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プロフィール
- ニック・ハイドフェルドとは
- プロフィール
- 2000年(プロスト時代)
- 2001年 - 2003年(ザウバー時代)
- 2004年(ジョーダン)
- 2005年(ウィリアムズ)
- 2006年 - 2009年(BMWザウバー時代)
- 2010年
- 2011年
- エピソード
- 経歴年表
- 関連項目
- 外部リンク
ニック・ラース・ハイドフェルド(NickLarsHeidfeld、1977年5月10日-)はドイツ、メンヒェングラートバッハ生まれのレーシングドライバー(2003年にザウバーでチームメイトとなった ハインツ=ハラルド・フレンツェンも同じ出身地)。日本では「ハイドフェルド」と表記されることが多いが、ドイツ語の発音では「(ラルス・)ハイドフェルト」に近い音となる。現役F1 ドライバーで、2000年よりF1に参戦している。元ドイツF3 ドライバーのSvenHeidfeldは実の弟。
プロフィール
| ドイツ国内のカート選手権でチャンピオンを獲得するなど活躍した後、1994年にドイツFF1600フォーミュラにステップアップ、1996年にドイツF3に参戦を果たし2年目となる1997年にタイトルを獲得した。 |
| 1998年国際F3000へ。 |
| 初年度ながらファン・パブロ・モントーヤとタイトル争いを演じる。 |
| が、最終戦で燃料規定違反が発覚し、ペナルティを受け最後尾スタートとなる。 |
| これでチャンピオンを逃しシリーズ2位で終わる。 |
| 1999年マクラーレンのテストドライバーを務める傍ら、引き続き国際F3000に参戦。 |
| 4勝を挙げチャンピオン獲得、冷静なレース運びから「コンピューター・キッド」、「クイック・ニック」と称される。 |
| この年にはメルセデスのワークスドライバーとしてル・マン24時間レースにも参戦している。 |
2000年(プロスト時代)
| 2000年よりメルセデスの契約下、プロスト・グランプリからF1デビューを果たす。 |
| メルセデスの秘蔵っ子として期待されたがプロストはチームの混迷期にありハイドフェルドはチームメイト同士の接触など精彩を欠き、実力を発揮する事ができず、無得点に終わった。 |
| 同時期にデビューした同じく期待の新人だったジェンソン・バトンに話題をさらわれる形となった。 |
2001年 - 2003年(ザウバー時代)
| 2001年にハイドフェルドはザウバーへ移籍した。 |
| 移籍直度の開幕戦オーストラリアGPから入賞を果たし、第3戦ブラジルGPには初の表彰台を獲得するなど、チームメイトである新人のキミ・ライコネンより多いポイントを獲得する。 |
| ミカ・ハッキネン離脱により空席となったマクラーレンのシートにメルセデス契約下にあったハイドフェルドも候補として上がっていた。 |
| しかし、最終的にはマクラーレンのシートをライコネンが獲得することとなり、ハイドフェルド本人は大きな失望を味わうことになった。 |
| ライコネン移籍に伴い、2002年には新人のフェリペ・マッサと組む。 |
| 4回の入賞を果たしマッサよりも戦績では上回るものの、得たポイントは7ポイントと前年より下回った。 |
| 2003年もザウバーに残留した。 |
| ベテランのハインツ=ハラルト・フレンツェンと組んだ。 |
| レギュレーションでポイント制が8位までと広がった為、辛うじて3回の入賞を果たすも、フレンツェンの戦績には及ばなかった。 |
| 又、ポテンシャルの低いマシンに手を焼いた。 |
2004年(ジョーダン)
| 2004年ジョーダンへ移籍。 |
| チームは末期的な状況で極端に戦闘力の低いマシンであったが、モナコGPで入賞。 |
| 又、カナダGPでも入賞を果たした。 |
2005年(ウィリアムズ)
| 2005年、アントニオ・ピッツォニアとのレギュラーシート争いを経て、ウィリアムズへ移籍した。 |
| チームメイトにはラルフ・シューマッハの後任として加入したマーク・ウェバーとコンビを組むこととなった。 |
| 第2戦マレーシアGPで自身2度目の表彰台(3位)、第6戦モナコGPで自己最高位の2位、第7戦ヨーロッパGPでも初のポールポジション獲得からの2位と活躍を見せ、開幕前はセカンドドライバー的な見方が多かったが、ウェバーに対して互角以上の成績を残した。 |
| 更なる活躍が期待されていた矢先、イタリアGP前のモンツァ・テストでのクラッシュの影響により、イタリアGP・ベルギーGPを欠場し、復帰を目指したトレーニング中に再度負傷してしまい、結局ブラジルGP以降の残り3戦全てを欠場することとなり、ウィリアムズの戦闘力低下と相俟って「尻すぼみ」の印象を与えることとなった(しかし、この負傷についてはウィリアムズからBMWの新チームへ移籍するためにBMWと謀ったのではと噂が絶えなかった)。 |
