンドル3世死去を受け、ニコライは26歳で即位してロシア皇帝となった。 |
| 同じ年にドイツ帝国ヘッセン大公ルートヴィヒ4世の娘でイギリス女王ヴィクトリアの孫娘でもあるアリックスと婚配機密を受け、皇后アレクサンドラ・フョードロヴナとした。 |
| ニコライは即位すると直ちにゼムストヴォ(ロシアの地方議会)の自由主義議員に対し、専制権力を温存する意思を宣言し、彼らの国政参加の願いを「非常識な夢」として退けた。 |
| 1896年ユリウス暦5月14日、モスクワのクレムリンに所在するウスペンスキー大聖堂で皇后とともに戴冠式を行なった。 |
| 戴冠式に日本からは明治天皇の名代として伏見宮貞愛親王(陸軍少将)、特命全権大使として山縣有朋が出席している。 |
| 戴冠式の数日後、モスクワ郊外のホディンカ(Ходынка)の平原に設けられた即位記念の記念祝賀会場(飲み物とパン、それに記念品が配布されると告知された)に来訪した50万に達する大群衆の中で順番待ちの混乱から将棋倒し事故が発生し、多数が圧死・負傷するという事件が起こった(ホディンカの惨事)。 |
| この事故は約1,400名の死者と1,300名を越す重傷者(その大半は重度障害者となった)を出したがニコライ2世とアレクサンドラ皇后の事件への対応は国民からは「冷淡」「無関心」とも取れるもので、ロシア国民、特に貧困層の不興を買うこととなった。 |
日露戦争とロシア第一革命
| left|thumb|200px|1898年のニコライ2世。 |
| ニコライ2世は初め、父の政策を受け継いで蔵相セルゲイ・ヴィッテを重用した。 |
| ヴィッテは1892年に運輸大臣、翌年には蔵相に就任しており、1903年まで現職としてロシア経済の近代化につとめた。 |
| なかでも鉄道網の拡大には熱心で、シベリア鉄道における彼の功績は大きかった。 |
| ニコライ2世は、ヨーロッパにおいては友好政策をとり、1891年にフランスと結んだ協力関係を、1894年には露仏同盟として発展させるとともに、オーストリア=ハンガリー帝国のフランツ・ヨーゼフ1世や従兄・ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とも友好関係を保ち、万国平和会議の開催をみずから提唱して1899年の会議ではハーグ陸戦条約の締結に成功した。 |
| 一方、極東方面に対しては、1895年4月の三国干渉ではドイツ、フランスを誘って「清国の秩序維持」を名目に、下関条約によって日本が得た遼東半島を賠償金3,000万両と引き替えに清に返還させ、同年に東清鉄道の建設を命じている。 |
| ロシアは1894年に露仏同盟を結んで1882年結成の独墺伊の三国同盟に対抗しようとしたが、黄禍論者でもあったドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はロシアの目を極東にむけさせることによって対露関係を調整しようとした。 |
| 三国干渉は日本国民に反ロシア感情を植え付ける結果となり、日本はやむなく勧告を受け入れたものの「臥薪嘗胆」を合言葉としてナショナリズムの傾向が強まった。 |
| 1898年には旅順・大連を租借し、旅順にいたる鉄道敷設権も獲得して旅順艦隊(第一太平洋艦隊)を配置、さらに1900年の義和団の乱にも派兵して、事変の混乱収拾を名目に満洲を占領、日英米の抗議による撤兵を約束したにかかわらず履行期限を過ぎても撤退せずに駐留軍の増強を図り、さらに権益を拡大するなど極東への進出を強力に推し進めた。 |
| そして朝鮮半島への圧力を強めると日本と対立するようになった(ヴィルヘルム2世の戦争を危惧する親書に対し「朕(ニコライ2世)は戦争を欲しない。 |
| よって戦争は起きない」旨の返書をしている。 |