| 余談だが、ウィリアムズ離脱後のハイドフェルドの後任には開幕前にシート争いを演じたピッツォニアが収まった。 |
2006年 - 2009年(BMWザウバー時代)
| 2006年のF1世界選手権よりドイツの自動車でありF1に精力的にエンジン供給などを行ってきたBMWが中堅コンストラクターであるザウバーを買収し、BMWザウバーとして参戦する。 |
| この参戦に伴いBMWがウィリアムズからオプション権を買い取り、ドイツ人でありBMWのサポートを受けているハイドフェルドはBMWザウバーのエースドライバーとしてレギュラー参戦することとなった。 |
| 初めの12戦を元チャンピオンジャック・ヴィルヌーヴ、終盤の6戦を期待のルーキーロバート・クビサとともに戦い、2人を上回る戦績とパフォーマンスを示した。 |
| 2007年もクビサと共にBMWザウバーから参戦。 |
| 車の安定性やマクラーレンのスパイ事件にも助けられ、コンストラクターズランキングではフェラーリに次ぐ2位の獲得に貢献し、ドライバーズランキングでは6位のクビサに22ポイントの差をつけ、61ポイントを獲得し自己最高位の5位につけた。 |
| 2008年も引き続きクビサとのコンビでBMWザウバーより参戦する。 |
| シーズン序盤は前年の快進撃から一転、クビサの後塵を拝するレースが目立つ結果となった。 |
| 主な原因として2008年仕様のブリヂストンタイヤの特性への対応に苦慮したこと、特に予選でタイヤを適正温度に加熱する事に非常に苦労していたことが挙げられる。 |
| その一方で第15戦シンガポールGPでは6位完走で、前年の第8戦フランスGP以来25連続完走を果たし、ミハエル・シューマッハーの24連続完走という歴代1位の記録を更新した。 |
| また、この年出走したドライバーの中で唯一全戦完走を達成した。 |
| 年間決勝全戦完走はF1史上7人目の達成者となる。 |
| 2009年もBMWザウバーから参戦。 |
| KERSを搭載したマシンで臨んだ開幕戦オーストラリアGPだったが、決勝レースのスタート直後に他車と接触、終始後方でのレースとなり完走こそ果たしたものの無得点に終わった。 |
| 足掛け3年にわたり更新し続けた連続完走記録は第13戦イタリアGPまで続き、第14戦シンガポールGPでスピンしたエイドリアン・スーティルに接触されてリタイアを余儀なくされ、連続完走記録は41で止まった。 |
| BMW撤退のためレースシートを失う事が確定していたが、今期のハイドフェルドは2位表彰台1回を含む6回の入賞で19ポイントを獲得。 |
| これはクビサより上回る戦績でもあったことから、幾つかチームからのオファーも考えられていた為、ハイドフェルド本人はシーズン終了後の去就を楽観視していた。 |
2010年
| BMWザウバーの撤退に伴い、ハイドフェルドはマクラーレンなどのいくつかのチームと交渉するも、どのチームも合意には至らなかった。 |
| このシーズンより参戦したメルセデスがドイツ人ドライバーを欲していた為にハイドフェルドが移籍することが濃厚でもあったが、ミハエル・シューマッハのF1復帰という不測の事態もあってシーズン開幕直前の2010年2月4日にメルセデスのテスト・リザーブドライバーとしての契約を結び、レギュラードライバーから退く事になってしまった。 |
| しかし、メルセデスはレギュラードライバーの経験向上を念頭とした為に、結局はメルセデスに在籍中に一度もハイドフェルドに対してテスト走行の機会を与えられる事はなかった。 |
| その後、10年近いF1でのキャリアを買われ2011年のF1世界選手権よりタイヤサプライヤーとなるピレリのテストドライバーに就任することとなった。 |
| 尚、メルセデスとの契約は2010年8月に解除された。 |
| ハイドフェルドはピレリにおいてのタイヤテストを8月から9月16日にかけて数回行ったが、2010年9月14日、古巣BMWザウバーのレギュラードライバーにペドロ・デ・ラ・ロサの後任として9月17日より就任し、第15戦シンガポールGPからレース復帰することが発表された。 |
| それに伴いピレリのテストドライバーの座をロマン・グロージャンに譲り降板することとなった。 |
| 日本GPでは、復帰後初の8位入賞を果たした。 |
| その後の韓国GPでも入賞したが、ザウバーは来シーズンハイドフェルドに代わり、多額のスポンサー料を持ち込んだとされるメキシコ人のセルジオ・ペレスを起用したため、再びレースシートを失うこととなった。 |
2011年