| 国内では1900年から1901年にかけて起こった経済危機により、工業製品の発注が激減し、失業者が増加したのみならず、農村でも不作が続いていた。 |
| そのような状況下で戦争をはじめることにヴィッテは反対し、戦争回避を主張したが、政敵であった内相ヴャチェスラフ・プレーヴェや強硬派ベゾブラーゾフらの策動によってこの主張は退けられ、ヴィッテは失脚する。 |
| 陸軍大臣アレクセイ・クロパトキンや関東州総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフも主戦論を支持して、日本に対し強硬策をとり続けたため、1904年2月に日本側の攻撃を発端に日露戦争が勃発した。 |
| ロシア陸軍総司令官となったクロパトキンは、日本陸軍を内陸部まで引き付けて補給線が伸び切ったところで一気に反撃するという戦略を持っていたために退却を繰り返したが、短期的に見れば敗戦し続けていることであり、ニコライ2世の威信の低下につながった。 |
| また海軍も旅順艦隊が壊滅させられてしまった。 |
血の日曜日事件
| 1905年1月9日、莫大な戦費や戦役に苦しんだ民衆が皇帝への嘆願書を携えてサンクトペテルブルクの冬宮殿前広場に近づくと、兵士は丸腰の10万の群衆に発砲し、2,000-3,000人の死者と1,000-2,000人の負傷者を出した(血の日曜日事件)。 |
| 敗戦による威信の低下に加え、皇帝が民衆に対して友好的であるというイメージが崩れ去った。 |
| この事件を受けプレーヴェ暗殺後に内相を務めていたスヴャトポルク=ミルスキーを解任して、後任にアレクサンドル・ブルイギンを任命した。 |
| さらに2月には叔父でモスクワ総督のセルゲイ大公が暗殺された。 |
| 戦局も好転することなく敗北が続き、本国から派遣したバルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)も日本海海戦で壊滅させられた。 |
| 海戦の結果を受け6月8日に、アメリカ合衆国のセオドア・ルーズベルト大統領が日露両国に講和会議開催を呼びかけ、10日には日本政府が、12日にはロシア政府がそれを受諾。 |
| ニコライ2世はヴィッテを再登用してポーツマスへ全権として派遣し、日本との交渉に当たらせた。 |
| 交渉の最中である6月27日には、黒海艦隊の戦艦「ポチョムキン=タヴリーチェスキー公」で水兵による反乱が起こり、翌28日には港湾でゼネストが起こり、暴動が拡大した。 |
| ポチョムキンの反乱に加わったのは水雷艇1隻と戦艦「ゲオルギー・ポベドノーセツ」であった。 |
| ポチョムキンはルーマニアへ逃げ込んだが、説得に応じて投降した反乱水兵はすべて処刑か、シベリアへの流刑を言い渡されている。 |
| これは「ツァーリを輔弼する」議会創設、信教の自由、ポーランド人のポーランド語使用、農民の弁済額の減額を認めたものだったが、この程度の譲歩では秩序回復は期待できないことから、ツァーリの諮問に応じるドゥーマ(議会)の創設に応じた。 |
| しかし、ドゥーマの権限があまりに小さいこと、また、選挙権に制限が加えられていることが明らかになると、騒乱はさらに激化した。 |
| 9月5日には日露講和条約(ポーツマス条約)が成立。 |
| 戦争賠償金を払わないなどの譲歩は得たものの、日露戦争はロシア側の敗北という形で終結した。 |
| 一方で国内の騒乱は収まらず、10月にはゼネストにまで発展した。 |
| ユリウス暦10月14日、ヴィッテはアレクシス・オボレンスキイとの共同執筆による十月宣言をニコライ2世に提出した。 |
| 宣言は9月の地方議会ゼムストヴォの要求(基本的な民権の承認、集会の自由、祭儀の自由、政党結成の許可、国会開設、普通選挙に向けた選挙権の拡大)に沿った内容であった。 |
| ニコライ2世は3日かけて議論したが、虐殺を避けたいツァーリの意志と他の手段を講じるには軍隊が力不足という現状から、ついに1905年10月30日(ユリウス暦10月17日)に宣言に署名した(十月詔書)。 |
| ニコライ2世は直前に皇帝専制権が残存する憲法(「基本法」)を発布し、国会を開催したものの、あまりに自由主義的であるとしてただちに解散、その直後の7月にゴレムイキンを更迭し首相にピョートル・ストルイピンを登用した。 |
| ストルイピンは1906年9月9日と、1910年6月14日の法律で、農奴の身分を完全に廃止して個人農を推進するなど、「ストルイピン改革」と呼ばれる近代化を進めたが、のちに、その強いイニシアティブに不快感をもった皇帝と対立した。 |
| ニコライ2世は、翌1907年の国会も前年の国会同様「不服従」の理由で会期中に解散させ、反ユダヤ主義の宣伝とテロ活動をさかんに行なっていた極右団体「ロシア人同盟」を支援した。 |
| 3度目の国会では選挙法を改正して投票資格に大幅な制限を加えたため、貴族ばかりが当選する「貴族のドゥーマ」となった。 |
怪僧ラスプーチンの台頭
| 日露戦争中の1904年8月に生まれた皇太子アレクセイは、当時不治の病とされた血友病の患者であり、皇帝夫妻は幼い皇太子の将来の身を案じていた。 |
| 1905年11月、グリゴリー・ラスプーチンという農民出身の祈祷僧が宮廷に呼ばれた。 |
| ラスプーチンは、馬泥棒の経歴が暴かれ、女信者とのみだらな素行を教会に告発され、新聞でも報じられたにもかかわらず、皇后の信頼は崩れず、教会の要職に自分の庇護者を任命させるなど、陰で絶大な権力をふるった。 |
| ストルイピンは、ラスプーチンを皇帝の家族から遠ざけるよう尽力した数少ない人物であったが、1911年、皇帝の目の前でドミトリー・ポグロフという人物によって銃撃されて死去し、「ストルイピン改革」も頓挫した。 |
大戦と革命
| 1914年6月、サラエヴォ事件が起き、7月28日にオーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに宣戦を布告すると、ロシア軍部は戦争準備を主張しニコライ2世へ圧力を掛けた。 |
| ニコライ2世とドイツ皇帝ヴィルヘルム2世との間の電報交渉は決裂し、彼は第一次世界大戦拡大の要因の一つといわれるロシア軍総動員令を7月31日に布告して、汎スラヴ主義を掲げて連合国として参戦、ドイツとの戦端をひらいた。 |
| しかし1915年春に、近代兵器を擁するドイツに大敗を喫して戦況が悪化し「大退却」を余儀なくされると、同年9月5日、皇帝は、ラスプーチンの予言もあって、ほとんどの閣僚が反対したにもかかわらず、従叔父にあたる最高司令官ニコライ・ニコラエヴィチ大公を罷免し、自ら前線に出て最高司令官として指揮を執った。 |
| 1916年12月、ラスプーチンは皇帝の従弟にあたるドミトリー大公や姪の夫ユスポフ公らによって暗殺されたが、皇帝は孤立の度合いを深めるばかりであった。 |
帝国の崩壊
| こうした状況下、アレクサンドル・ケレンスキーが指導する二月革命が起こり、3月8日にはペトログラードで暴動が起こると、ニコライ2世は首都の司令官に断乎たる手段をとるよう命じ、秩序回復のために大本営から首都にむけて軍をさしむけた。 |
| 1917年3月15日(ユリウス暦3月2日)、ニコライ2世は、最終的にはほとんどすべての司令官の賛成によってプスコフで退位させられた。 |
| ユリウス暦3月7日には臨時政府によって自由を剥奪され、ツァールスコエ・セローに監禁された。 |
| 元皇帝一家をイギリスに亡命させる計画もあったが、ペトログラードのソヴィエトを中心として反対論があり、同年8月、妻や5人の子供とともにシベリア西部のトボリスクに流された。 |
最期
| ボリシェヴィキによる十月革命がおこってケレンスキー政権が倒されると、一家はウラル地方のエカテリンブルクへ移され、イパチェフ館(資産家イパチェフの家)に監禁された。 |