| ハイドフェルドの去就に関して先行き不透明であったが、2011年2月6日にロータス・ルノーGPのクビサがラリー事故により骨折する重傷となった為、クビサの容態が開幕戦バーレーンGPまでに完治して復帰できなかった場合を踏まえ、ロータス・ルノーGPは2月9日に同チームのテスト兼リザーブドライバーを務めるブルーノ・セナらと共にハイドフェルドもスペインのヘレスで行われる合同テストに参加することを発表した。 |
| 2月12日、この日初めて駆るルノー・R31を86周走行し、全ドライバーの中で最速タイムを記録し。 |
| 第2戦マレーシアGPでは2位表彰台を獲得するが、その後はチームメイトのヴィタリー・ペトロフと大差ない成績に終始し、第12戦ベルギーGPにはリザーブドライバーであるブルーノ・セナにシートを奪われた。 |
| チーム代表のエリック・ブーリエは、ハイドフェルドが期待したほどの速さを発揮せず、クビサに代わってチームをリードする能力を持っていなかったためにドライバーを変更した、と述べている『F1速報』2011年9月25日号第12戦ベルギーGP、三栄書房、p.68。 |
| なお、このドライバー交代に関して、資金面で苦しいチームが、それを打開するために新たなスポンサーが期待できるセナを起用したとの見方もある『AUTOSPORT』No.1313、2011年9月8日号、三栄書房、pp.58-59。 |
| ハイドフェルドは契約の有効性を主張し、ロンドン高等法院にドライバー交代の差し止め命令を求める訴えを見せたが、9月3日に訴訟を撤回し、チーム側との和解とチームからの離脱を発表した。 |
エピソード
| 2005年7月にはガールフレンドのパトリシア(2008年に正式に結婚)との間に長女を、2007年7月には長男、2010年8月には次男をもうけた。 |
| 2007年4月28日にはイベントでニュルブルクリンクの北コースをBMWザウバー・F1.06で3周走った。 |
| F1の車が北コースを走るのは実に31年ぶりであり2009年時点での現役ドライバーでは唯一である。 |
| 2010年のオーストラリアグランプリからグランプリ・ドライバーズ・アソシエーション(GPDA)の会長を務めていたが、ピレリタイヤの開発ドライバー就任(またそれに伴うメルセデス・グランプリからの離脱)の影響から、同年8月に会長を辞任。 |
| 後任にはルーベンス・バリチェロが就いた。 |
| 2011年4月10日のマレーシアGPにおいてステファン・ヨハンソンの持つ未勝利最多表彰台記録を更新した。 |
経歴年表
| 1994年ドイツFormulaFord1600参戦チャンピオン。 |
| 1995年ドイツFormulaFord1800参戦チャンピオン。 |
| 1996年ドイツF3参戦チーム:(OpelTeamBSR)(マシン:ダラーラF396オペル)シリーズ3位.マルボーロマスターズF3参戦(チーム:OpelTeamBSR)(マシン:ダラーラF395オペル)総合3位.マカオF3参戦(チーム:OpelTeamBSR)(マシン:ダラーラF395オペル)総合6位PPを獲得。 |
| 1997年ドイツF3(チーム:OpelTeamBSR)(マシン:ダラーラF397オペル)シリーズチャンピオン.マルボーロマスターズF3参戦(チーム:OpelTeamBSR)(マシン:ダラーラF395オペル)総合7位.マカオF3参戦(チーム:OpelTeamBSR)(マシン:ダラーラF395オペル)総合優勝PP&FLを記録.F1テストドライバー,(マクラーレン(McLaren))公式テストドライバー。 |
| 1998年国際F3000参戦(チーム:WestCompetiton)(マシン:ローラB98/50ザイテック)3勝,2PP,3FLシリーズ2位.F1テストドライバー,(マクラーレン)公式テストドライバー。 |
| 1999年国際F3000(チーム:WestCompetiton)(マシン:ローラB99/50ザイテック)4勝,4PP,6FLシリーズチャンピオン.ル・マン24時間耐久レース参戦(チーム:AMGMercedes)(メルセデスCLRGT-1)事故により撤退。 |
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1977年
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ニック・ラース・ハイドフェルド(Nick Lars... |
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1994年
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ドイツFF1600フォーミュラにステップアップ、... |
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