| しかし、チェコ軍団の決起によって白軍がエカテリンブルクに近づくと、ソヴィエト権力は元皇帝が白軍により奪回されることをおそれ、1918年7月17日午前2時33分、ウラジーミル・レーニンよりロマノフ一族全員の殺害命令を受けた、元軍医でチェーカー次席のユダヤ人ヤコフ・ユロフスキー(YakovYurovsky)率いる、ユダヤ人・ハンガリー人・ラトビア人で構成された処刑隊が、元皇帝一家7人、ニコライの専属医、アレクサンドラの女中、一家の料理人、従僕をイパチェフ館の地下で銃殺した。 |
| 皇帝一家が地下室に集められ、処刑隊の指揮官が死刑執行を告げたとき、皇帝が当惑したように「何と言ったのだ?」と訊き返したことや、壁際に固まった10代の子供たちを含む一家に拳銃の乱射が浴びせられたこと、皇妃が皇女たちの前に立ちはだかり「子供たちは撃つな!」と叫んだことなど、この処刑の状況はきわめて具体的に判明している。 |
| スターリン時代は皇帝処刑は革命に貢献する行為とされていたため、ソ連政府は一時期、革命教育の一環として処刑に参加した兵士を全国の学校や職場で講演させ、自分の体験を英雄的行為と考える彼らが当日の情況を多くの人に詳細に語ったためであった。 |
| 赤軍出身の歴史家ドミトリー・ヴォルコゴーノフは、レーニンらによるニコライ一家の処刑を、ボリシェヴィキが「法を守る振りさえしなくなった」契機だと批判した。 |
| ソビエト連邦崩壊後の1994年、発見された遺体が本人たちのものであることが確認され、2000年8月、ニコライ2世はロシア正教会において家族や他のロシア革命時の犠牲者とともに列聖された。 |
人物
| 若いころはピエール・ロティの小説『お菊さん』の愛読者で、皇太子時代に訪れた長崎では、鼈甲細工の屋形船、煙草盆、茶箪笥、金作陣太刀、山水蒔絵長角箱、七宝焼の花瓶、竹杖、吸物椀、香炉台、竹製茶籠、美人画団扇、柳行李、鉄瓶、有田焼、長崎の全景写真など手当たり次第に日本の工芸品その他の文物を買いあさり、長崎停泊中の軍艦に市内の彫り師を招いて右腕に入れ墨をするなど、たいへん日本好きの青年であったという。 |
| 小説『坂の上の雲』においてのニコライ2世の人物描写の影響か、大津事件後は日本との関係が悪化したという説や、王朝の公文書に日本人を「マカーキー(猿)」と記載したと指摘する書籍がある。 |
死後
| その後、1979年になって民間人の地質調査隊がニコライ2世の死に関心を抱き、ボリシェビキの両親を持つゲリー・リャボフ調査員が元皇帝一家の遺骨を発見したが、モスクワで専門家に「この事に首を突っ込むな、全部忘れてしまえ」と警告されたため、遺骨の石膏の型が取られた後いったん埋め戻された。 |
| 2007年7月にはエカテリンブルク郊外で新たな二つの遺骨が掘り起こされ、翌2008年7月16日にアメリカの機関による大津事件の際の血痕付着のシャツのDNA鑑定の結果、長男アレクセイと3女マリアのものであるということが確認され、元皇帝一家全員分の遺骨が確認された。 |
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1881年
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革命家によって暗殺された祖父・アレクサンド... |
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1891年
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かけて、地中海、スエズ運河、イギリス領イン... |
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